1-7(マリアの家)

 ぼくの突然の質問にマリアは驚いたようだった。

 やや警戒するようなこわばった微笑を浮かべて、ぼんやりとした答えを返してくる。

「どんなって——なんというか、男らしい男よ」

 その答えに、ぼくはもう一度手元の紙に目を落として指であごを撫でた。男らしさとは無縁な、ツルツルのあごの感触。

 その指を紙に落とし、間取りの中の空間を一つを差しながら質問を続ける。

「ここが、あなたの部屋。一緒に暮らしている子供が一人いるね。その子がこの部屋住んでいて、こっちが旦那さんの部屋。あってる?」

「ええ、その通りだけど……。一体どうして」

 家具の配置から、とだけ答えた。本当は、夫を語る彼女の態度からみた二人の関係性も根拠になっている。

「——ものすごくストレスが溜まっていると思う。この家には彼の居場所が感じられない」

 もの問いたげに視線を上げた彼女の目に、ぼくは視線を合わせた。

「彼はこの家に来て、より威圧的にならなかった? マリア。彼の、っていうのはつまり、あなたの旦那さんのって意味なんだけど」

「何ですって?」

 ぼくはその声の不穏な低さと、ぼくたちを見守るジェーンの面白そうな視線の、どちらかに気付くべきだった。

 けれど、目の前にぶら下げられた人参——家の間取り図に夢中になっていたぼくは、もちろんそのどちらにも気づくことなく続ける。

「格調高くしようとしているんだけど、部屋全体にいまいち調和がとれてない感じがあるんだ。無理をしてるね。居心地の良さを後回しにしちゃうほどの憧れ、というわけでもないよね。旦那さんへのメッセージなのかな、この部屋にふさわしい品位を——違う、そうか」

 謎が解けた気がして、ぼくは明るく言った。

「この格調高さは、あなたの無意識の防御なんだ。もちろん、実際に家を見てみないとわからないんだけど——」

 そういって顔を上げたぼくの目に、彼女の燃え上がる瞳が飛び込んできた。その形相に飛び上がったぼくのほおが、次の瞬間高い音を立ててバシンと鳴る。

「わたしのせいだと言いたいの?! わたしが、あの子を追い詰めたと!」

 ぽかんと口を開けるぼくを見下ろしながら、マリアが震える声で言い募った。

「あなたに何がわかるっていうのよ、何も、何も知らないくせに!」

 掠れた悲痛な叫びに打ちのめされて、ぼくの頭が真っ白になる。

 彼女が何を怒っているのかちっともわからなかった。

 あの子って、彼女の子供のことなのか? どうして子供の話になるんだろう。

 ただ、そんな思考停止状態でも、ひとつだけ確信できたことがある。

 ぼくのマリアの家に対するコメントは、ぼく自身の頼りない常識に照らし合わせても、たぶんとんでもなく失礼だった。

 早く謝らなくちゃと慌てるぼくに、それまで黙って成り行きを見守っていたジェーンが口を開いた。

「ああ、かわいそうに」

 どんな時でも変わらない穏やかな声に、ぼくたち二人の間に張り詰めていた空気がふっと緩む。

 思いつめた表情で振り返ったマリアを、ジェーンが慈愛に満ちた表情で柔らかく抱きしめた。

「あなたは何も悪くないわ、かわいそうなマリア。大丈夫、わたしはあなたの味方よ」

 そして、赤子をあやすように彼女の背中を撫でながら続ける。

「この子もね、あなたを責めているわけではないの。ちょっと配慮が足りない坊やなだけよ」

 いつもなら抗議の声をあげるところだけど、彼女の持つ大人の余裕が今のぼくには救いだ。

 ジェーンの腕の中でしばらく体を強張らせたまま荒い息をついていたマリアが、その腕の中から体を起こしてぼくを見た。

 ジェーンが言う通り、ぼくはまだまだ若造だ。大人の男ならこんな時、おびえたそぶりなんて見せずに静かに相手を見つめ返すことができるのだろう。

 無自覚に傷つけてしまったらしい女性を前に、ぼくがびくびくと縮こまっていると、そんなぼくを見つめていたマリアがそっと目を伏せた。

「……ごめんなさい、ルーク」

「いや、でもそれはぼくが」

 失礼なことを言ったから、と言いかけたぼくの言葉を、マリアは首を振って遮る。

「違うのよ、ルーク。違うの」

 そこまで言って、彼女は強く目を瞑った。

 その、何かを押し殺そうとする姿に胸がぎゅっと締め付けられる。

 そういえば、何か辛いことがあったのだと言っていた。ぼくの不用意な発言が、彼女の傷をえぐってしまったのかもしれない。

「あのさ、マリア」

 今度こそ、自分の発言に注意を払いながら、ぼくは口を開いた。

「さっきのごめんが、ぼくを叩いたことについてなんだったら、ぼくはその謝罪を受け入れるよ。ぼくもあなたを傷つけたから、おあいこだね。ええと、おあいこにしてくれたら嬉しいな」

