7-5 (積み上げてきたもの)

 大きな二つの窓。重厚なロイヤルブルーと金糸のカーテンに、全ての家具は装飾も鮮やかなアンティーク、荘厳で伝統的なインテリア。静かで調和の取れたぼくの聖域――は今や、我ながら呆れるほど荒れていた。

 床に投げ出されたクッション、開けっぱなしのカーテン、起き抜けのまま整えられていないブランケットとシーツ。ここ最近のぼくの心を表現しているかのように、全てがおざなりだった。ずっと目を背けていた。誰にも見られたくなかった。特にぼくの幼なじみにだけは絶対に。

 途端にむかむかと熱を持ち始めた胃を深呼吸で落ち着かせ、ぼくは床に転がっていたクッションに歩み寄る。身を屈めて手に取り、軽くほこりを払った。

 始めは、このクッションカバーだった。

 高校を卒業とともに家を出たぼくは、すぐに自分の故郷とブリズベンの中間あたりにある町のインテリアショップで働き始めた。ぼくが憧れてやまない世界で働けて毎日幸せだったけれど、もののケアの仕方を知らず、ほうきすらまともに扱えないぼくは当時、店では随分と浮いた存在だったように思う。

 全てが順調というわけではなかったけれど、それでもこの日々の中にはぼくが長年望んだ何物にも変えがたいものがあった。散らかることのないぼくだけの部屋だ。部屋には何もなかった。机も本棚も、カーテンもベッドも。ぼくは毎日ぴかぴかに拭きあげた床に直接マットレスを敷いて生活していた。幸せだった。そして同時に恐れてもいた。むだなものがこの空間に紛れ込んでしまうことを。毎日帰ってきてすぐに、まず家の掃除をした。定期的に取り締まらないと、いらないものなんてあっという間に増殖してしまうことを知っていたから。

 このクッションカバーに出会ってしまったのは、そんな時だ。

 ひと目見た瞬間に恋に落ちた。スタイリッシュで美しく、そしてとんでもなく手触りのいい四十五センチ×四十五センチ、たった二千二十五平方センチメートルの二枚の布のことばかりを考えるようになっていた。このクッションカバーをぼくの部屋に置いたのなら、どれほど素敵だろう。想像しただけで日々に彩りが増した気がした。

 けれどこれがむだなものでないとどうして言えるだろう?

 クッションなんて、なくても生活していける。それにこのクッションカバーが呼び水になって、際限なくものを欲しがるようになるかもしれない。物欲の渇きに苦しむようにならないか、ぼく自身が一番心配し、怯えていた。

 半年ほど悩んだ末、ぼくはそのクッションカバーを買った。一緒に買ったクッションにクッションカバーをセットする瞬間は、言葉にならないくらい最高の気分だった。ずっと頭で思い描いていた通りに、ぼくはベッドの上にそのクッションを置いた。その瞬間、それまでグレーだったぼくの部屋が突然鮮やかに輝いたように思えた。

 自分自身の予測に反して、ぼくはいつまで経ってもこのカバーに夢中だった。同時に、心のどこかで悪いことをしてしまったのではないかという恐れが消えなくて、ばーちゃんにすらこのカバーのことを言えなくて――そしてぼくはぼくだけの空間に、このクッションを閉じ込めたのだった。

 それが、ぼくの秘密の始まり。

 このカバーを手に入れてから、ぼくは初めて「ものを大切にする」ということがどういうことなのかを知った。布のことや洗剤のことや正しい洗濯の仕方について勉強して、慣れないながらも丁寧にこの宝物をケアしていく中で、ぼくはみんなが当たり前に知っていたことを、自分がいかに何も知らなかったのか痛感した。粗雑だった自分があの店で、よくクビにならなかったものだと心から思う。

 自分が軽視していた「ものの扱い」について考えを改めたことで、ぼくはますます仕事が好きになっていた。そして同時に、徐々にではあるけれど職場にも馴染むことができるようになったのだった。

