2話

 だが希望に満ちた新生活も、ここまでくるとさすがに話ができすぎている気がして、警戒心が湧き上がる。

 軽い自失状態から立ち直れないまま、礼一はこちらに向かって歩いてくる男を凝視した。

 緩やかに撫で付けられた、ほとんど焦げ茶色に近い鈍い金髪。まっすぐな鼻梁と、シャープだがしっかりとしたあごの造形。力強い眉と、その印象を和らげる甘い目元のバランスが絶妙だと思った。

 男が、礼儀正しい位置まで礼一に歩み寄り、口を開く。

「初めまして。レーイチ?」

「ええ」ようやく笑みを取り戻した礼一は、努めて穏やかな声で答えた。「初めまして、ええと、ダニエル? お時間を下さってありがとうございます」

 礼一の言葉に、相手もほっとしたようだ。微笑み返しながら、礼一の方へとさらに足を進めてくる。

「とんでもない。——こちらこそ、無事にたどり着いてくれてありがとう」

 返答が半瞬遅れた。無事にたどり着いたことにお礼を言うのは、英語圏では一般的な挨拶だっただろうか。

 面食らいつつもすぐに立ち直り、礼一はそつのない笑顔で男の言葉を受け流した。男が続ける。

「それから、ごめんなさい、ぼくはダニエルではありません。彼はこの家のオーナーですが、今取り込み中のため、ぼくが代わりに案内します」

 男が、にっこりと爽やかな笑みを浮かべ、手を差し出した。

「クリストファーです。クリスと呼んでください」

「よろしくお願いします、クリス」

「どうぞ、中へ。ここはエントランス部分になります」

 彼の言葉に促され、礼一は改めてあたりに目をやった。

 入り口こそ素朴で小さなものだったが、エントランスは意外なほどに華やかな作りだった。

 滑らかな石畳の床はきれいに掃き清められ、中央には二階部分まで吹き抜けになったパティオが設置されている。二階部分へ伸びる螺旋階段には凝った装飾がなされていて、青空に映えてそれだけで一枚の絵のようだ。

 そしてその美しさに引けを取らない存在感のある男が、長い手足を優雅に操りながら、礼一を先導する。

「この一角には、二階部分もあわせて四つの家があるのですが、このエントランス部分のみ共有です。オーストラリアには長く滞在する予定ですか?」

「そうですね。一年はいるつもりです」

「もしかして、ワーキングホリデー?」

 イエス、と答えた礼一に向かって、男が笑う。

「ぼくもあと五歳ほど若ければ、制度を利用して日本に行きたかった。ゲームやアニメを好きになったのが三十過ぎてからでね。あの階段が見えますか?」

 彼の視線の先を見やると、植木に隠れるようにして存在する地下への階段が見えた。

「あそこが駐車場です。車を購入する予定があるなら、ここに駐車可能です」

 特に車を買う予定はなかったので、頷くにとどめて先を促す。

「ぼくたちの家は、二階部分になります。入り口からみて、左側です。この家の一階部分も入居者を募集中ですが、見学してみますか?」

「では一応——」

「ただ、そちらの家はまだ誰も住んでいないので、新しく入居者が入るまでは、家賃をひとりで全額負担していただくことになりますが」

「二階の家を見学したいです」

 礼一の即答に、男が声をあげて笑った。

「オーケイ、わかりました。それではこのままぼくの家を案内しましょう」

 そう言って、クリスがエントランスの螺旋階段に足をかけた。エレベーターの類いはなさそうだ。

 階段を上るごとに表情を変えていく光景が物珍しくてついきょろきょろと辺りを見渡していると、それに気がついた男が振り返って微笑みを浮かべた。

「——何か、目につくものはありましたか? レーイチ」

「いえ、ただパティオがきれいだなあと。華麗な装飾なのに居心地良く感じるのが不思議です」

「ああ、オーナーの趣味です」クリスが肩をすくめて頷く。「中央の花壇のあたりは特に日当たりも良くて、よく他の住人もベンチでのんびり過ごしているようですよ」

「いいですね。それは本当に心地が好さそうです。風も気持ちがいい」

「風」ぼそりとつぶやいたクリスが、再び礼一を振り返る。「ええと、この風について、どう思いますか?」

「どう思う、ですか」

 質問の意図を測りかねて、礼一は再び困惑のにじむ笑顔を浮かべた。

「日本の風に比べると、ずいぶん乾燥しているなと感じます。爽やかで、心地がいいです」

「そうですか、それは良かった」

 礼一の言葉に、男は笑みを深めた。だが、さすがに今の答えが、質問の意図とずれていたのだろうということくらい分かる。

 自分の英語力にやや自信を失いながら、礼一はクリスに続いて家のドアをくぐった。

 エントランスの華やかさとは対照的な、ごくシンプルな印象の玄関。こちらは、居住者の趣味だろう。

「きれいですね。とても清潔そうだ」

 礼一の言葉に、クリスが少し照れたようにサンキューと口にした。

「この家には、まだぼくしか住んでいないんです」

 そう言って、クリスが靴のまま礼一を促し、慣れた様子で家のひとつひとつを案内していく。

 そんなに広くはないが機能的なキッチンに、暖かみのある木のテーブルが設置されたダイニングルーム。テレビの前には大きめのソファがあり、その下からゲーム機がのぞいているのが少し微笑ましかった。