 マリアが目を開けて、こくりと小さくうなずいた。恥じ入るように、自分の身を隠すように、うつむいて身を縮こまらせている。そんな彼女の様子に、ぼくの胸はさらに締め付けられた。

 彼女になんとか背中を伸ばしてもらいたい一心で、ぼくはさらに続ける。

「でも、もしそれがぼくに対して怒ったことを言っているんだったら、それについてはどうか謝らないで。あなたが怒りを押さえつけようとするのは、見ていて悲しいんだ」

 マリアが顔を上げた。ぼくを見つめる彼女の傷ついた黒い目に、ぼくはその時、なぜか強い既視感を覚えた。

 その感覚の正体を掴みきれないまま、ぼくは彼女に向かって語りかける。

「怒りはさ、絶対に見ないふりしたり、なかったことにしちゃダメなんだよ。じゃないと、自分の魂をもっと深く傷つけてしまう」

「……周りの人ではなくて、自分自身を? それは、なんというか、興味深い考え方だわ」

「うちのばあちゃんの受け売りなんだ」

 そう笑った後で、ぼくは少しの間口をつぐんだ。この先何度、ぼくは彼女に会えないという事実に絶望することになるんだろう。

「ばあちゃんがいうには、怒りって、結局すべて愛情不足が原因らしいよ。だから、自分の中の怒りに気が付いたら、とことん自分の声に耳を傾けて、自分に優しくしてあげたらいいんだって」

 ぼくの言葉に、彼女がどこか無防備な顔で目をぱちぱちさせた。彼女の気持ちが、ぼくにはよく分かる。

 ぼくだってこの言葉の意味を、いまだにちゃんと理解できてるわけではないんだ。

「ああ、そういえば」

 言いながら、ぼくはくすりと笑いを漏らした。

「これも彼女の口癖だったんだけどさ。強い感情を掻き立てられる相手って、自分にいろいろなことを教えてくれる運命の相手なんだって。だから、ぼくたちもきっと、お互いが運命の相手のひとりだね」

