4話

 無惨な状態のパティオ、砕けた天井の一部と廊下に散らばるその破片と植木。そして、無邪気に礼一の回りを泳ぎ回っている半透明のイルカ。

 そのイルカが時折、礼一の頭をつついてくる。

 この国に着いたばっかりなんだけどなあ、と日本語でぼやきたいのをぐっとこらえて、礼一は口を開いた。

「つまり、あなた方はこの状況に説明が出来ると?」

「まあ、おそらくある程度は」

 にっこりと、魅力的な微笑みを浮かべてそう言われたが、その微笑みを楽しむ気持ちになど、とてもなれそうになかった。

 礼一は、ただにっこりと微笑み返し、言った。

「その説明は、長くなりますか?」

「は……?」

「この後、別の部屋を見学する約束があるので、いったん失礼します。入居を希望するかどうかはまた後ほど改めて——」

「待った、待った待った!」

 クリスが慌てて礼一の言葉を遮る。目を丸くしたターニャと、にやにや笑う階下の青年が、成り行きを見守っているのが目の端に映った。

「君に言っていなかった、入居条件があるんだ。先ほどは、応募者が多いから住んでもらえるか分からないと伝えたが、その条件を満たしているようなら、すぐにでも入居してくれて構わない」

「それが、この子が見えるかどうかってことですか?」

「正確に言うと、少し違う」

 言いながらクリスが空中をなで、何事かをささやく。そしてその次の瞬間、何かに二の腕を甘噛みされる感覚を覚えて、礼一は思わず飛び上がりそうになった。

「な、なに……」

「ぼくにその子は見えない。君にこの子が見えないように。——入居の条件は、ここに住み着いている、多くの人の目には見えない動物たちのうちの、どれか一つが見えること。いや、見えなくても、その存在を知っていて、受け入れられることだ」

「この場所、こういう子たちが集まりやすい場所みたいで、さっきみたいなことが、時々だけど起こるのよ」

「見えないけれど、触れられるからねえ」

 ちょっと待て、木がものすごいスピードで吹っ飛んでくるようなことが、時々起こるだって?

 なんてデンジャラスなのだろう。修行にはもってこいだろうが、礼一はごめんだった。

 やはりうまい話には裏があるのだ。偉大なる人生の教訓をありがとう。

「分かりました、それも考慮に入れて、後日改めて連絡させいただきますね」

 そう言って三人に背を向けたところで、クリスが、がしっと礼一の肩に手をかけた。思わず内心で舌打ちをする。

 首だけで振り返って横目でちらりと彼の様子をうかがうと、クリスが再びにっこりと笑った。その笑顔は彼の強い意志を如実に伝えていた。

 逃がさないぞ、と。

「……ちゃんと連絡するって、言っているじゃないですか」

「……君は、平気で連絡をせずにフェードアウトしそうだ」

 なぜこの短時間でそう思われるように至ったのだろう。微笑みを浮かべて「そんなことは、ないですよ」と言ってみたが、クリスは疑わしそうに目を細めただけで、何も言わなかった。しばしばその体勢で見つめあった後で、礼一は諦めて彼に向きなおる。

「ぼくに選択権があったって良いでしょう」

「もちろんだ。ただこちらも、ずっと入居者の募集をかけ続けて、条件を満たしていたのが君一人なんだよ。そもそも、ここまでたどり着ける人間すらほとんどいないんだ。わかるだろう」

 いつの間にか、もう片方の肩にも手がかかっている。

「ぼくの部屋探しの第一条件は、清潔さと静けさなんです」

「静かだよ。君も見学しながらそう感じただろう、レーイチ? この一画はまわりを木々に囲まれていて、しかもその森も含めてオーナーの私有地だ。外の喧噪はいっさい聞こえてこない」

「ああ、だから先ほどのようなことがあっても、外へそれが伝わることがないのですね」

 笑顔のクリスに微笑み返しながらそう言うと、再び沈黙が訪れる。しばし微笑みあった後で、おもむろにクリスが口を開いた。

「——レーイチ、君はワーキングホリデービザでこの国にやってきたんだったよね。もう職場は決まったのかな」

「いえ、先ほどこの国についたばかりなので」

「海外からの働き手は、正規の給料ではなかなか雇ってもらえないことは知っているだろうか」

 それは有名な話なので、もちろん知っていた。

「しかも、今はシーズンの後半だ。多くの雇い主は人を減らし始めるだろう。職探しには向かない時期だよ」

 それも想定していたことだった。貯金があるためそう悲観はしていないが、履歴書を何十枚と配っても雇われなかった人の話を聞くと、多少不安を覚えないわけではなかった。

「ところでぼくは店をいくつか経営しているんだが、そのうちの一つで人を募集しようかと思っている。簡単な店番だ」

 うっかり心が動いてしまった。落ち着け、甘い言葉に惑わされるなと自分に言い聞かせる礼一に、クリスがたたみかけた。

「オーストラリアの法律に則った、正規料金を支払おう。時給十九ドル(約千五百円)、週五日、一日七時間、暇な店だから、客がいない時は英語の勉強なり何なりしてくれてかまわないし、この店を職探しのつなぎと考えてくれてもいい」クリスが礼一の目のじっと覗き込みながら言った。「この部屋に住んでくれるなら、君にこの仕事を紹介すると約束するよ」

 礼一の心が、大きく揺れていることに気がついたのだろう。男がどこか余裕のある表情で、とどめの一言を口にした。

「ちなみにぼくの本業は、オーガニック食材を使ったレストランの経営でね。よく余った惣菜やパンをもって帰るんだ。ぼくひとりで食べきれる量ではないし、ルームメイトに食べてもらえたらなあと思っているのだけれど」

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