 バスルームにバスタブが設置されているか、しっかりチェックしてから、クリスの先導に従って部屋に向かう。

「ここが募集中の部屋です」

 そういって案内されたのは、広さ八畳ほどの部屋だった。扉が鏡になっているクローゼットに、クイーンサイズのベッドと机が設置されている。そして窓からは、先ほどのパティオが見えた。

 悪くない。

 いや、悪くないどころか写真で見るよりはるかに魅力的だと思った。清潔でセンスがよく、そして何より静かだ。

「ありがとうございます、クリス。とても素敵な部屋ですね」

「そういってもらえると嬉しいです。もし気に入っていただけたら、直接オーナーにそれを伝えてください。ただ、見学者はかなり多いようなので、住んでいただけることになるかは分からないのですが」

「大丈夫です、クリス。この部屋が人気な理由はよくわかります」

 そういきなり全てうまくいきはしないか、と妙な安堵感を覚えながら礼一は頷く。

「もしこちらに住むことになったときには、どうぞよろしくお願いします」

 その言葉に、玄関の扉に手をかけていた男が、ちらりと礼一の方を振り返った。  少しの間、礼一のことをじっと見つめ、ため息を漏らす。

「……ぼくとしては、君なら歓迎なんですがね。日本についての話もぜひ聞いてみたい」

 どうやら本音であるらしい男の言葉に被さるように、外から「クリース!」と彼を呼ぶ女性の声が聞こえてきた。

 ドアの向こうへ目をやったクリスが、肩をすくめてため息をつく。

「ねえ、クリスってば——あらら?」

 当の女性と目があった。目を瞬かせたのは一瞬で、女性はすぐに、礼一に向かって明るく声をあげる。

「もしかして、新しい見学者さん? ハーイ、こっちの家に住むターニャよ」

 女性が口角を上げ、非の打ち所のないきれいな笑顔でそう言った。すらりとした長身に、緩やかな巻き毛が目を引く美しい女性だった。きれいに日焼けした肌にはつやがあり、ぱっと見の印象より若いのだろうということが分かる。あらわな胸元が扇情的だ。

 彼女がむき出しの脚を弾むように動かしながら渡り廊下を歩いてくるのを見て、クリスと礼一もまた外へ出て、彼女の方へと足を向ける。

「ハイ、レーイチです。初めまして。ここに住むかはまだ分かりませんが」

 そう答えると、ターニャはレーチ、とつぶやきながら、礼一の瞳をまじまじと覗き込んだ。

「ぱっと見では分かんなかったけど……驚いた、近くで見るとずいぶん、なんと言うか、華のある顔をしているのね」

 言葉に詰まる礼一を凝視したまま、彼女が続ける。

「もしかして、ゲイ?」

 初対面での、あまりのぶしつけな質問に、礼一は完全に言葉を失ってしまった。  その一瞬で悟ったのだろう。ターニャが顔をしかめて、ジーズ、とうなった。

「動作がずいぶん滑らかだと思ったのよね! こんなありふれた言葉なんか言いたくないけどさ。なんで良い男ってゲイか既婚者なわけ?」

「……動作が滑らかなのはゲイだからではなく、武道をしていたからだと思いますよ」

 礼一は力なく反論してみたが、当の彼女は大して感銘を受けた様子もなく、ちぇっと言いたげに肩を落としている。

「ターニャ、失礼だろう。せっかくの入居希望者が逃げてしまったら、どうしてくれる」

 眉をむっつりしかめながら、クリスが彼女に向かって言った。

「用事があるなら後で聞くから、ちょっと待っていてくれないかい」

 その言葉に、彼女は「はいはい」と肩をすくめる。そして礼一ににっこりと手を振り、二人に背を向けた。

 反射的に振り返していた自分の手を見下ろし、礼一はつい苦笑を漏らす。

 環境も住民も悪くなさそうだが、とにかく静かに暮らしたいという自分の望みには、なんとなく合致しない気がした。

 まあ、入居希望者も多いようだし、この部屋に住める可能性がそもそも低そうだ。残念だが、内覧一件目で、住む部屋が決まることの方が珍しいのだろう。

 そんなことを考えながら、礼一は何気なくパティオの方へと視線を落とした。

 そして——。

 落とした視線の先で、花壇に植えられた木の根元がぼこっとふくれあがるのをみて、驚きのあまりあごを落とした。

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