4-6 (三年前のこと)

 ブライアンが仕事中に脚に大怪我を負ったと聞いたのは、ぼくがちょうど仕事における人生の転機を迎えた頃のことだった。高校卒業後からずっとインテリアショップの店員として働いていたぼくは、ちょうどその頃にジェーンと出逢い、独立の話を持ちかけられたのだ。

 共通の友人を通して彼の怪我のことを知った時、彼自身の体のことや家族の不安を思うと心が陰ったけれど、その精神状態やこれからのキャリアについてはほとんど心配なんてしていなかった。ぼくから見た幼なじみはどんな時でも人生上手くやってたし、振り返ってみれば不安定な時期だってあったみたいだけれど、そんな中にあっても最後には『正しい』選択をしてたくさんのことを成し遂げていたからだ。

 だからぼくがブライアンのお見舞いに行こうと考えたのは、彼のためというよりはむしろ、急な入院で負担がかかっているであろう彼の家族を手伝うためだった。もっといえば、自分が決断しなきゃいけいない色々な問題から、少しの間逃げたかったということもある。

 ブライアンの家族が仕事でお見舞いに行けない日を選んで休みを取ったぼくは、彼らから入院生活に必要な差し入れをたくさん預かって、さらにそこにいくつか自分のお見舞い品も付け足してから、ブライアンのいる病院へとのんびり車を走らせたのだった。

 高校卒業から五年が経ち、ぼく達はお互い二十四歳になっていた。

 ブライアンは大学の法学部に進学してそのまま警官になり、ぼくは働きながら通った専門学校でインテリアデザイナーの資格を取得した。ブライアンがその間に何人かの男性と付き合ったという話も聞いたことがあったし、忙しくてほとんど先には進まなかったけれど、ぼくにも五年の間に二人のデート相手ができた。

 ……デート相手の少なさはまあ置いておいて、ともかくぼくたちはお互い社会的にも人間的にも高校時代とは比べ物にならないくらいの視野の広さと経験を身につけたのだ。今の自分ならいたずらに自分の感情に振り回されずに、適切な距離で彼と接することができるだろう。幼なじみとしたい話がたくさんあった。仕事のこと、独立を考えていること、専門学校で習った面白い話、ばあちゃんが教えてくれたたくさんの素敵な言葉――彼と共有したい話題を頭で反芻していたぼくの顔は、きっと満面の笑みだったと思う。

 けれど、病室のドアを開けて当のブライアンを一目見た瞬間、ぼくは自分の間違いに気がついた。

 ブライアンは完璧な超人なんかじゃない。

 ベッドに横たわっていたのはぼくと同じ歳で手術が必要な大怪我を負い、今だ痛みと苦痛と不安の只中にある一人の若者だった。

 初めて見るブライアンの様子にショックを受けながらも、ぼくはなんとか笑顔を保ったまま病室に足を踏み入れた。彼の肩あたりに置いてあったお見舞い者用の丸イスを、勝手に彼の太ももあたりまで引きずってきて腰を下ろす。それまで、間を持たせたくてぺちゃくちゃしゃべり続けるぼくをただぼんやりと見ていたブライアンが、その時ようやく焦点の合った目でぼくを見た。

 ――……久しぶりだな、ルーク。

 胸が震えるほどに懐かしいのに初めて聞くような、この声を耳にした瞬間の衝撃を一体どう言葉を尽くせば表現できるだろう。

 ――一体、何をしにきたんだ? おれが元気な時には、メッセージの返信すらまともに返さなかったくせに。

 その時、ぼくは思い知った。月を見上げるみたいに無責任に相手に憧れていられるうちは、恋愛なんて気楽なものだった。恋愛の苦しみだなどと思っていたあの感情は、笑ってしまうほど幼稚で底の浅い、独りよがりなただの人生のスパイスに過ぎなかったのだ。