 手の中の感触を確かめるように、ぼくは丁寧にクッションの形を整える。心の中でありがとうと呟いて、今の定位置である一人がけチェアの上に置いた。

 体を起こして部屋をふり返った。すっかり暗くなった窓の方へと歩み寄り、重厚なロイヤルブルーのカーテンに手をかける。――次に出会ったのは、このカーテンだ。

 ぼくの働くインテリアショップに、ある時入荷されてきたカーテン。入荷確認をしていたぼくは、一目見てその美しさと胸をうつ模様に釘付けになってしまった。

 カーテンを凝視して動かないぼくの様子に気がついて、一緒に作業をしていたパートタイムの大学生がぼくに声をかけた。

『意外な趣味だな。見る分にはおれも好きだけど。……アラベスクか。凝ったデザインだ』

『アラベスク……?』

 ぼくのおうむ返しに、大学生は怒りと嘲りに眉と口角を同時に上げた。器用な表情するもんだ、とかなんとかそんなことを考えていたぼくに、彼は作業に戻りながらいらいらと言った。

『信じられん。社員のくせにどうしてそんなことも知らないんだ。商品名にもなってるのに!』

 全くごもっともな意見だ。

 両手で片方ずつ丁寧にカーテンを閉めながら、ぼくはかつての自分の不勉強ぶりと彼の正論を思い出し、思わず苦笑する。

 当時のぼくは、彼の人をばかにしたような物言いが苦手で遠巻きにしていたし、彼の方もぼくに積極的に声をかけることはなかった。けれどその時は不思議と彼のきつい言動が気にならなくて、それどころかいつも目にしているはずの言葉の意味が急に気になってしまって、ぼくは青年に食いついたのだった。

『アラベスクって、この模様のことだよね。こっちのダマスクとどう違うんだ?』

 ぼくの質問に、彼は少しの間逡巡していた。自分で調べろと言いたげな、いかにも面倒くさそうな様子――いや、今考えればおそらく、ぼくにそれを語る価値があるのかと品定めをしていたのだろう。彼はじろじろとぼくを見て、ついに諦めたように口を開く。

『……どちらも、イスラム文化でモスクとかに使われていたデザインを、ヨーロッパに輸入してできたものだ。起源はギリシャ・ローマ・ササン朝ペルシャで使われてた植物の葉や蔓のモチーフで、それが幾何学と合わさってより複雑化して発展したのがアラベスク模様』

『幾何学? これが? ぼくの知ってる幾何学と違う』

『植物モチーフだから分かりづらいけど、道具を使ってルールと計算に沿って描かれたものなんだ。だからほら、こうして反復性があって、どこまでも規則通りに続いていくだろ』

『なるほどお』

 ぼくの感嘆の声に、本当に理解しているのか少し疑わしそうに眉を上げつつ、大学生が続ける。

『アラベスクで単語検索しても山ほど多様なパターンは出てくるけど、まずは植物模様イスリーミで調べたほうが面白いかもな。このカーテンは、本当に面白いよ。たぶんデザイナーが新しく考案したパターンじゃないかと思う。古代ギリシャの壺……それか東洋の植物紋様を思わせるデザインだ。全体の色や形自体は古代ローマに憧れすぎたルネッサンス期のデザイナーのカーテンを現代風にした感じ』

『ふうん。つまりいろんな地域で長い間積み重なったものが、このカーテンになったっていうことか』

『ま、そういうことだな。買うなら早めの方がいい。これはたぶん人気が出るよ』

 どちらかというと苦手に思っていた相手にどうしてそんなことを尋ねようと思ったのか、今となっては分からない。けれどその時、とにかくぼくは自分でも意外な言葉を彼に漏らしていた。

『このカーテンはぼくに似つかわしいと思う?』

『はあ?』思い切り顔を顰めて、大学生が聞き返した。『もしかして男らしくないとかそういう話か?』

『違うよ。ぼく自身がこのカーテンに見合うかっていう話だよ。値段だってこんな……わあっ、めっちゃ高い!』

『普段いくらのカーテン使ってんだよ、インテリアショップの店員のくせに……確かにこれは他のやつに比べてかなり高いな。でもこの値段は妥当だぞ。生地もしっかりしてるし、デザインは既製品じゃないし、縫製だってこれ、たぶん職人の手作業だ』

