3章 学生たちの午後 (祖母の葬送)

 ――お前……ルーカスかい?

 悲しみと恐怖に棒立ちになっていたぼくに、目の前の小柄な女性が話しかけてきた。真っ白な髪の毛に、やや曲がった背中。そして、ぼくと同じオリーブ色の目。

 固まって返事もできないぼくから、どうやって答えを見つけたのだろう。皺の刻まれた女性の目元が緩み、厳しそうに見えた表情が途端に優しくなった。

 ――なんてこった。もうこんなにも大きくなっていたなんてねえ……。

 ぼくは十五歳だった。あの日、例によって母さんと大喧嘩したぼくは、怒りに逆上した彼女にこの見知らぬ玄関前に連れてこられ、そのまま置き去りにされたのだった。

 ――わたしはアメリア。……あんたのおばあちゃんだよ。

 そう言って、彼女はなかなか玄関先から動けずにいたぼくを根気強く説得し、家の中に招き入れてくれた。

 その夜、生まれて初めて洗い立てのシーツに包まれて横になった時には、少し涙が出た。ぼくがずっと欲しいと思っていたのはきっと、このぼくのために洗ってくれた清潔なシーツだったんだと、そう思って――



「ルーク?」

 傍にたたずむブライアンが、問うようにぼくの手の甲を指先で擦った。その心配そうな目の色に、ぼくは反射的に微笑み返した。

「なんでもない。ちょっとばあちゃんのことを思い出してたんだ」

「ああ」途端に幼なじみの表情が優しくゆるむ。「彼女は、本当に素晴らしい女性だった」

「まあね。ばあちゃんはいつだって、ぼくの自慢だ」

 ぼくの答えに笑みを深めながら、ブライアンは視線を賑やかに歓談する人の輪へと向けた。本日の主役を体現したかのような陽気だった。いかにも窮屈そうなブリズベンの空とは真逆の、どこまでも広く開放的な青色。その青が、控えめに浮かぶ雲を従えて、町の頭上でふんぞりかえっている。

 祖母アメリアの葬儀に参列するため、ぼくとブライアンは朝早くから車を走らせて、故郷の町へとやってきていた。乾燥した大地を流れる大きな川がランドマークの、ぼくとブライアンの故郷。せいぜい車で四時間の距離だというのに、もうすっかりブリズベンに馴染んでしまっているぼくは、この穏やかな時の流れと空の広さにくらくらしてしまう。

 一応の厳粛さを装って始まったセレモニーも、本人の遺言通り、太陽が天頂を過ぎる頃には楽しげな語らいの時間に様変わりしていた。ワインと軽食を片手に一通り参列者との挨拶を終えたぼくは、輪の中心から少し離れた木の下に居場所を定めて、人々の様子を眺めていた。移動疲れに加えて、ブリズベンでのここ数日の疲労が、一気に押し寄せてきたみたいだった。馴染みある土地とよく見知った人々に、ぼくの心がようやく鎧を解いて、一息ついているのを感じる。

 町の人々に散々引き回されていたブライアンもまた、なんとか輪の中から抜け出せたらしい。ふらふらとやってきてぼくの左隣を陣取ると、そのままのんびりとワインを傾け始める。町の人々も、珍しくぼく達にちょっかいをかけてこない。愛する祖母を亡くした哀れな男を、気遣ってくれているのだろう……。

 そんな考えを真っ向から否定するかのように、群衆の中から一人の男がぼくに向かって手を振った。ブライアンほど昔からというわけでもないけれど、小学校入学直後から面識のある幼なじみだった。光沢のある紫のシャツに金色に輝くズボンとシルクハットを身につけていて、遠目にも眩しい。

 奇抜なことこの上ない格好をした男が皿をテーブルに置いて、ぼくらの方へと悠々と歩み寄ってきた。ぎらぎらした荒い金のラメが、男が一歩足を進めるごとに光を乱反射していて、ぼくはサングラスをかけ直すかどうかをたっぷり三秒ほど真剣に悩んでしまった。ちなみに、隣に並び立つブライアンは、迷いなくサングラスをかけ直した。色素の薄い目に、あの光の洪水は耐え難いのだろう。