 その言葉に、マリアもまた小さく儚い、泡のような笑みを漏らす。

「……あなたっていい子ね」

 笑いを収めたマリアが、静かだけれど確かに光の灯った瞳でぼくを見据えながら、華奢な右手を差し出した。

「あなたに会いにきて本当によかったわ、ルーク。あなたに、わたしの家のコーディネートをお願いしたいのだけれど。依頼を受けてくれるかしら」

 まさか彼女が依頼してくれると思っていなかったぼくは、びっくりしながら彼女の手を握り返した。

「喜んで、マリア。ぼくを信じてくれてありがとう」

 ぼくの返事に、マリアはきゅっと口角を上げて微笑んだ。また印象を変えた彼女の表情に、ぼくは再び強い興味を掻き立てられる。

 彼女の中には、まだまだ彼女自身にも見えていない、本当の姿が眠っている。

 本来の彼女はきっと、思慮深さだけではなく、何か鮮やかな美しさを持ち合わせているに違いない。

 そんな、本来の彼女自身がくつろげるような、彼女自身に戻れるような、マリアらしい部屋を創り上げていく——なんてチャレンジングな仕事だろう。

 先ほどまで凍りついたように冷たくなっていた胸がワクワク弾み、飛び跳ねる心臓に促された熱が、身体中に広がっていく。

 その熱に浮かされるままに、ぼくはマリアに心からのお礼を伝えた。

「この仕事を任せてもらえて、とても光栄だよ、マリア。本当にありがとう!」

 その時、ぼくの言葉に彼女がひどく悲しげな様子で顔を歪めた。驚いて口を開きかけたぼくを遮って、マリアが言葉を重ねる。

「今日は一旦帰るけれど、また連絡させていただきます。どうかわたしの相談に乗ってちょうだい」

 言葉を挟むタイミングを完全に逃してしまったぼくは、彼女の言葉に、ただ黙ってうなずくことしかできなかった。


 お得意様と依頼人をエレベーターまで見送ってから、ぼくは大急ぎで事務所に引き返した。まだ彼女のイメージが鮮明なうちに、出来るだけアイデアを書き留めておきたい。

 ぼくはポケットにさしていたデバイスを机の上に放り出して、さっそく壁にかかった大きな黒板に向かい合った。

 そして、思いつくままにイメージを書きなぐり始める。

 そのイメージボードが半分以上埋まったところで、置きっ放しにしていたデバイスが、ぼくを現実世界に引き戻した。

 まだ半分ほどゾーンに足を突っ込んだ状態のまま、ぼくは手早く通話ボタンとスピーカーボタン押した。

「やあ、ブライアン。ネイビーとディープグリーンなら、どっちが哲学的?」

「楽しそうで何よりだ。今晩、時間はあるか?」

 幼馴染の言葉に、ぼくは反射的に掛け時計に目を向けた。四時過ぎか。思ったより時間が経っていて少し驚く。

「六時以降ならいいよ」

「オーケー、七時にお前のマンションに行く」

 そのまま電話を切ろうとする男の向かって、ぼくはふと言葉を滑り込ませた。

「なあ、ブライアン。今日は外で飲まない?」

 ブライアンが沈黙で答えた。反対したそうな雰囲気だけど、その理由が見つけられないようだ。

 やつを説得するべく、ぼくはさらに言い募る。

「今日は、なんだか外で思い切り楽しく飲みたい気分なんだ。頼むよ、ぼくが無茶をしないように、お前が見ていてくれたら助かるんだけど」

 ぼくの渾身のお願いに、ブライアンは渋いため息をつきつつ「わかったよ」と言った。

「七時に、エントランスで待っていろ」

「やった、ありがと!」

 ご機嫌で電話を切ると、ぼくは意気揚々と再びイメージボードに向き直る。

 さて、どこまで進んだんだっけ。

 アルコールの予定にさらに浮かれたぼくがペンを手に取った矢先、今度は本日二度目となるレセプションの呼び出し音が鳴り響いた。やや警戒しながら、コントローラーを操作する。

「ハイ、ルーク。今日は人気者だね」

「やあ……。さすがにもう、何の予約もないはずなんだけど」

 ぐるぐると予定を頭で回しながら恐る恐るそう主張するぼくに、ワイアットが爽やかな笑い声をあげる。

「それがね、このキュートな来訪者たちはどうやら、予約なしに君に突撃したいらしいんだよ」

「キュートな来訪者?」

 頭の中に、キュートに当てはまりそうな知り合いを並べてみる。該当者はぼくの妹くらいだ。ブラジル在住だけど。

 困惑するぼくに、ワイアットが「いや待てよ」と呟きながら続ける。

「四人のうち二人は、よく見たらそんなにキュートじゃなかった。何だかぼくのことを睨んでる気がするし」

「待った。四人も来てるって?」

「大学生らしいよ。若いなあ。お肌がみんなつるつるだ」

「大学生?!」

 あまりに予想外すぎる訪問者に、ぼくはしばし絶句した。高校卒業後すぐに働き始めたぼくにとって、大学生なんて未知の生き物だ。スムージーを片手に芝生で学術書を読む属の人間が、しがないフリーランサーに一体何の用だろう。

 再び時計に目をやった。ブライアンとの約束までに、まだ二時間以上余裕がある。彼らのために時間を取る分には問題はないけど。

「……来訪の目的はなんて言ってる?」

「聞いても、答えようとしないんだよねえ」

「じゃあ申し訳ないけれど、断ってもらっていいかな」

 高等数学とか解かされそうで怖いし。

 ぼくの答えに、ワイアットが爽やかに「了解」と答え、受話器の向こうに消えた。すぐに戻ってきて、彼にしてはやや曇りのある声で続ける。

「ルーク、彼らから伝言だ。『自分たちはアラン・マクスウェルの友人です』と、君に伝えて欲しいと」

 彼の言葉に、ガツンと一発喰らったような衝撃を受けた。思わずその場にへたり込みそうになる。

 驚きや疑問が一緒くたになってぼくに襲いかかり、さらに頭をくらくらとかき乱していく。その中でもひときわ大きな声が、ぼくの中で呆然としたような呟きを漏らした。

 アラン、君はまだ大学生だったのか……。

 なんとかショックを受け流し、散々迷った末に——ぼくは彼らの来訪を了承した。

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