4章 傷(ブランチを共に)

 ブリズベンには、ぼくのお気に入りのレストランやカフェがいくつかある。

 食材を調理することはできても、料理と呼べるレベルほどに技術を熟練できていないぼくは、週に一・二回それらのダイニングでお世話になっていた。食材を扱う技術はピカイチな――まあ片付けの才能は壊滅的だけど――母さんの上等な手料理で育ったぼくが、いつ訪ねても幸せになれるお店は貴重だった。付け合わせの野菜まで色とりどりで美味しいステーキ、たっぷりの香草が添えられた甘酸っぱいハノイアンスタイルのバーミセリ、ホームメイドのラムパティが美味しいハンバーガー、小さな庭が素敵な本格スシとテンプラ……。

 そこまで考えてぼくは首を振った。

 あきらかに集中力が途切れつつある。いや、実のところ集中力なんて、もうとっくの昔に切れてしまっていたのかもしれない。

 デスク越しに窓の外の空に目を走らせ、そのままソファの真向かいに設置した壁掛け時計の時間を確認する。太陽がのぼりきった鮮やかな青空だった。時刻はいつの間にか十一時を回っていて、ぼくは自分の意識が散漫になっていた理由を理解する。いつものことだけれど、また朝ご飯を食べそびれた。そのことに気がついた途端、モニターに映し出された映像が完全に眼球の表面を上滑りし始めた。

 なんだってぼくは、アプリコットとアンティークメタルのランプシェードの比較なんてしていたんだろう?

 無意味に二つのランプシェードを眺め回し、そして手元のノートをめくる。自覚してしまった空腹を誤魔化そうとぬるい液体を飲み干したけれど、そんな悪あがきで飢餓感はさらに募ってしまい、ぼくはついに諦めて作業の手を止めた。今すぐに朝食――いや、ブランチを食べに出かけなくちゃ。社会人としての理性を保ちたければ。

 コーヒーをお供に仕上げた午前中の成果をざっと振り返り、ぼくは自分の仕事に及第点をつけた。起動していたソフト内のデザインをもう一度確認してクラウドに保存し、同じデータが共有されたタブレットといくつかのカタログやノートを仕事用のカバンに詰め込んだ。次の予定は昼過ぎだった。少しばかり早すぎるけれど、いつもより長めに食後のお茶を楽しめば、待ち合わせの場所に向かうにはちょうどいい頃合いになることだろう。

 金と薄橙ペイルオレンジの控えめに華やかなマンションの廊下を抜け、大きくあくびをしながらエレベーターのボタンを押した。グランドフロアで待機していたエレベーターが十五階まで迎えに来てくれる間にざっと荷物を確認したけれど、めずらしく忘れ物はなさそうだった。スニーカーだけは革靴に履き替えてくるべきだったかもしれないけれど。

 ぼくを乗せたエレベーターが地下一階にたどり着き、リンと高い音を立てる。やや固まった股関節をほぐすように大股でエレベーターから飛び出して、ぼくは駐車場への重い扉を開けた。

「ごきげんよう、ルーカス」

 斜め後方、七時の方向。薄闇の中、ホラーとしか表現しようのない至近距離から声をかけられて、ぼくは凍りついた。地下駐車場の薄暗い空気に溶ける抑揚のない声に続き、ぼくの肩にぽんと手が置かれる。

 骨張った手の持ち主をゆっくりと振り返りながら、ぼくはなんとか震える声を口から押し出した。

「インスペクター・サミュエル・ロビンソン」

 ぼくを見下ろしていた警部補が、ものいいたげに目を細める。前回の別れ際のやりとりを思い出し、ぼくは大急ぎで言い換えた。

「やああ、サム」

「元気そうで何よりだ。少し時間をいただけるかな」

「ええと、今から?」

 ぼくの感覚からすれば当然すぎる疑問に、サムは「当たり前だろう」と言いたげな憐れみの表情を浮かべた。目の荒いやすりでごりごりと逆なでされた神経をなんとかなだめ、ぼくは眉尻を下げる。

「そうしたいのはやまやまなんだけどさ。今から打ち合わせに出かけるんだよね。とっても、大事なお客様との」

 打ちひしがれた声でぼくが答えると、ぼくの悲しげな様子に心を動かされたのか、サムがひどく優しげに微笑んだ。

「そうか。それであれば仕方がない」

 緩みそうになる口元をそつなく引き締めるぼくに向かって、サムが続ける。

「君とお茶をご一緒させてもらうだけで我慢するよ」

「なんで!」叫んだ後で、慌てて付け加える。「いや、その、ぼくは直接打ち合わせに向かうつもりだからさあ」

「『午後二時にカリーナでマリアと』――打ち合わせとは、これのことかな」

 目の前の刑事がぼくの予約を把握している理由は、すぐに思い至った。

「――ブライアンめ!」

「カリーナなら、ここから車でせいぜい三十分程度だ。この時間に出発すれば、十分にブランチを楽しむ余裕もあるだろう。そのついでに、少し話に付き合ってくれたらいいだけさ」