『そんないいものを、ぼくが使っていいのかな』

『知らね。生活を圧迫しないなら買えばいいし、無理ならやめれば。おれなら、自分の作品に見惚れるやつにこそ使って欲しいと思うだろうけどね』

 そのまま彼といろいろな話をした。身の回りのすべてのものがデザインのヒントになるとか、美術館や博物館には行ったほうがいいとか、歴史は意外と役に立つとか、そういうことを夢中になって語り合った。当然のことながら、作業の手が止まっていたぼく達はそれはもう、こっぴどく怒られて危うくクビになるところだったんだけれど。

 語り合う中で、彼が言った。

『勉強しろよ、社員なんだからさ。向上心とか全然ないのムカつくんだよ。おれ、あんたのセンスだけはそう悪くないというか、まあちょっと見どころがあると思ってるんだ』

 その日以降彼と話をする機会はなかったけれど、彼の言葉だけはずっと心に残り続けていた。その半年後にぼくはカーテンを買い、そしてそのさらに半年後にぼくは社会人向けの専門学校への入学を決めたのだった。

 カーテンを開け閉めするたびに歴史と、その時代その時代を生きた人々を思った。世界に溢れるもののデザインを、そのセンスと計算によって緻密に磨き上げてきた人たち。彼らの息吹を知ってからの学びは、辛くても楽しいものだった。

 学費を捻出するために、外食を止めて自ら料理をするようになったのもこの頃だ。調理に失敗して一食抜く羽目になったり、栄養バランスなんて考えない食事に体調を崩したりもした。当たり前のものなんて何ひとつ、この世界には存在しなかった。物一つ、食事一つがどれほどの歴史と、奇跡と、人々の想いの賜物であることか。自分の人生には感謝が圧倒的に足りなかったことを思い知った。

 カーテンをぴったりと締め終えると、今度はシーツを整えるべくぼくはベッドへと歩み寄る。手のひらでシーツのシワを伸ばし、ブランケットを整えた。その出来栄えに満足して、ぼくはイタリア製のアンティークのベッドフレームを手のひらで撫でる。

 ――無理に自分を好きになろうとしなくていい。まずは身の回りに、自分が本当に、心から好きなものだけを置きなさい。それもまた、自分を愛するということだ。

 懐かしいばーちゃんの声に、ぼくは目を瞑って微笑んだ。

 この、ベッドフレームをぼくの聖域に招き入れた時期のことは、今でも少し切ない。

 ブライアンの怪我を機に彼と再開して、現実から逃げるように彼に夢中になって、拒絶されて、そして自尊心をごりごり削りながら彼と自分と向き合って――やつがもう自分の手を必要としないところまで回復したとようやく認めたぼくは、足を引き摺るように病院を後にしたまま途方に暮れた。あれほど望んだ自分だけの空間なのに、その時ばかりはどうしても戻る気になれなくて、ぼくはそのままばーちゃんの家に逃げ込んだのだった。

 自分への絶望に苦しむぼくに彼女は、自分が心から大好きだと思えるものだけを部屋に置くことを勧めてくれた。

 その時にぼくの頭に浮かんだのがこのベッドフレームだ。イタリア製のアンティーク、この美しい芸術品に出会ってから二年が経っていた。出会った瞬間に悲恋になると思った。専門学校生でお金もないぼくと、由緒正しき家柄で器量もいいベッドフレーム。ついでに値段だって当時のぼくには天文学的な数字だった。

 カーテンとクッションカバーだけでも、十分に心安らぐ素晴らしい部屋だ。そう言い聞かせて、ベッドフレームのことはすぐに忘れた。

 だから、ばーちゃんの言葉にこのベッドフレームのことが浮かんだ時、ぼくは一瞬苦痛を忘れるくらいびっくりした。けれど一度思い出してしまったら今度は、どうしても頭から離れない。

『欲しいものが、ぼくよりもずっと素敵で不釣り合いだったら?』

 ぼくの言葉に、ばーちゃんは呆れたように声を上げて笑った。

『大きな買い物ってのはね、五年後や十年後、場合によっちゃあ五十年後の自分に相応しいものを選ぶものさ』

 五年後の自分自身の姿なんて、その時は想像もつかなかった。それどころか十分後の自分の姿すらひどく遠いように思えた。それでも、五年後の自分がこのベッドにふさわしい人間になりたいかという問いにだけは、素直にイエスと答えられそうな気がした。

 ばーちゃんの家からの帰り道で、ぼくは二年前にあのベッドフレームに出会った店に立ち寄った。記憶の中の通りに、少しも色褪せることなくその美しいフレームはそこに飾られていた。