 木陰にたどり着いたハッピー・クリスマス野郎が、親しげにぼくの肩を叩く。

「よっ。久しぶりだな、二人とも」

「クラウス。元気そうで何よりだ」

 礼儀正しく言葉を返すブライアンの横で、ぼくは嫌味ったらしく眉を上げた。

「久しぶりい? まだせいぜい一年くらいじゃなかったっけえ?」

 ぼくの憎まれ口に、クラウスがやれやれと言いたげに大げさに首を振る。

「せいぜい一年! すっかり都会の人間になっちまったなあ、ルーク。ひどいやつだ」

「ひどいのはお前のセンスの方だよ。よりによって、なんでこの紫とこのゴールドを合わせようだなんて思いついたわけ?」

「クローゼットから一番派手なやつを引っ張り出したんだよ。お前のばあさんの希望を叶えるためにな」

 そう言って、男が気取った様子で手を胸に当てた。確かにばあちゃんならきっと、このどぎつい色の組み合わせに大喜びすることだろう。

「……まあ、葬式のドレスコードが『できるだけカラフルな服装』だからね」

「アメリアらしいよなあ。お前はちょっと地味すぎて浮いているぞ、ブライアン」

 哀れみの表情でそうコメントするもう一人の幼なじみに、ブライアンが「これでも努力したんだ」と唸り声を上げる。確かに、ネイビーのシャツと真紅のネクタイの組み合わせは、彼にしては努力した方だろうと思う。なんというか、ショッキングピンクのミュールや黄緑色のスーツなんて着てくる集団相手には、ちょっと分が悪かっただけで。

「ルークの、その、なんだ? 光沢した水色の迷彩柄——お前はいったいどこでそんな柄を見つけてきたんだ?! ――まあ、そのシャツとレモンイエローのネクタイの組み合わせは悪くない。おれには及ばんが」

「はいはい、どーも」

 苦笑まじりに返事したぼくの肩をもう一度叩き、男はそのままぼくの右隣に座り込んだ。自分の倍ぐらいはありそうな分厚い体を、ちらりと見下ろしてみる。すでに三児の父だが、確かにこのごつごつした肩は、子供を支える一翼にふさわしい気がした。

「アメリア——お前のばあさんのことは、残念だったな」

「まあ、ばあちゃんは天国でも楽しくやってると思うけどね」

「だろうなあ」男が笑いながら、その視線を人混みに向ける。「多くの人を愛し、多くの人に愛された女性だった。——なあ、大丈夫か」

「何が?」

 きょとんと男を見下ろしたぼくの視線を、クラウスが思いやりあふれる優しい目で受け止めた。面食らって目をぱちぱちさせていたぼくは、ややあってようやく、彼が家族を亡くしたぼくのことを心配しているのだと気がつく。

「ああ、大丈夫かって、ぼくのことか」

 ぼくの言葉に、クラウスの目が可哀想なものを見る色に陰った。

「ルークよお。お前本当に大丈夫か……?」

「大丈夫だよ」

 本気でぼくの——というよりたぶん、ぼくの頭を——心配し始めた男に、ぼくは憮然と答える。

「そりゃあ、知らせを受けたときはもちろんショックだったけど。今は自分でも不思議なくらい、落ち着いてるんだ。考えてみたらもう何年も前から、ばあちゃんが死んだ時のことをしつこく言って聞かされてたし。ああしろこうしろって、ばあちゃん本人から」

「おう……」

「アメリア……」

 絶句する二人に向かって、ぼくは苦いため息を吐き出した。

「初めはさ、そんなこと言わないでよって怒ったり悲しんだりしたもんだけど、自分の死を語りながら、十数年もぴんぴんしてるだろ。——気づいたら、すっかり心の準備させられちゃってたよ」

 ぶつくさ言うぼく越しに、二人が目を見合わせる。

「……まあ、アメリアらしいといえばらしいか」

「そういやこの葬式も、ずいぶん前から全部自分で手配してたって、トマスが言ってたな」

 出てきた名前に、ぼく達三人の目が自然と人々の中心へと吸い寄せられた。ばあちゃんとの思い出話に花を咲かせる人々の群れ。寂しさを内包しているからこそ一層楽しげで優しい光景の中で一人、真っ白な髪の男性が、いつも通りの地味な修道服を身につけて微笑みを浮かべていた。

 物静かで、いつも哲学者のように何か難しいことを考えているこの町の神父。ぼくやブライアンのことも、ぼくたち本人よりもずっと真剣に、散々悩み抜いて最後には受け入れてくれた。どんな時にでも、ちょっと困ったように節目がちに微笑んでいるばかりだった彼が、セレモニーの最中に突然声を詰まらせて涙をこぼした時には、ぼくを含めた参列者は揃って仰天したのだった。

