2-5 (ブライアンの提案)

「でもさ、ブライアン。これは本当に、ただの印象なんだけど」

 不意によぎった思いつきを振り払うように、ぼくはその時ぼんやりと考えていたことを口にした。

「なんというか……実は、あまり悪い印象がないんだよな、そいつに対して。そりゃもちろん、よく覚えてもいないくせにって自分でも思うけど」

 ぼくの言葉に男が鼻を鳴らした。

「ふん、よく覚えてもいないくせに」

「だから、自分でもそう思うって言ってるだろ!」

「それで? その根拠は一体なんなんだ。まさか、全くの勘というわけでもないんだろう」

「それは、ほら……」

 ブライアンの皮肉に対抗するために、ぼくは必死に頭をフル回転させる。

「家まで車で送り届けて、しかもぼくに手を出さないまま、姿を消したし」

「明るいところで見たら、好みじゃなかったのかもな。それか窃盗目的か」

 家からなくなっているものがないかなんて、もちろん確認していないから、それについては反論ができなかった。

 押し黙ったぼくを見て、ブライアンが続ける。

「とにかく、お前はしばらくひとりでうろうろするな。近寄ってくる男がいたら警戒しろ。いいな?」

「待ってよ、ブライアン。でもホントにその人さ——そうだ、すごい優しい手つきだったんだよ、ぼくのこと運んでくれたとき!」

 男が、これ以上ないくらいの無表情で目を細めた。

 その表情に少しだけバツが悪い思いをしつつも、ぼくはなんとか続ける。

「車で送ってもらっているくらいの時から、断片的に覚えてるんだってば。自分の体に触れる手が丁寧かどうかなんて、記憶がはっきりしなくったって肌の感覚に残ってるよ。——それに、その人、たぶんずっとぼくのこと励ましてくれてた」

「ルーク」

「酔って、色々泣き言をいっちゃったみたいなんだ、どういう泣き言かは、詳しく覚えてないんだけど。でもその人は、何か優しい言葉をぼくにかけてくれたよ。だから——」

「ルーク、いいか。よく聞け」

 言い募るぼくの言葉を遮りながら男が地を這うような声を出し、ぼくの胸ぐらを掴んだ。

 キスの半歩手前の距離から目を深く覗き込まれ、ぼくは呼吸とともに言葉を飲み込む。

「お前の、おぼろげな記憶なんざクソ食らえだ。もしおれにお前の話を信じて欲しいのなら、もっとしっかりとその夜のことを思い出せ! それまでは誰がなんと言おうと、周りを警戒するんだ。出来るだけ家にいて、絶対に油断をするな!」

 目の前に、バーの薄暗い光に照らされてぎらぎらと底光りする青みがかった灰色スチールグレイがあった。そして、男らしくしっかりした顎のラインと生真面目そうな、だからこそセクシーな唇が——くそ、ゲイの前にこんなものぶら下げるなよ。馬の前にぶら下げられたにんじんより、ずっとたちが悪い。

 男の目を必死に睨み返している間にも、ぼくの体はぼくの許可なく勝手に熱を帯び始め、胸はぴょんぴょんと弾み、体の芯は緩んでいく。

 こんな自分の反応が信じられなかった。ジーザス、ぼくが一体どんな思いで三年もかけて、こいつのこと振り切ったと思ってるんだ!