 本当の恋愛の苦しみは、自分でもどうしようもない泥沼に、暴力的なまでに強く叩き落とされた瞬間からようやく始まる。そしてぼくにとってはそれが、まさにこの瞬間だった。



 自分で自分を見失うほどにブライアンに落ちていたあの頃のぼくが今の状況に立たされたなら、よく考えもしないままに、自分の全てを投げ出すようなばかな真似をしてしまっていたかもしれない。

 やはり人は成長するものだ、なんてことをしみじみ考えながらぼくは自分を押さえつけたままのブライアンを見上げ、理解あふれる微笑みを浮かべた。

「わかったよ、ブライアン。婚約者を連れてこないと遺産を相続させないって、ハンナから言われたんだろ?」

「なんだそれは」

 わけがわからないと言いたげに、ブライアンが眉間にしわを刻む。というか、そろそろぼくにのしかかるのやめてくれないかな。この体勢はほんの少しばかり、ぼくの心臓に悪い。あとたぶん腰にも。

 まあ考えてみればぼくの知る限り、ダーシー家やその親族に不幸があったという話は聞いたことがなかったから、遺産にまつわる偽装結婚というよくある話は却下だ。

 なけなしのロマンスの知識をひっくり返しながら、ぼくは続けた。

「じゃあ、セスかハンナが連れてきた人との結婚を避けるために、急ごしらえの婚約者が必要になった?」

「お前……あの人たちが、息子の人生に口出すようなことをすると本気で思うか?」

 言われてぼくは口をつぐんだ。

 それはまあ、確かにどうひっくり返してもありそうにもない。

「ということは、あれか。破天荒な行いが問題になって、世間に対してまともな自分をアピールするためにまじめで品行方正な恋人が必要になった!」

「誰が破天荒で、誰が品行方正だって? 説明してみろこのトラブルメーカー!」

「ふん。まだ自分は常識人のつもりなのか。デートもしてないのに結婚だって? 全くもう」

「……少し焦りすぎただけだ。お前が逃げようとするから、ついうっかりな」

「ついうっかり百人と結婚することにならないよう気をつけろよな。自分がクールだということは自覚してるんだろ、色男」

「別に、プロポーズが趣味というわけじゃない。焦ってタイミングを見誤っただけで、お前が受け入れてくれるならおれの方はいつでもサインをする準備はできている」

 男の言葉に、さすがのぼくも心底震え上がった。

「お前、まじでどうしちゃったんだよ……!」

「おれは昔からこんな風だったさ。自分に問題があるということは分かっていたから、聞き分けよく振る舞ってはいたが」

 ここ二週間くらいの遠慮がちな態度をかなぐり捨てたらしい。ブライアンのやけくそ気味の笑顔に、けれど逆にぼくは少し冷静になった。

 そういやこいつ、幼いときはやたら頑固でよく癇癪を起こして泣いてたっけ。

 小学校高学年の頃にはそのがんこさも長所になり、高校ぐらいからは何かに執着する素振りは鳴りを潜めていたけれど、どうやらそれは表面だけのことだったようだ。

 ぼくは、自分のことを無理やりどうにかするつもりはない代わりに逃すつもりもなさそうな男をあらためて見上げた。今や、ぼくは完全にブライアンに押し倒される格好になっていた。ぼくの右手は相変わらずブライアンの左手に押さえ込まれ、彼の強靭な体を支える右手はぼくの顔のすぐ隣に置かれている。縦に長いから遠目にはすっきりしたシルエットだけれど、近くで見ると厚みのある体だ。ブライアンが重力に抵抗しているからこの体勢を保っていられているけれど、彼が重力に従ったらきっとその瞬間、ぼく達の間にある全ては一気に崩れ去ってしまうだろう。