「あのトマスが泣くなんてね……」

「まあ、お前の祖母とは長い付き合いだったようだから」

「もう落ち着いてるみたいだけど」

 ぼくの言葉に、つい先ほどまで人の輪の中にいたクラウスが、硬そうな短髪のブロンド頭を上下させる。

「ああ。もういつものトマスだったよ。参列者に申し訳なさそうに謝ってた」

「謝るって、どうし——」言いかけて、ぼくはすぐにその理由に思い当たった。これまでもこれからも、人の死を見とっていく立場だからだ。それぞれの人たちの死を前に、神父の彼の態度に差があれば、その差に傷つく人もきっといるだろうから、とそういえばトマス本人から聞いたことがあった。

「相変わらず、真面目なやつ」

「だから慕われているんだろう。アメリアも、古くからの友人が自分の死を悼んでくれたら、嬉しいんじゃないか」

 そのごくありきたりなブライアンの言葉に、ぼくは答えなかった。ぼんやりとしたフリをして、伏せたまぶたの隙間から自分の足元を見つめる。ネクタイの色に合わせて買った、合皮のレモンイエローの靴。いかにも考えなしでお気楽な孫って感じの。

 黙り込むぼくを、がっしりとした肩越しにクラウスが横目で見上げた。気づかないふりをして視線を逸らせていたが、遂にたまりかねて、ぼくは自分のビタミンカラーな靴から視線を上げる。

「……何」

「別にぃ。そういや、ブライアン。お前、ミスター・ブラウンには会ったか」

「いや」

「顔を見せてきたらどうだ。話したいことがあると言って、お前のこと探していたようだから」

 その真意を図るように、ブライアンが眉を上げてじろじろとクラウスを視線で突き刺した。平然とその視線を受け止める三児の父親に、秀才だった元生徒会長がため息をつく。

「……そうだな。行ってくる」

「おう。たぶんまだ、ミートパイのあたりをウロウロしていると思うぞ。こいつの分もよろしく伝えといてくれ」

「なんでお前が頼むんだよ。そもそもぼくはもう挨拶してる」

「はいはい。じゃあブライアン、また後でな」

 クラウスの声に肩越しに頷き、ブライアンが長い足で悠々と歩き去っていった。乾いた心地いい風がぼくたちのそばを通りすぎ、ブライアンの黒髪を揺らしたのが見えた。それに合わせて世界が、完璧なリズムで光を纏って踊る。ばあちゃんが選んだのだろう。BGMのレットイットビーに合わせて、木々が、草が、赤茶色の砂埃が、誰かの纏った絹のスカーフが、どれほど有能な舞台監督にだってなし得ないような絶妙なタイミングで光を反射して、風にたなびいた。

 かつては何ひとつ素敵なものがないと思っていたぼくの故郷が、今、地上の楽園かとみまごうほどの美しい光景としてぼくの前でたゆたっていた。ルノアールの絵すら及ばない、圧倒的な光の洪水。

「ルーカス。わかっているは思うけどよ」

 ぼくを地上に引き戻そうとする無粋な声が、遠く足元からぼくに呼びかける。

「あいつは別に、お前がアメリアの死を悼んでいないと言っているわけではないからな」

 どこか諭すような男の声に、ぼくはどこか他人事のような心地でため息をついた。

「わかってるよ」

「それならいいんだ」

 そう言って、ぼくとブライアンの幼馴染は、またしてもあのひどく優しい微笑みを浮かべた。子供ができたぐらいでは人は大人になんてなれない、と旧友はみんな口を揃えて言うけれど、無条件の愛を注ぐ対象を持った彼らは、ぼくの目にはやはり自分とは違う生き物に思えた。

「……まあ、全く気にしてないとは言わないけどさ」

 父親に進化した旧友に意地を張るのを諦めて、ぼくはため息まじりに言葉を漏らした。

「なあ、クラウス。お前はさ、ばあちゃんの死に涙を流さないぼくのことを薄情だって思うか?」

「ばかなことを」

 まるで自分がその言葉を投げつけられたかのように、クラウスの声がショックに跳ね上がる。その声色に背中を押されて、ぼくの口から言葉が溢れ出す。

「ぼくだって、ばあちゃんのことを聞かされた時はショックだったんだ。本当に、ショックだったんだ。もうこの世界にいないことも分かってるし、どれだけたくさんのものをもらってきたかを毎日毎日気付かされるし、でもばあちゃんが悲しむなって言ったから、悲しんだらもう会えないって言ったから、ぼくが泣かないほうが、ばあちゃんは喜ぶから——」