 憂いを帯びたグレイッシュ・アイズに吸い寄せられそうになる自分を、必死に押さえつけながら、ぼくは思わず叫ぶ。

「絶対やだ!」

「なんだと?」

 ブライアンとの距離がさらに近づき、ぼくは動揺のあまり、思わずよくわからないまま反抗を重ねた。

「ぼくはもう、あの頃のぼくとは違うんだ! 絶対にお前の言うことなんか聞かないぞ!」

「何を言ってるんだ、このあほう!」

「ちょおおおといいかしらあ坊やたち?」

 ぱっとぼくたちが声の方へと首を向けると、顔に凄みを塗りたくったレキサンドラが、にっこりと口角を釣り上げていた。

 途端に、二人の間にあった緊張の糸が緩む。

「……すまん、うるさかったか?」

「うるさいっていうか、何事かと周りが気にしちゃってるんだよねえ」

「自分が気になっただけのくせに」

 ぼそっと呟いたぼくの頬を容赦無く捻り上げてから、レキサンドラはマスカラに縁取られた目でブライアンを促した。

「それで、一体なにごとなんだい」

「いつものことだ。こいつが全力で悪い方向へと突っ走っているから、止めようとしていた」

 ブライアンの言葉に、レキサンドラがぼくの方をくるりと振り返る。

「ルーク、ブライアンの言うことを聞いときなさい」

「どうしてみんな、ブライアンの言うことばっかり!」

「今までに自分がやらかした数々の出来事を思い出しなさいッ!」

 そう一喝してから、レキサンドラはさらに付け加える。

「そもそもあんた、コトの経緯をきちんと説明できるの?」

「当たり前だろ。ぼくの飲み物に何か入れられた可能性があるから、ブライアンが気をつけろって」

「……そんな真っ当な意見もらっといて、なんでケンカになるんだよ」

「あれ?」

「——レキサンドラ。慌ただしくて申し訳ないが、もう行くよ」

「あら、それは残念」

 ブライアンに本名スピリチュアルネームで呼ばれて目を輝かせるレキサンドラを押し除けて、ぼくは悲痛な叫びを上げた。

「うっそだろ、まだ全然飲んでない!」

 そしてその哀れなぼくの頭を押さえつけ、ブライアンが続ける。

「……どうやら、ちょっとこいつと真剣に話をしなければいけないみたいでね」

「なんというか、アンタも大変ね。色々と」

「ああ、まあ……」

「レキサンドラ、次はモスコミュール!」

「——とにかく、久しぶりに会えてよかった。あんたが元気そうだったと、親父に伝えておく」

「またいつでもいらっしゃい」

 その言葉に視線で答え、ブライアンはぼくを引きずるように外へ出た。

 まだうっすらと昼間の熱が残っているアスファルト。空にはポツポツと星が浮かんでいる。

「乗れ、人のいないところで飲み直すぞ」

「ぼくのモスコミュール」

 恨めしげにぶつぶついうぼくに、何かを言いかけたブライアンが、思い直したようにそのまま黙り込んだ。車体を迂回して、助手席のドアの前に立つぼくの側へとやってくる。

「……悪かった」

 てっきり一方的に説教でもされるのかと思っていたぼくは、びっくりして傍らの男を見上げた。至近距離から見下ろしてくる男の端正な顔が、月明かりと街の灯りに照らされて、ぼんやりと浮かび上がっている。

「強引におまえを引き回している自覚はある。おまえと再会してから、おれも余裕がないんだ」

 ぎこちない動きで、ぼくは目を伏せた。男の言いたいことが、ぼくにはよく分かった。再会してからのこの二日間、ぼく達の間にはいつもどこか緊張があった。三年ぶりに繋がったこの頼りない糸を、絶対に強く引っ張りあったりなんかしないように。この糸が、もう二度と切れてしまわないように——お互いが細心の注意で、糸の強さを探り合っている感覚。

 物心つく前から一緒にいた親友との三年に渡る断絶は、思っていたよりずっと大きな傷を互いに残していた。そんなことに気づかされた二日間だった。

 ぼくの親友が静かに続ける。

「おまえの助けになりたい。話をさせてくれないか」

「分かったよ」

 ぼくがため息まじりにそう言うと、ブライアンは黙って助手席の扉を開け、ぼくを車内へと促した。背中に大きな手のひらの温もりを感じた。触れるか触れないかの優しい感触だったが、『逃さない』という強い意志が、その手からはひしひしと伝わってくる。

 ぼくがシートベルトを締めると同時に、中古のランドクルーザーは静かに夜のブリズベンを滑り始めた。車内には何となく気まずい空気が流れていたけれど、二人の間にあった緊張自体は少し緩んでいて、不思議と居心地は悪くない。