 ――その方が楽でいいかもしれない。

 そんな考えが突然頭の片隅に滑り込んできて、ぼくは自分でもびっくりしてしまった。けれど考えてみれば、それは悪くないアイデアのように思えた。ぼくは本当に疲れていて、そしてやや自分を見失いかけていた。この、かつて自分が大好きだった男の好意で、自分の価値を推し量ってみたいという甘い誘惑が頭をもたげる。

 そして、そんなぼくの逡巡に気がついたらしい男の手に、かすかに力がこもった。

 じわりと張り詰めていく空気の中で、ぼくは自分をじっと見つめる獰猛な目からなんとか目を逸らし、自分が考えていたよりもずっと大きな労力を使ってブライアンの胸を空いた左手で押し返した。

「……お前が本当にぼくとのこの先に興味があるって言うのなら、一旦、起きて話そうぜ」

「ルーク」

 低い囁きにまた少し心が動いたけれど、ほんのひとときだけ得られるまがい物の満足と引き換えに、自分が抱えこんだものを今、放り投げてしまうわけにはいかない。

「……早くしろって。お前だってそろそろ腕も腰も辛いだろ」

「おれの方は、あと十時間は耐えられるが」

「それならソファの前で腕立て伏せでもやってろよ! ――この体勢だと冷静に話ができないんだってば。分かってるくせに!」

「分かってるからやっているんだがな」

 そう嘯くと、ブライアンはソファーを軋ませながら、わざとらしくゆっくりと体を起こした。体をすくませたままじっとそれを見守っていたぼくは、彼が離れた瞬間自分の心臓がどれほど激しく暴れ回っていたのか思い知り、思わず強く目をつぶった。どくどくどくと早鐘を打ち続ける心臓を押さえ、喘ぐように浅いため息をつく。

「ほら、手を貸せ。またさっきの体勢に逆戻りしたいと言うなら話は別だが」

「なあ、お前ぼくが好きだっての、本気なのか」

「……さっきの体勢がご希望らしいな」

「いいから答えてくれ」

 ブライアンがその長い手を伸ばし、寝転んだままそっぽ向いていたぼくの顎を掴んだ。自分を見るよう、その指先でぼくを促す。

「おれは、お前が好きだ」

 シンプルで力強い言葉が、真っ直ぐにぼくの目の奥へと届いた。嘘偽りのない言葉。自分が促したくせに、ぼくの胸に再び、煮えたぎるような強烈な反発心が沸き上がる。

 ばね仕掛けの人形のようにソファから飛び起きて、ぼくはブライアンを至近距離からめつけた。

「……ここ二週間で、ぼくに興味を持ったとでも言うつもりか?」

「いや。おれはもうずっと、お前のことが忘れられずにいた」

「じゃあ、三年前のあの言葉は、一体なんだったんだよ……!」

 跳ね上がったぼくの言葉を予想していたのだろう。ブライアンが口を閉ざしたまま、ただ静かな目で受け止める。

「振ったつもりはないって言うけど、お前、不快だって言ったじゃないか。ぼくのお前への気持ちが、不快だって」

「言ったな」なぜかぼくよりも辛そうな顔をして、ブライアンが肯定する。「まさかおれのことが好きだなんて言わないだろうな。そんなことはありえない。気分が悪い――あの時おれは、確かにそう言った」

「……ちょっと待った、なんだって?!」あまりの言葉にぼくは飛び上がった。「おま、お前、さすがにもうちょっと言葉を選べよな……! めちゃくちゃかわいそうじゃないか! ぼくが!」

「忘れていたくせに」

「ものすごく傷ついたことは覚えてたよ! いや、お前も大変な時期だって分かってたけどさ、それにしてももっと言葉を選ぶことはできなかったのかよ……お前にとってぼくは、男としての魅力はなかったかもしれないけれど、少なくとも友達ではあったよな?」

「お前は魅力的だったさ。腹が立つほどな」

 その真意を疑いたくなるほど淡々と、ブライアンが言う。

「おれが大学を卒業してから二、三年会わない間に、お前は目が覚めるほど魅力的になっていたよ。おれが守らなければと思っていたお前はもういなかった。だが、おれの方は……」