 なんとか断る言い訳を頭の中でジャグリングするぼくに向かって、刑事が口を曲げる。微笑みひとつで市民を脅しつけることができるなんて、刑事というのは大したものだ。

「あのさ、インスペクター――」

「捜査への協力に感謝する、ルーカス」

 ぼくの言葉をぐしゃりと握りつぶして一方的に感謝の言葉を言い放つと、サムはぼくの返事を聞くことなく手品のようにどこからともなくデバイスを取り出した。

「おれだ。ああ、直接駐車場で捕獲した」

「言い方!」

「行き先は後でテキストを送る。また後で」

「今のって、あんたの相棒?」つやっとした黒目が印象的な若い刑事の姿が脳裏に浮かび、ぼくはつい抗議の言葉を引っ込めた。「待っててあげたら? 相棒は常に一緒にいるもんなんだろ」

「さあどうだろうな」

「二人で仲良く、後からぼくについてこればいいのに」

 ぼくがそういい募る間にも、サムはさっさとぼくに背を向けて薄暗い駐車場を歩き出した。そのあまりに迷いない足取りに、ぼくはふと嫌な予感を覚えて眉をひそめる。

「ええと、あんたの車でデートするのかい、刑事さん」

「いや、君の車に乗せてもらうつもりだ」

「……ぼくの車がどこにあるのか、知ってるってわけ」

「別に、君が先導してくれてもいい。MAZDAのCX8シルバーまで」

 ぼくの車って、そういう名前だったのか。

「刑事なんて嫌いだ」

 ぼそりと落とすと、サムが肩越しにぼくを振り返って眉を上げた。そして、顎をしゃくって車の鍵を開けるように促す。ああ、まったくもう。

 いやみのひとつでも言ってやろうかと口を開きかけたが、思い直して素直にキーのボタンを押した。刑事が何か言いたそうに目を細めたが、結局何も言わずにおとなしく助手席に乗り込む。

「行き先だが――」

「あのさ。ぼく、アランは自殺だって聞いたんだけど。なんであんた達はまだ事件の捜査を続けてるんだ? アランの私生活を引っかき回して楽しんでるってわけでもないだろ」

「そこまで暇を持て余してはいないな」

 そう言って、サムは背もたれに身をもたせかけてじろりとぼくを見下ろした。眼球の動きに合わせて、仄暗い車内で刑事の目がちかりと光る。

 そのまましばらく探るようにぼくの目を見つめていたサムだったが、ぼくが彼から目を逸らさないのを見てかすかに口角を上げると、再びその視線を前方に戻した。

「……表向き、警察は彼の死を自殺と結論づけている。だが彼の死には不審な点が多くてね。おれ達二人は捜査を続けることを許可されている。他の捜査より優先度は低いが」

 刑事の言葉に、ぼくはどきりとした。ぼくは捜査や警察のお仕事に詳しくはないけれど、それでもこれだけはなんとなく分かった。いまサムが口にしたことは、たぶん本来、あまり公言をしてはいけないことだ。

 少し考えて、ぼくは口を開く。

「ニワ」

「ニ……なんだって?」

「これから行くレストラン。個室もあるから、込み入った話もしやすいだろ」

「なるほど」

 どこか満足げな刑事の相槌をかき消すように、ぼくは車を発進させた。すかさず凶悪なキリンが不機嫌そうに唸る。

「シートベルトを締めろ、ポッター」

「うるさいなあ。今、締めようとしていたところだよ、インスペクター・ロビンソン!」

 わざとらしくシートベルトをガチャガチャいわせながら片手でハンドルを操作する。駐車場の出口が近づき、地上から差し込んだ日の光が刑事の呆れ返った顔を照らした。

「やれやれ……君のその勇敢さには感服する。自動シートベルトの車に買い替えたらどうだ」

「やだね。だいたい、車なんてそう簡単に買い替えられるわけないだろ」

「ほう」

 意外そうにサムが相槌を打ち、ぼくは顔をしかめた。どうせ、ぼくの羽振りの良さを高く見積もっていたんだろう。まあ、そう印象づける意図もあってのあの事務所のインテリアだから、別にいいんだけれど。

 そこから店に到着するまで、車内は無言だった。走り慣れた道を、うっかり思い出してしまった空腹から気をそらすために考えごとをしながら進んでいく。

 刑事二人が今さら聞きたいことってなんだろう。アランが自殺じゃないのなら、本当に他殺なのだろうか。……事故の可能性もあるのかな。そういえば、アランが気になっていた人ってあの四人の中にいるんだろうか。

 とりとめもなく浮かぶそんな疑問を頭の中で聞き流しているうちに、ぼくたちはレストランにたどり着いた。車から降りたサムが、ジャパニーズ・スタイルの華やかなレストランを見て、何かいいたげに目を細める。

「……仕方がないだろ。あんたは聞きたいことだけ聞ければ気が済むのかもしれないけどさ、ぼくはお腹が空いて死にそうなわけだし、それにぼくの方にだって聞きたいことがあるんだからな」