「おまえの家でいいか? 別におれの家でも問題ないが」

「ブリズベンのどのあたりに住んでるんだ?」

「タリンガ」

「へえ、興味あるな。二十代後半、独身男のインテリアか」

 家具やカーテンの色をいろいろ想像し始めたぼくに向かって、ブライアンがぼそりと付け加える。

「……ただ、最後に床に掃除機をかけたのは五日前だ」

「今日のところは、抜き打ち検査は勘弁してやる」

 苦々しくそう宣言すると、ブライアンは笑いながら車を左折させた。途中で酒を購入しようとしているんだろう。ぼくの家に行くには少し、遠回りになる道だ。

 ぼくが自分の好きなものだけを詰め込んだ、今となっては世界で一番安らげる場所が遠ざかる。それなのに、ぼくはその時、ふと安堵を覚えた。

「なあ、ブライアン。少しだけ、ドライブに連れて行って欲しい気分なんだけど」

「ああ。いいよ」

 軽く応え、ブライアンはすぐに車線を変更した。西に向かってまっすぐ伸びる道に、ぼくは何となく目的地がどこなのか分かってしまった。

 マウント・クーサ。ブリズベンでも評判の夜景スポットだ。

 十五分くらい遠回りする程度で良かったんだけどな。

 でもまあ、人の期待には意図せずサプライズで応えると評判の、ブライアンらしい選択かもしれない。

 中心街を抜け、西に二十分ほどブライアンが車を走らせる。まだちらほらと人のいる展望台付近を避けて車を止めた。

「わぁお。なるほど、これは確かにきれいな夜景だね」

「ああ」

 ブライアンがぼくの言葉に同意した。なんだか、心ここにあらずといった様子だ。夜景を見ようともせず、ぼんやりとぼくの方へと視線を向けている。そういえばブライアンは昔から、宿題は先に終わらせるタイプなのだった。

 ぼくは仕方なく夜景から視線を引き離し、バーでの話を引っ張り出した。

「……分かったよ、ちゃんと身辺には気をつけるようにするよ。ぼくだって何かおかしいな、とは思ってるんだ」

 お望みどおりの言葉だろうに、ブライアンは何かを考え込むように黙ってぼくから視線を逸らせた。運転席の座席に座り直し、視線を前方に向ける。

「サムを覚えているか? 刑事の、あの背の高い方」

「ああ、目つきの悪いツンデレ刑事な」

「ツンデ…? まあいい。その刑事なんだが、事件の検挙数がずば抜けていて、署内ではけっこう有名な人でな」

「へー。だから肩書きがついてんの?」

「彼の年齢からすれば早い昇進だが、功績から言えば遅いくらいだ。捜査の初期段階での読みの精度が、正直なところ、周りからすれば意味がわからない。本人にとっては根拠があってのことなんだろうが」

「ふうん。よくわからないけど、サムのやつ凄い刑事だったんだな。ぼくの嘘を見抜けなかったくせにな」

「そちらは、もう一人の刑事の得意分野だそうだ。二人とも、かなり悔しがっていたよ。もうおまえの信用は地の底だ」

「嫌なこと言うなよ」

 顔をしかめるぼくに「自業自得だ」と答え、ブライアンが続ける。

「その刑事が、おまえに『気を付けろ』と言っていただろう。もちろん、彼の勘も百パーセント正しいわけじゃない。本人もそれをよく分かっているから、明言は避けたんだろうが」

 ブライアンがあまりに真剣に話をするものだから、ぼくも真面目ぶって「うんうん」と頷いた。ただ正直なところ、気を付けろなんて言われてたっけ? という感想くらいしか浮かんでこない。

「おれも初めは、そう頭からサムの懸念を信じたわけではなかったんだが……おまえが事件の当日、飲み物に何か混ぜられた可能性を知って、考えが変わった」

 いまいちコトの重大さがよく掴めないまま、ぼくは相づちを量産し続ける。

 まあ、とにかく気を付けろってことでいいんだよな。オーケイ相棒マイト、オーストラリア国防軍もびっくりのディフェンスを披露して見せるから、任せとけ。

 さて、帰りに何のお酒を買おうかな、なんて考え始めたぼくの手の先に、その時、ブライアンが静かに自分の手を触れさせた。途端に痺れのようなものが指先から広がり、胸の奥がどくりと跳ねる。——驚いたふりでもして、さっさと手を退ければよかった。頭ではそんなことを思うのに、どうしてだかぼくの手は、磁石のようにブライアンの指先から離れようとしない。

 息を吸うことしかできずに固まっていたぼくだったけれど、ついに好奇心に負けて、おそるおそるブライアンの方へと向き直った。そんなぼくの動きに合わせるように、男がぼくの手を持ち上げて、胸の前で握りしめる。

「おれに、おまえを守らせてくれないか」

 夜景をバックに背負った男が、シトラスとハーブの香りを振りまきながら低くささやいた。天使をたぶらかす悪魔の声は、きっとこの声のように、どこまでも甘く誠実な響きを持っているのだろう。

 喘ぐように、ぼくは切れ切れの単語を絞り出す。

「守る? ぼくを?」

「ああ」

 空気に溶ける甘いバリトンに、今度は耳が甘く痺れた。

 脳裏に、ぼくを背に庇って闘うブライアンの姿が浮かび上がった。甲冑か、いやスーツがいいな。防弾チョッキに、銃とカタナを装備しているブライアン。悔しいが、とんでもなく似合うことだろう。ぼくに忠誠を誓っていて、傷だらけになりながら、いや、やっぱりすぐに治るぐらいのすり傷を負いながら、ぼくを守ってくれているんだ。そしてニンジャとして敵組織と戦うぼくとは、背中を預けあえる仲間でもあって——あれ、ちょっと待てよ。