 そのまま男は言葉を途切れさせた。続く言葉をたぐるように視線を彷徨わせ、続ける。

「……とにかく、あの時はお前の気遣いが死ぬほどありがたくて辛かったんだよ。お前なしでは明日のことすら考えられないほどに、おれはお前に依存していたからな」

「ブライアン……」

 思い出さないようにしていた病院での日々が、急速にぼくの胸に迫ってくる。ブライアンは苦しみも恐れも、自分の感情を何ひとつぼくに打ち明けようとはしなかった。ただ空っぽの目をして、ずっとひとりで何かを考え続けていた。

 信じられない。ブライアンがぼくに、自分の正直な思いを語ろうとしている。

 できるだけ驚きを表に出さないよう気をつけながら、ぼくは口を開いた。

「……そういえば、ぼくと家族以外の人たちの面会を断ってたみたいだね」

「あの頃は、常に神経がむき出しの状態だったからな」

 ぼくの声が落ち着いたことに気がついたのだろう。ブライアンの声から少し緊張が解ける。

「家族にも面会を控えてもらったくらいだ。お前以外の面会はただ、耐え難くてな。遅れてきた反抗期だのなんだの散々言われたが、わがままを通させてもらった」

「そっか」

 ため息混じりにそう呟いて、ぼくはブライアンから視線を外した。うつむいたまま距離を取ろうとするぼくの手を、男がさりげなく再びつかみ取る。

 彼が本心を打ち明けてくれたことで、ぼくの中で何かが変容し始めていた。そしてその変化に呼応するように、微かな違和感がゆっくりと頭をもたげる。

 今この瞬間までぼくは、自分はブライアンにひどい言葉で振られたから傷ついたのだと思っていた。ずっとそう言い聞かせてきた。……でも、本当にそうだっただろうか。あれほど自分自身のことを、吐き気を覚えるほどに嫌いになったのは、もっと他に理由があったんじゃなかったっけ。

 湧き上がる問いに気を取られていたぼくは、続くブライアンの言葉に凍りついた。

「おれはあの頃とは違う。そのことをお前に証明したい」

 やめてくれ――と言いかけて、ぼくはすんでのところで言葉を変えた。

「そんな必要はないよ、本当に。考えてみれば、お前が大変だった時期に人に気を配れっていうのは、我ながらずいぶんと自分勝手だ。できれば忘れてほしい」

「そんなふうに言わないでくれ。おれが――」

「分かった、じゃあさ、お互い水に流して忘れようぜ! あの頃はお互い若かったよな。もう笑い話にしていい頃だよ、きっと」

 早口でまくし立てるぼくをじっと見つめていたブライアンが、ぼくの手を握りしめたままゆっくりとその青灰色の視線を外し、そのままソファに深くその広い背中を預けた。正面の壁を見つめ、口を開く。

「あのな、ルーク。お前がどれだけ前向きに振る舞おうと、おれはお前がおれから逃げ出したくなっているのは分かっているし、まだおれに好意を持ってくれていることも、おれの言葉にまだ傷ついているのも分かっている」

 ……全く、いやなことを突きつけてくるものだ。これだから幼なじみってやつは。

 思い切り顔をしかめるぼくの顔を見ないまま――思いの丈を込めたからぜひ見て欲しかったんだけど――ブライアンが続ける。

「お前がおれの前から消えた後、しばらくは働かずに世界のいろいろな所を回ったんだ。ばかみたいだが世界中の美しいものを見るたびに、お前のことが思い出されたよ。おれはきっと、お前を手に入れるために行動を起こさなければ永遠に後悔し続けるだろうと観念した。だからお前が何と言おうと、おれは今の自分があの時とは違うことをお前に証明し続けるよ」

