第7章 ぼくの語る言葉で
ぼくはクリスチャンだ。そう自己紹介をしたらきっと、世界中に散らばったキリスト教徒の中のいく人かは顔をしかめるだろう。キリスト教が二千年とそこらの歴史の中で同性愛を弾圧してきたことは学校でも習うまでもなく知っていた。けれど、その歴史を本当の意味で理解したのはトマスがぼくとブライアンの話を聞いてショックを受けたと聞いた時のことだ。
ぼくの生まれ育った町に長く在籍する神父は、ぼくとブライアンが同性愛者だと知った時、なんと半年もの間悩み抜いた。そしてぼくがトマスのことなどすっかり忘れた頃にぼくを訪ねて言ったのだった。『本来であれば、君たちは女性と結ばれるべきだ。けれど君たちの生まれ持った性的指向は尊重されるべきものでもある』、と。彼の結論が比較的寛容なものであったことも、当時一部のコミュニティに対して彼の許可がぼく達を守るための一定の効力を発揮したことも後から理解した。
けれどまだ幼かったぼくに、神父とはいちいち判断を神様に仰がなければ何も決められない間抜けだという印象は強く焼きついてしまった。
その後の人生でも、判断を自分以外に委ねる人なんて山ほど見てきた。従う相手は宗教、権威、常識や親に言われた言葉などさまざまだったけれど、彼らの姿は総じてぼくの目に「神父のようだ」と映った。そして、それを周りの人にまで強制する人にはもれなく「狂信的な」という形容詞が修飾される。
『本当に、いちいちうるさい奴なんだ』
一通り自分が男を好きになった可能性を嘆いた後で、アランがついにそのきっかけとなった男について語り始めた。
『時間対効果だの費用対効果だの、その作業からは将来本当に利益を得られるか、とか時間や金を投資した分は必ず回収しなければいけない、とか手数料は嫌いだとか本当にうるさい』
『ふうん。なんかそこまで行くと強迫観念的じみたものを感じるね。誰かに教え込まれた価値観なのかな』
『そんなこと知らないし興味もないけどっ』
かたくなな様子でぶつぶつ口を尖らせる青年に、ぼくは笑って先を促した。
『わかったよ。それから?』
『それから、それで……うーん』
途端に青年が困ったように黙り込む。気長に彼の言葉を待っていたぼくに、青年が何度も唇を歯に巻き込みながら言った。
『……それでさ、ルーク。ぼくも気づいた時、信じられなかったんだけどさ。たぶんあいつ、あれでぼくを口説いているつもりなんだ』
そういって、アランが困惑も露わに目を伏せた。ぼくがおや、と思わずにはいられないような表情だったということを覚えている。
『そのことに気がついてから、もうそいつのことが気になって仕方なくて』
『よかったじゃないか。両思いだ』
『違うよ、最悪だよ』
今まで何を聞いていたんだと言いたげに、アランが目を釣り上げる。
『……まあ、確かにそいつと付き合うのは大変そうだ』なだめるように、ぼくは青年に同意した。『どうせ付き合うなら、人と優しい方法でつながろうとする人との方が幸せだよね』
アランがその綺麗な黒目でじっとぼくを見つめた。ご希望にお応えして、ぼくは説明を付け加える。
「ほら、君だって自分で気づいたんだろ。くどくど口うるさく自分の意見を押し付けることで、そいつは君となんとかして繋がりを持とうとしているんだ。——でもそんな風に相手と繋がりを持とうとするやつより、思いやりのある優しい言葉で愛を表現してくれる人の方が、一緒にいて嬉しいだろ?」
ぼくの言葉にアランがふいに涙をこぼした。後にも先にも彼が涙を流したのはこの時だけだ。もっと酷い話を語る時でさえ彼の目は乾いたままだった。けれどその珍しさを知らなかったぼくはその時、その現象があまりにも静かだったことにただただ胸を打たれていた。
それ以来、そいつがアランの話に出てくることはなかった。アランが大学生だということも、そいつが同級生で今でも繋がりがあるのだということも知らなかった。けれどあの短い会話の中で、アランはイーサンのことをうまく言い表していたと思う。
「君が、アランの秘密の恋人だったんだね、イーサン」ぼくの言葉に、警戒に張り詰めていた青年の目元が歪んだ。「君の話を、そういえばアランから聞いたことがあったよ」
「恋人なんかじゃありませんでしたよ、ぼく達の関係は」