 傍らのクラウスが、のそりと立ち上がった。ぎくりと口をつぐんだぼくを見下ろし、その腕でぼくを抱きしめる。

 光沢のある紫のシャツ越しに、ぼくの体がむっちりとした胸とやや緩んだお腹に押し付けられた。大人しく抱擁を受け入れながら、ぼくの意識はつい、頭を撫でる柔らかい掌の感触に引っ張られる。想像以上に心地のいい感触だ。その心地よさにびっくりして、波打ったぼくの感情が、きれいに均されてしまう。

 男がぼくを胸に納め、深く息を吐いた。

「かわいそうに」

 その言葉とともに、クラウスがぼくの頭を撫で続ける。かわいそう、か。最近誰かがその言葉で慰められていたっけ。

 ぼくがうっかり使ってしまったら、相手を怒らせかねない言葉。きっとこの言葉を優しく使うには、魔王を倒すくらいでは身につかない、何か大きな経験値が必要なんだろうな。

 クラウスが低く続ける。

「言葉は難しいな。悲しむなと言い残される方も辛いだろう。だがおれはアメリアの気持ちもわかるよ。アメリアは、ただお前の笑顔を望んでいるんだ。自分の死よりもはるかに、自分の死でお前の笑顔を曇らせることが心配でたまらなかったんだ。おれには分かる」

 肺から聞こえる呼吸の音に耳を澄ませていたぼくを解放し、クラウスがぼくの目を覗き込んだ。

「笑うことに罪悪感を感じるな、ルーク。それが家族を——アメリアを一番苦しめる」

 重々しい男の言葉に、ただこくこくと首を上下させていたぼくは、彼の明るい鳶色の目に促されて「わかった」と素直に口にした。参った。ぼくの記憶には父親らしい父親像なんて保存されていないけれど、彼は、少なくとも今まで見たどのドラマの父親像よりも、父親らしく思えた。

 クラウスが、ぼくに向けていた視線を広場に戻した。その味のある横顔を覗き見ながら、ぼくはそっと感嘆のため息を押し殺す。なんてこった。散々一緒にばかなことをしてきた旧友が、今や家族を支えるヒーローとはね。気心の知れたバイト仲間がスパイダーマンだった時と、そっくり同じ気分だった。まあ、バイト仲間は普通の大学生だったから、これはただの想像だけれど。

 慰めるようにぼくの肩を抱く旧友の大きい体に身を寄せたまま、ぼくもまた広場の方へと視線を戻した。風に乗って、ばあちゃんの好きだった曲がぼく達の元へと届けられる。

「このBGMの選曲も、アメリアだろうか」

「そうだと思う。どれも、ばあちゃんが家でよく歌ってた歌ばかりだ」

「この歌は初めて聞くが、なんという歌なんだ?」

 その質問に促されて、ぼくは流れる歌に耳を澄ませた。レットイットビーの優しい余韻をかき消すように始まった、ポップな曲調。


  朝日に咲く花のように

  輝く空の色と同じくらい眩い

  長い間待ち望んでいた生きる意味よ

  今、すべての迷いが消えてく


「知らないけど、ばあちゃんがよく歌ってたな、この歌」

「曲の方は聞いたことある。元はたぶん、何かクラシックの曲だよな」

「そうそう。だから、歌詞の方はばあちゃんの創作だと思ってたんだけど」

 ぼくの言葉に、ちょっとばかり拙い英語の、可愛らしい歌声が重なる。やや掠れたその歌声に、ぼくは庭で歌を歌う彼女の姿を思い出していた。

 歌に耳を澄ませていたクラウスが、ぼくの髪の毛をくるくると弄び、口を開く。

「……なあルーク。お前、今日はこの町に一泊していくのか」

「いや。明日も仕事があるし、夕方には帰るよ」

「帰る前に、ミリアムに会って行けよ。まだろくに話もしてないんだろ」

 どうやら、もうすっかり父親モードにスイッチが入ってしまっているらしい。クラウスから出てきた自分の母親の名前に、ぼくは苦味成分たっぷりのため息をつく。

「分かってるよ。家に寄っていくって、事前に伝えてる」

「それならいい」

 クラウスの言葉にもう一度ため息で答えた。そういえば父親というものは、今も昔も家族にやや疎まれる役割だって担っているんだっけ。さすがはクラウス、与えられた役割を不足なくこなしている。

 先ほど見かけた母さんは、相変わらず美人だった。シミもシワもない、手入れの行き届いたパーティ用ドレスに身を包み、きつすぎない程度にきれいに化粧を施して。一体、あのとっ散らかって収集のつかない家から、どうすればあんな綺麗な格好をして出てこられるのか。ぼくはいまだに不思議で仕方がない。