 不覚にも心が揺れた。美しいものを見るたびにぼくを思い出したって? こんな言葉を聴かせられて何も思わないやつがいるだろうか。

 けれど、彼の言葉を嬉しく思う反面、どうしてだかぼくの心は重くかげっていくばかりだった。煩わしさとも罪悪感とも違う黒い霧のようなものがまとわりついて、ブライアンが言葉を重ねるごとに濃く重く濃縮されていく。

 しばらく壁を凝視しながら止めていた息を、ぼくはそろそろと吐き出した。

「……ぼくがほしいから、自分を証明したいっていうことであってるか?」

 ブライアンが一瞬だけ言葉を詰まらせて、すぐに「そうだ」と頷いた。

「分かった。ぼくと付き合おう、ブライアン」

 はっとこちらに顔を向けた男に向かって、ぼくは続ける。

「だからぼくに、今のお前を証明しようなんて考えはやめてほしい。ぼくはそんなこと望んでない」

 それまでただ呆然とぼくの言葉を聞いていたブライアンが、最後に提示された条件にやや不満そうな顔をした。

「だがルーク。あの頃のおれは」

「あのさ、ブライアン。お前がぼくと付き合いたいのは、ぼくと一緒にいるのが嬉しいからじゃないのか? 罪悪感や執着でぼくを恋人にしたいだけか?」

「違う」

 間髪入れずに否定したブライアンに、ぼくは畳み掛けた。

「だったら、お前はぼくに何も証明なんてする必要なんてない」

 本当にぼくは、逃げることにかけては超一流だ。

 ブライアンはしばらくの間、納得いかなさそうに唸っていたけれど、最終的にはため息混じりに頷いた。

「……わかったよ。お前がそう言うのなら」

「うん。――ありがと」

「いや」

 微笑みまじりの優しい声でそう言って、ブライアンは再び視線を目の前の壁に戻した。キスのひとつでもするのかと思っていたぼくはちょっと拍子抜けして、ブライアンにならってソファの背もたれに体を預ける。

 勢いで恋人同士になったはいいけれど、この後一体どう振る舞うのが正しいのか見当もつかなかった。ブライアンに夢中だった頃に恋人として一緒にいる姿なんて山ほど想像したけれど、ただの想像と実際に相手がいるのとではわけが違う。

 試しに肩にでももたれかかってみようかな、なんていうぼくの悩みをよそに、ブライアンが思いもよらない話題を掘り返した。

「なあ、ルーク。お前、あの青い鳥を最後まで仕上げなかっただろう」

「青い鳥って、さっき話に出た小学校の工作のこと? 確かに色を塗り終わったあたりで飽きてやめたけど……」

「お前が最後まで仕上げずに放り出して、家にも持って帰らなかったあの鳥が、あの後どうなったか知っているか?」

「……考えてもみなかったな。たぶん捨てられたんじゃないかな」

「鳥の課題の見本として使われているぞ、小学校で。おれの弟妹たちが言っていた」

「うそだろ!」

「美術のミスター・ゴトウが毎年生徒の前で絶賛しているんだと。まあ、鳥を立たせてた木の幹の接着については、『明らかに手を抜いている』とぶつぶつ言っていたらしいが」

「ぼくは小学生だったんだぞ。あの人、本当に手厳しいんだから!」

「とにかくあの鳥を――ミリアムは認めなかったが――評価していた人はいたんだ」

 ブライアンの言葉に、ぼくはほんの少しの間黙り込んだ。

 恋人同士の話としては、ちょっと色気に欠けるんじゃないかな。でもまあ、ぼくの心の琴線に触れたのは確かだ。

「……そっか。教えてくれてありがとな、ブライアン」

 ようやくそう言って、ぼくはやや乱暴に自分のひたいを彼の胸に押し付けた。ごく自然な動きで、長い両腕が再びぼくを受け止める。

 あの鳥を持って帰らなかったのは、母さんに認められなかったからじゃない。母さんに褒められることが、何よりも堪えがたかったからだ。もしぼくがあの鳥を持ち帰っていたら、きっと母さんは褒めてくれただろう。ぼくを叩いたことをきれいに忘れ去った、誇らしげな笑顔で。