「おれは何も言っていないだろう」

「言葉に出してはね」

 そう言って、ぼくはさっとレストランの入り口へと足を向けた。真新しい二対の木の柱を通り過ぎ、営業時間なのに閉じられたままの扉をゆっくりと横に引く。

 ガラスに覆われたパティオがまず目に飛び込んできた。店の中央を正四角柱に切り取った明るい空間が、外からの光を受けてぼうっと浮かび上がり、店内全体を照らし出している。その明るさに対比するように、店全体は黒を基調としていてシックだ。真っ黒なのにどこかくすんだ、光沢のない炭色。自分の引き出しにはなかったこの黒も、今ではすっかりぼくのお気に入りだ。店内にあるあらゆる他の色を見事に引き立てている。

 あえて違う色の木材を組み合わせる、なんて発想にもまいってしまう。パティオだって、きっとぼくなら大ぶりで鮮やかな花を使っただろう。けれども実際にガラスに閉じ込められているのは、誰にも知られていない山奥のほんの一部を切り取ったような静寂だ。

 そんなパティオを取り囲むように、店内では数人のスタッフが動き回っていた。まだランチも始まったばかりだ。まだ客の数よりも従業員の方が多い。

 その中で一際目立つ人影が、ぼくたちを振り返った。この店のオーナーで、他にもいくつかぼくのお気に入りのレストランを経営している色男。

 男がぼくに気がついて、親しげに笑う。

「やあ、ルーク。いらっしゃい」

「ハイ、クリス。開いてるよね?」

「もちろんだ。どうぞ入ってくれ、歓迎するよ」

「オープンなら扉は開けておくべきだと思うんだけどね……。空気、こもらない?」

 ぼくの言葉に、クリスが笑って首を振った。ゆるいウェーブを描く鈍い金髪が一筋、その動きに合わせて彼のこめかみに落ちてくる。

「大丈夫だよ。クローズの時にはドアも窓も開け放しているから」

「……ぼくが言うのもなんだけど、普通は逆だと思う」どうせ聞きやしないだろうけれど一応そう言って、ぼくは続けた。「個室空いてる? 三人だから一番小さい部屋でも大丈夫なんだけれど」

「いいよ。昼の個室は人気が――おや?」

 クリスが、ぼくの後ろで佇んでいるサムに気がついて目を丸くした。サムの服装は普通の会社員と変わらないシャツとスラックスだったけれど、おそらく誰も、彼を普通の会社員だと思いはしないだろう。

 それまで人好きのする笑顔を振り撒いていたクリスの顔が、やや真剣なものになる。

「おやおやおや。また何か厄介ごとに巻き込まれているのかい、ルーク。君も懲りないな」

「今回はぼくのせいじゃないよ!」

「三人と言ってたね。ということは、もしかしてもう一人とは彼のことかい?」

 面白そうに目を細めて、クリスがその甘い視線を店の奥に投げる。その視線の先で、小柄な人影がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。たっぷりと水分を含んだ艶やかな黒髪と黒目、優しげな微笑み。サムの相棒の、オリバー・グエン刑事。

 たった十五分程度の距離を、後から出発したはずのオリバーが当然のように先に到着していたことに絶句するぼくの後ろから、サムが平然とした声で相棒に声をかけた。

「早かったな、オリバー」

「ええ。ここのメニューを見ましたか、サム? 経費では落ちませんよ」

「だろうな……。いいさ、君が出世した時のために投資しておく」

「手堅い投資先だと保証しますよ。――ルーク、こんにちは。今日はお時間をいただいてありがとうございます」

「いや、別に、ぼくも聞きたいことがあったし」

 慌ててそう言って、ぼくはちっともぼくたちを部屋に案内しようとしないクリスに目を向けた。

 ぼくの意図に気がついたクリスが、その楽しげな笑みをさらに深める。

「こちらへどうぞ、お客様。そこの彼にも話していたんだけれど、何か事情があるようだから特別に、この店の奥の部屋を貸してあげるよ」

「いいの?」

 特別な部屋、という言葉に気分が盛り上がったぼくにウインクひとつよこして、クリスが続けた。

「こういう時のために作った隠し部屋なんだ。セキュリティがばっちりのね。一部の従業員と関係者しか知らない」

 なんでそんなものが、ブリズベンのごく普通のレストランにあるんだよ。

 ぼくと、おそらく同じことを考えているサムの複雑な表情をよそに、オリバーが彼にしては珍しくやや興奮した様子で「想像以上に本格的な作りです」とその有用性をサムに説明している。

「今日はこの部屋を使う予定はないから、好きに使ってくれていい。食事はどうする?」

「ハンバーガー!」

「……あるわけないだろう」

 呆れたようにそう言って、クリスが個室の一つにぼくたちを案内した。そして、扉を「使用中」に変えると、奥の壁に手を当ててくるりとひっくり返す。

「食事はすぐに持っていくよ。追加の注文があるならその時に」

 そう言って、壁の向こうに現れた階段を背後にしたクリスが楽しそうに続けた。

「ではごゆっくり。秘密の会議を楽しんでくれ」

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