ぼくはただ青年を見つめ返した。彼が朴訥とした印象なのが顔立ちのせいじゃないということに、この時ぼくはようやく気がついた。服のセンスがよろしくないんだ。いっそ目を覆うばかりに酷ければ、それもまた彼の個性としてぼくは好きになれたかもしれない。いや、もし彼自身の好みで選ばれたものだったのなら、たとえ拙くてもぼくはそのセンスを愛しただろう。けれどこの服は、コストパフォーマンスが良すぎた。普段ぼくが使わない方の意味でだ。秤にかけられているのは買う人の、作り手の、使う人の幸せではなかった。より低予算で、より長持ちするもの。自分の意思で誇りをもって選ぶのならばそれもまた様になるし、低予算でも好きなものや似合うものを身につけていれば人も服も力を持つものだ。
けれど彼の身につけているものは、彼から力を奪っているようにさえ見えた。この服を選んだのがおそらく彼の身近な人だろうということに、ぼくの心は少しだけ動く。
第一印象よりもずっと華やかな顔立ちをした青年は、眉間にしわを寄せたまま口角だけを引き上げて話し続けている。
「ちょっと笑ってしまいましたよ。恋人ですって? ずいぶんと面倒なことを言うんですね。ぼくたちは若いんですよ。それに人よりも賢い部類だ。ぼく達はもっと、カジュアルで気の利いた関係でしたよ」
「どうして恋人にならなかったんだい?」
「分かりませんか? その方がお互いにとって良かったんです」
「そのほうが君にとって『コストパフォーマンスが良かった』ってことかな」
青年の顔色が変わった。
「……さっきから、下品な言葉を使うものですね」
ぼくの頭はどこまでも冷静だったけれど、それでも意外な思いは禁じ得なかった。
「ごめんごめん。君の言っていることを言い換えたつもりだった」
「そんな言葉で言い換えられるような話を、おれはしてない」
彼がそういうのなら、きっとそうなのだろう。
「ところでその服は君の趣味かい、イーサン? この前は、灰色のTシャツを着ていたよね」
イーサンの体がぎくりと大きくはねた。彼の左指の、親指以外の四本の爪が彼の右手首に強く食い込む。ぼくは彼の様子に驚いたふりをして目を軽く見開いてみせた。
「大学を訪ねたときに着ていたやつさ。覚えてる?」言葉が出ない様子の青年に、ぼくは笑って続ける。「そのドッグタグはいいね。その服には合ってないけど、君には似合ってる」
「あんたは一体何なんだ……。ええ、おれもアランからあんたの話は聞いていましたよ。あまり好きになれそうにないと思いましたが、今確信しました。おれはあんたが嫌いですよ。服よりも銀行の手数料よりもあんたがね!」
「ぼくはもう少し君を判断するための材料が欲しいなあ。おかわりはどう?」
「結構です」
警戒心も露わに青年が左手でカップの口を覆い、自分のそばへと引き寄せた。ぼくは彼とそっくり同じ動きで自分のカップを引き寄せ、そしてそのまま口元へと運ぶ。自分の望みのために、ぼくは今この青年を手放すわけにはいかなかった。ほとんど口をつけただけのグラスをそっとテーブルに戻しながら、ぼくは今にもスリープモードに移行しそうな脳みそに必死に血液と酸素を送り込む。
「イーサン。アランがぼくにした、ひみつの恋人の話を聞きたいかい」
「あなたがしたいならどうぞ」
想像よりもずっと興味なさそうにイーサンが言った。それでもおとなしくぼくの言葉の続きを待つ青年に、ぼくは肩をすくめた。
「まあ、話を聞いたのは三カ月以上前のことなんだけどさ」
途端にイーサンの表情から、さらに興味のかけらが抜け落ちる。その顔を見て、ぼくは少しだけ話の方向を修正した。
「そういえば最後に会った時にも、そいつのことを話してたっけ」
「何を言ったんです、あなたはその時アランに?」
平然とした声が、ほんの微かに上擦った。注意深く聞いていなければ聞き流すだろう程度に話のペースが上がる。
「……ぼくが、アランにした話が聞きたいんだ。アランがぼくにした話ではなくて」
ぼくの疑問を肯定も否定もせず、青年はただ眉を上げて肩をすくめた。彼の左手がテーブルの上を動き、またしてもその爪で彼自身の右手首を軽く引っ掻く。その様子を視界の隅に収めたまま、ぼくは青年の両目に微笑みを送った。
「アランの話はけっこう覚えてるんだけど、自分が言ったことってほとんど覚えてないんだよね。まあ、がんばって思い出してみるよ」