「……いやいや、どうしてそうなるんだ?」

 ぼくの呟きに、ブライアンが戸惑ったように手の力を緩める。

「それほど、突拍子もない提案とは思わないが……」

「ていうか、守るって何から?」

「そりゃ、おまえにスパイキングしたやつだろう」

「ええ? もちろん、同じことがないように気をつけるつもりだったけど——もしかして、ぼくがまだ狙われていると思ってる?」

「……今までずっと、そういう話をしていたつもりだったんだがな」

「うっそぉ」

 ぽかんと口を開けるぼくを見て、ブライアンが頭痛に耐えるように片手で額を抑える。そしてぼくの手を、ほんの少しだけ名残惜しげに、そっと解放した。

「ようやく事態を理解してくれたようで、なによりだ」

「守るってどうやって?」

 ぼくの言葉に、ブライアンが不機嫌そうな、やさぐれた目をこちらに向ける。

「四六時中おまえにつきまとって、近寄ってくる人間を残らず排除——」

「真面目に答えろってば!」

「……おれもボディガードの訓練を受けたわけではないから、できることは限られるが。その男について調査して、できるだけおまえの近くにいることくらいか。あとは、手に負えないと分かった時点で、すぐに専門機関に届け出ることと」

「はあ、なるほどな」

 映画みたいな逃走劇を繰り広げたりするわけではないようで、ぼくは安堵と落胆のため息をついた。

「どちらにせよ、この先おまえに接触してくる人間については、おれに情報を共有してくれるとありがたい」

「まあ、個人情報に当たらない範囲ならいいけどね。ぼくが顔を合わせる相手はたいてい、仕事上の相手か——あ、そういえば今日、面白い子達が事務所に押しかけてきたんだよね」

「ほう」

「アランの友達だっていうから、事務所に上げたんだけどさ。大学生の四人組で、アランの知り合いのぼくに、話を聞きにきたみたい」

「——なるほど?」

 ブライアンの声が低くなっていく。そんなことにはもちろん気づかず、ぼくは知り合ったばかりの友人達の顔を思い浮かべる。

「そういえば、どうやってぼくのことを知ったんだろ? 聞きそびれちゃったな。まあいいや」

「よくはないな」

「四人とも、アランのことが大好きみたいでさあ。いてもたってもいられなかったんだろうな」

 しんみりとまぶたを伏せるぼくに向かって、ぼくが雇用した探偵が冷ややかに確認を入れてきた。

「……それで、このお気楽頭は、不用心にもその四人組を家へ招き入れたと」

「いや、本当にけっこういい奴らで……」

「信じられん。本当に二十四時間、おまえに張り付きたくなったぞ!」

「あはははは」

「誤魔化すんじゃない。自分が狙われていると知らなかったとはいえ、見ず知らずの人間を家に上げるか?」

「仕事場でもあるからなぁ」

「従業員が一人のな。いいか、頼むからもっと用心してくれ。おまえを、おれの人生から失わせないでくれ」

 男の、体の奥の奥から吐き出されたような声に驚いて、ぼくは再び彼に向き直った。

「ブライアン……」

「とにかく、おまえはおれが守る。これは決定事項だ。拘束時間が長くなる分、おれを雇う金額が多少変わるから、契約書を二、三日以内に事務所を通して送らせる」

「え、ちょ……」

「友人割で、できるだけ安くする。それでも難しければ相談してくれ」

「いや、まあ、お金のことはいいけど。ていうか、そこはちゃんと正規料金を請求してくれよ」

「分かった。それで? 他に、今日一日で何か変わったことはなかったか?」

 聞かれた瞬間、カシムの提案が頭をよぎった。

「……何もなかった」

 もしここが明るい場所だったなら、ぼくの疾しい気持ちにブライアンは気がついたかもしれない。でもまあ、運良く場所が暗い車内だったから、彼は特に何かを察した様子もなくエンジンをかける。

 その、完全に刑事スイッチの入った幼なじみの横顔に、ぼくはふと嫌な予感を覚えた。

「……まあ、まずはゆっくり家で飲もうぜ。さあて、何買って帰ろうかな」

「ああ、楽しみだな。だが飲む前に、その四人の大学生とやらの話を、全て吐いてもらおうか」

「うそだろ! もう!」

 悲嘆にくれるぼくの声に、隣に座るターミネーターは眉一つ動かさずにアクセルを踏んだ。

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