 この気持ちを言葉で説明しても、たぶんブライアンは理解できない。

 ぼくにとって、あの時のことを覚えてくれている人がいたことは救いだった。それがほからなぬブライアンだったことが、どれほど悲しくて嬉しかったか。

 ……きっとこの恋は、またぼくの方が泥沼に囚われて終わる。

 頭をよぎった後ろ向きな考えを振り払うように、ぼくはぐりぐりと額をブライアンの肩口にさらに押しつけた。その何がおかしかったのか、ブライアンが小さく笑い声を上げてぼくをさらに強く抱きしめる。それがなぜかぼくの不安をより一層かき立てて、ぼくは彼の腕の中で顔をこわばらせた。必死で、今この光景がどれほど完璧なものかを自分に言い聞かせる――清潔な空間、完璧に整頓された部屋、自分のために作られた食事、そしてぼくを抱きしめるブライアン。

 理想を現実に落とし込んだような完璧なシーンを客観的に確認して、ぼくはようやく少し安心した。おそるおそるブライアンの背中に手を回して、そのまま彼の胴体を締め上げる。

 ブライアンはぼくの抱擁にしっかりと応えた後で、ぼくの頬を両手で包み、ぼくにちょっと長めのキスをした。



 その夜、ぼくはなかなか寝付けなかった。

 日中は、あれほど眠いと思っていたはずなのに。考えることが多い一日だった上に、ブライアンとのひともんちゃくで頭が完全に覚醒してしまったのかもしれない。

 広いベッドでひとり何度も寝返りを打ち、ただため息を量産する。子供の頃は、眠れない夜は時間がなかなか過ぎていかなかった。今は、ただぼんやりと考えごとを頭で流しているだけで、ぼくを置き去りにしたまま数時間もの時が飛ぶように過ぎていく。

 それでも、どうやら浅い眠りは訪れたようだった。白夜のように、完全には闇へと逆転しない薄明かりのまどろみ。その狭間で、ぼくは夢のかけらに頬を撫でられて、そのまますぐに現実の世界へと引き戻された。

 実質三十分から一時間程度の睡眠か。明日――今日は昼寝の時間を作らなくちゃな。

 夢現のままそんなことを計画して、ぼくは再び思考の渦に囚われる。ここ数日の間に自分が受け取った、たくさんの声。自分の中から湧き上がる声。それらの声に、ぼくの頭の中に搭載された自動音声が、決まりきったいつもの言葉を繰り返していく。

 やがて、ぼくの頭にアランの声が再生され始める。

 約束だよ、と繰り返す懐かしい声にぼくが何かを答えている。そいつの言うことになんて耳を傾けるなよ、と自動音声が繰り返す。

 カオスだな、とぼんやり考えていたぼくは、その時あることに気がついてキングサイズのベッドで跳ね起きた。明らかに睡眠は足りていないはずなのに、頭は完全に覚醒して、思考の霧はきれいに晴れてしまっていた。

「うそだろ……思い出せない」

 ひとり呆然と呟いて、ぼくはベッドの真ん中に座り込んだまま、必死に頭をぐるぐるを動かし始める。つい昨日まではっきりと思い出せていたのに、まるでそこだけ虫に喰われたように記憶が欠落しているのがわかって、さらに困惑が深まった。

 頭の中には、確かに保存されているはずだった。怯えた顔、怒った顔、思い詰めた顔、数少ない貴重な笑顔――彼のことを話すときはいつも、その姿が鮮やかに頭の片隅に再生されていた。

 それなのに、どうしてだかぼくは今、アランの顔を全く思い出せなくなっていた。

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