「お願いします」
「代わりにさ、ぼくが思い出している間にアランの話を聞かせてくれないかな。この前、アランの家に行ったんだけど——」
「アランの、家に行った……?」
唖然とした様子の青年に笑顔で一つ頷き、ぼくは続ける。
「彼の部屋を見ても、思っていたよりも彼のことが読み取れなかったんだ」
「……サイコメトリーは、まあローティーンの頃には誰もが一度は憧れますね」
「そんなに仰々しいものじゃないよ」
あからさまにばかにした青年の言葉を、ぼくは笑って否定した。青年の左手はいつの間にか再びこぶしが握られており、いくばくかの力が込められていた。目を伏せるそぶりで自分のギムレットに目を走らせる。残りは四分の一ほどだ。残機としてはやや心許ない。
「部屋や家を見ると、だいたいその人の生活ぶりや価値観、どれだけ自分と人生を大切にしているかが分かるんだ。インテリアデザイナーにはよくある話だよ。ただ、アランの場合は、彼の私物が少なすぎてね」
「へえ。あいつ、物への執着は強そうだと思ってたけどな……」
意外そうにつぶやき、すぐにイーサンは首を横に振った。
「家に行く仲だったあなたに、おれの印象なんてなんの意味もないでしょうけれど」
「そんなことはないよ。アランが、君にしか見せない一面だってあったはずだよ」
イーサンの表情が、初めてほんの微かに揺らいだ。その次の瞬間、その揺らぎはもっと大きな歪みに塗り替えられる。
「おれに見せていた姿になんて、なんの意味もないんですよ」
駄々をこねると表現するにはまだ淡々とした様子で、イーサンが繰り返す。
「君にとっては意味がないんだね。理由を聞いても?」
否定することも肯定することもせず、ぼくはただそう尋ねた。自分の望む答えを得るためには、まずはとにかく相手を喋らせることだ。考えてみればそれはぼくが、いつだって仕事でやってきたことだった。
心の奥底に向かって言葉を投げかけ、しまい込んだ本当の望みを探り、他の話題へつながるような選択肢を奪い、相手が一番知りたいことを見つけ出す。そこまで誘導できたら人はもう、自分自身の内面を語ることを止められない。
そしてそこに餌を撒くんだ。
ほら、そろそろ口を閉ざしたほうがいいはずのイーサンが、再びその口を開こうとしている。
「アランが本当に好きだったのはおれじゃない。おれに似た別のやつだ。見た瞬間すぐに解りましたよ。あいつは、おれと同じタイプの人間だと」
「あいつって、誰のことだろう」薄々わかっていながら、ぼくは質問を重ねた。「ぼくの知っている誰かかな。もしかしてヴィクトール?」
イーサンは少しの間ためらいを見せた。話さない方がいいと、頭の中で警告が鳴っている様子が手に取るように見て取れた。けれど結局青年は彼のことを口にせずにはいられないだろうという、確信がぼくにはあった。
果たしてぼくの予想通りに、イーサンは途切れがちな言葉を低くこぼす。
「あいつの、高校の同級生にです。……似ていないと思うかもしれませんが、高校まではおれも、グループの中心にいるタイプだったんですよ」
「ぼくも、君とカシムは同じタイプだと思ったよ」
その共通点は、『グループの中心にいること』ではなかったけれど。もちろんそんな言葉は口にしないぼくに、青年がやや強い口調で続ける。
「大学では、面倒を避けるためにああして暗くて地味に振る舞っているんです」
「あの姿は、本来の君ではないんだね。でもぼくは、大学で君とカシムの話を聞いていた時から、似たところがある二人だなと思っていたよ」
ぼくの続けざまの肯定の言葉に、彼は戸惑ったように口を閉ざした。自分の主張を真っ向から肯定されたことへの満足と、本当は否定して欲しかったはずのカシムとの共通点への絶望で、青年のヘーゼルの目が暗く澱んでいく。
「初めからおれはただの身代わりだったんだ」
「身代わり? 君がカシムの?」
「そうさ。本当に欲しいものに代わりに手に取った、一時の紛い物さ」
「ぼくは、アランがそんなに器用なタイプだとは思えないけど……君がそう言うのなら、そうなのかもしれないね。確かにその高校の同級生の話をする時のアランは、他のどんな話をする時よりも寂しそうだった」
「そうですか」