 ——祖母に出会ってから、あんたはあの人の言葉ばかりを語るわね、ルーク。

 かつて母さんに言われた言葉が蘇って、ぼくは思わず首を振った。

 ——あんたにとっちゃ完璧な人間だったかもしれないけれどね。わたしにとっては、親として失格な人間だったわ。

 ひどく嫌な気持ちになってしまったぼくは、無理やりばあちゃんのお気に入りの歌に意識を集中した。


  あなたは逆風の空に輝く太陽

  あなたは私が生きる理由

  あなたのかけがえのない心の中に、探し求めていた宝物を見つけた

  この歌をあなたに歌わせておくれ……



 葬儀の後、ぼくは生まれ育った家に立ち寄り、そこで二時間ほど母さんとの時間を過ごした。食べ過ぎた重い料理か、母さんが散らかし切ったホコリだらけの空間か――どちらが原因かはわからないけれど、ブライアンの車に乗り込んだ瞬間ぼくはぐったりと背もたれに体を預けてしまう。

「今から四時間のドライブか……」

「ブリズベンまで、おれが運転してもいいぞ」

「いいよ。お前も疲れてるだろ。途中で代わるよ」

「わかった」

 そう頷いて、ブライアンがエンジンをかける。玄関のドアに背を持たせかける母さんに軽く手を振り返し、ぼく達はブリズベンに向けて走り始めた。まだ明るい空の下、カラカラに乾燥した地面とその地面から這い登った木々が、ぼくの視界をハイスピードで流れていく。

 見慣れたはずの光景に目を奪われながら、ぼくはぽつりとお礼を言った。

「今日はありがとな。一緒に来てくれて助かったよ」

「いや。それよりも、寝ていたらどうだ。どうせミリアムの家で、掃除ばかりしていただろう」

「まあね。いつものことだ」

 そう言って、ぼくは再び視線を外に向けた。見ているだけで目が焼けそうな光景だった。アスファルトに塗装された一本道の向こうは、赤茶色の土と脆そうでいて強かな木々の世界が広がっている。ブリズベンで生活し始めたばかりの頃、時々この道を故郷へと戻る自分の姿を夢想した。

「……ブリズベンにいるとさ、衝動的に母さんの家に帰って、片っ端から家を片付けたくなるんだ。その衝動が大き過ぎて、ちょっと辛い時もある」

「自分の住んでいた家が、整頓されていないのは許せない?」

「いや。もうあの家が、ぼくのすみかだとは思ってない。ただ、母さんがあの家で、彼女にとって何一つ大事でないものに囲まれて暮らしているのがつらい」

「……なるほど」

 呟くように相槌を打って、男はしばらくの間口を閉ざした。思わずちらりと横目で覗き見る。端正な男の横顔が、もう随分と傾いてしまった日の光によって、金色に縁取られていた。その光景に、ぼくはふと、自分が生まれて初めて恋に落ちた瞬間を思い出した。

 放課後の教室。

 あの時もまた、ブライアンは傾いた日の光に照らされながら、ひとり静かに帰り支度をしているところだった。なんということもない瞬間だ。確か初等学校最後の年の、秋のことだった。

 自らの思い出に心揺さぶられながら、ぼくはそっと口を開いた。

「……実は、ばあちゃんからの遺言を受け取ったんだ」

 前を向いたままぼくの言葉に耳を澄ませる幼なじみに、ぼくは続ける。

「ばあちゃんは、わざわざぼくに手紙を書き残していたんだ。自分の死を悲しむなって。天国に行く前にぼくに挨拶に行く予定だけれど、ぼくがあまりに悲しんでいたら、自分の声が届かないかもしれないからって」

 ブライアンの目に、横顔からでもわかるほどのひどく悲しげな影が差す。

「彼女は、持てる優しさの全てで、お前を愛していたんだな」

「お前も、この遺言はばあちゃんの優しさなんだって思う?」

「ああ。彼女がお前の人生に現れてくれて、本当によかった」

 不覚にも、その言葉に胸を突かれた。バックドアガラス越しに、今は見えないばあちゃんの家を振り返る。

 つい先程まで、今までに見たどんな光景よりも美しく思えた故郷は、改めて見てみると、やはりただのつまらない、ありふれた田舎町だった。――あの総毛立つほどの美しい光景はやはり、一陣の風が見せた、ただのひとときの幻だったのだろう。

 故郷の町を離れ、住み慣れたブリズベンへと近づいていく――その道の上にあって、ぼくの心に湧き上がるのは、寂しさに似た安堵だった。



※引用

 Q;indivi Starring Rin Oikawa

  Salut d'amour


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