『あのベッドフレームがほしいか?』

 自分自身への問いかけに、ぼくの内側から答えがあった。

 ――欲しい

 専門学校から卒業しても節度ある生活を続けていたぼくには、多少の蓄えがあった。この、なくても生活には困らないものを購入したらぼくの貯金は再び底をつき、しばらくはまた質素な生活を余儀なくされるだろう。

 分かっていながらも、ぼくの目は釘付けになったままだった。

 ずっと働き続けていた職場で、この頃のぼくはまた浮き始めていた。当然だ。ぼくのアドバイスを求めて来店する人の数は自分でも制御できないほど膨れあがり、ぼくの売り上げを押し上げていた。もうすでにぼくは、自分でも気づかないうちに、いちショップ定員の範囲を超えてしまっていた。

 自分を抑えていちショップ店員に戻るか、慣れ親しんだ世界を飛び出すか、ぼくはもう、決断しなければならない。

『わかった。ぼくがお前にあれを買ってあげる』

 ぼくの心に灯りが灯ったのがわかった。喜びに弾むむず痒い感覚。少しだけ、自分が愛おしく思える。

『だから、ぼくと、もう少しだけ踏ん張って生きてみようか』

 そうすれば五年後の自分は、本当の意味で人を幸せにできる人間になっているかもしれない。

 あれから五年が経った。

 独立してなんとか事業を軌道に乗せて、文字通り寝る間も惜しんで働き続けて、そして取り憑かれたように自分の好きなもので自分の空間を埋めたのに、ぼくは性懲りも無くこうして同じ場所で苦しんでいる。

 ヘッドボードには、かすかにほこりが積もっていた。ぼくは洗面所から固く絞った雑巾を取ってきて、ヘッドボード、机、椅子、シーリングライト、窓枠を順番に拭き上げていく。その一連の行程を終え、最後にモップで部屋の床を隅々まで丁寧に磨いた。かつての自分が願った姿に、今の自分がなれているのかは疑問だった。それなのに、どうしてだろう。

 ぼくの創り上げたこの部屋はとても、とても美しくて――ぼくにこうして、人としての根源的な安らぎと勇気を与えてくれるのだ。

 この悦びを世界中の人に知って欲しかった。そのための妥協なんて何ひとつしてこなかった。依頼してくれた人一人ひとりに深く潜り、寄り添い、時に鋭くその心の奥底を抉り出し、限られた予算の中でいつだって最善のものを世界中からかき集めた。見つけられなければ自らの手で作り上げることもあった。それは、自分自身と深く結びつく悦びを、ぼくを信じて訪ねてくれた全ての人に味わって欲しかったから。

 彼らを、幸せにしたかったからだ。

 ぼくのポケットで端末が震える。強い確信を持って、ぼくはその画面に目を走らせた。

『無事なんだな?』

 思わずデバイスを強く握りしめて、胸に押し当てていた。なあ、ぼくは自分がみんなからしてもらったように、周りの人を――こいつを、幸せにできるだろうか。

 ぼくの自問に、答える声があった。

 ――当然だ。今まで幸せにしてきた人たちの笑顔を覚えているだろう。

「……ははっ」

 小さく笑い声をあげ、ぼくは勢いよく踵を返した。聖域を飛び出して一目散に走りながら、乱暴手つきで家の鍵を掴み取る。

 ブライアンとやり直せる確信なんて、これっぽっちもなかった。あいつに謝る言葉だって何一つ浮かばない。でも、今までやつがぼくに会うために何度も何度も勇気を振り絞ってくれたように、今度はぼくが向かわなきゃいけない。今ここで動かなかったら、ぼくは何度生まれ変わっても、きっとこの瞬間を後悔することになる。

 少しも呼吸を落ち着けられないままエレベーターを待ち、焦るばかりで何もできないままエレベーターがグランドフロアに到着するのを待った。先に返信をするべきかもしれないということには、エレベーターを降りてから気がついた。震える手で打ち込んだ『今、どこにいる?』というメッセージに『会いたい』という言葉を付け加えるかどうか悩んでいたぼくは、レセプションに立つあまりにも見覚えのある人影に気がついて棒立ちになった。


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