冷たくそう言うと、イーサンは見るからにこわばった左手を開いてタンブラーを掴んだ。残っていたソルティドックを一気に呷って、少しばかり耳障りな音を立ててテーブルに置く。レモンイエローの液体はすっかり底をつき、干上がった海の底に横たわる魚のようにグレープフルーツがタンブラーの中を転がっていた。
測ったようなタイミングで店員がぼく達のそばを通り過ぎたが、イーサンは次のドリンクを頼まなかった。ぼくのグラスが干上がるのを待つつもりだろうか。
「おれも、アランはそんなことができるやつだとは思っていませんでしたよ。だから、本当に驚きました。アランにあいつとやり直したいと言われた時には」
ちくり、と何かがぼくの首を刺した気がして、ぼくは無意識のうちに強く首を撫でていた。けれど手のひらに何の感触も捉えられないまま、ちくちくとした刺激だけが右あごから右肩のあたりまで広がっていく。
嫌な予感に背中を押されるように、ぼくは低く尋ねる。
「……やり直したいって、まさかアランがそう言ったのか? でもアランとカシムは、まともに話したことさえなかったはずだよ。カシムもそう言ってた」
「何の関係もなかったやつの葬儀に、のこのこ姿を現すと?」そう言って青年がせせら嗤う。「そもそもアランがそう言ったんですよ。優しいそいつと関係をやり直したいとね」
どこかで聞いた言葉に、ぼくは一瞬眉を寄せた。その次の瞬間に青年の勘違いに気づいて、ぼくは眉間と眉と口を一度に開く。
――あなたの言う優しい方法で、ぼくは人と繋がっていけるだろうか。
「イーサン、君は誤解してる。アランが言っていたのは……」
「それが、自分の人生を先に進めるためなんだそうです」
ぞっとするほど冷ややかな何かが心をよぎり、ぼくは言いかけた言葉を飲み込んだ。
アランの死は不幸な事故だったのではないか、と、今この瞬間までそう考えていた。
違う。イーサンはアランの死にぼくが関わっている可能性を疑っているわけでも、アランの死の真相をぼくから聞き出そうとしているのでもない。
彼はすでに知っている。真相なんてとっくの昔に。
こうしてぼくを連れ出して、アランと交わした最後の言葉を聞き出そうとするイーサン。買い物帰りのぼくを、殺意を持って追いかけてきた男。カシムに敵意を向けるイーサン。ポストに手紙を投函した人間。仕事帰りのぼくの飲み物に何かを入れたベースボールキャップの青年。
そして、明確な意思を持ってアランに手をかけた人物。
アランの死を知る直前、飲み物に何かを入れられて酩酊状態だったぼくは、ぎりぎりのところでブライアンに助けられた。大学生四人にアランの話をした次の日に手紙を受け取った。あれほど厭っていたカシムとぼくの訪問を彼は受け入れた。ぼくが襲撃を受けたのはカシムがサムにイーサンの連絡先を伝えた次の日のことだ。
そしてあの襲撃によって、たぶんオリバーは相手が誰かをほとんど掴んだ。
右手を軽く伸ばして、ぼくは自分のグラスを手に取った。そして気の抜け切ったギムレットを丸呑みする。
ぼくがグラスを置いたのを見て、イーサンが店員を呼んだ。その様子を、スクリーン越しのように現実感のないままぼくは観察していた。
君が、アランを殺したのか。明確な意図を持って。
サムが事務所で指摘していたことを思い出した。あいつは初めからずっと、アランの恋人を探していた。現実はミステリじゃない。突飛なトリックや誰も予想ができないような動機も、ほとんどの事件には存在しない。
店員から受け取ったグラスを、イーサンがぼくと自分の目の前にそれぞれ置いた。飲みかけのものに比べたら随分としゃきっとして見えるギムレット。グラスがぼくの目の前に到着した拍子に、溢れた一雫がその側面を流れていった。
そのグラスを自分に引き寄せ、ぼくは青年を見つめた。自分がどういう表情をしているのかは分からなかった。
「人生を、前に進める、か……。イーサン。そういえばぼくも君にずっと聞いてみたいことがあったんだ」
青年が、やや落ち着きを取り戻した目でぼくを見た。先を促すように首を傾げる。
「君はアランは幸せだったと思う?」
ぼくの問いに、イーサンは笑った。楽しんでいるようにも悲しんでいるようにも見える、中身のない笑顔だった。
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