かんしょう 2

 実は少しだけ期待していた。

 わたしがうまく『影』としての義務を果たせば、由羽が起きるんじゃないかって。

 そんなことはなかった。


 今日も起きない由羽を三十分ばかりぼんやり見つめてから、病院を出た。どんどん川の上流に向かって歩いて行く。家とは反対方向だけど、構いはしなかった。

 橋を一つ通りすぎると人影は見かけなくなった。川の流れもより細くなり、桜並木が途切れている。

 街を囲む山が迫ってきた。川は広い谷の右端を貫いている。川の上流は山の中に吸いこまれていく。

 もっと上に歩いて行けば、遠夜の家があるのだけど。

「……柊さん?」

 聞き慣れた声が川原から聞こえてきた。見下ろせば川に釣り糸を垂らした秋孝がいた。

 秋孝とはこの春から同じクラスだ。佐倉さんもいるから、「前のクラスでいっしょだったよしみ」として紹介はされている。会話はあまりない。

「家こっちじゃないよな。」

「……うん。」

「なんか遠くない。」

 そう言われて、確かに秋孝の声が聞き取りずらいことにうなずく。こっち来なよ、と秋孝はわたしを手招いた。

 拒否する理由は、とくになかった。

 わたしは川原に降りる階段を探した。見当たらない。きょろきょろしていると秋孝が少し右のほうを指さした。

 よく見ればガードレールの途切れたところに見慣れた自転車が止めてあって、その近くに狭くて急な階段があった。

 川原に降りていくと、秋孝は黙って小さなピクニックシートを取り出して地面に敷いているところだった。ぽんぽんとそれを叩く。座って、ということらしい。

 いや、座って話していくほど仲良くないはずなんだけどな……。

 最近の秋孝は由羽がいなくなったことで緊張の糸がぷつりと切れてしまったのか、以前の秋孝を真似ることさえ忘れて呆けている。元々そんな感じはしていたけど、今の中の人は元々そういう性格らしい。

 そういえば、本当は誰なのか、名前さえ聞くこともなかったな。今となっては聞こうにも聞けないわけだけど。

 座る前に、なんとなく理由付けをしたくて秋孝に尋ねた。

「この辺で一人になれるところってあるかな。」

「さあなあ。人通りが少ないから逆に一人でいると目立つよ。」

 そんなことは自分が一番よくわかっていた。だってずっとこのあたりで育ってきたから。

「……じゃあ、ちょっとだけ、ここにいてもいい?」

 秋孝は首をひねっていたけれど、「いいよ。」と言って釣り竿のリールを巻き始めた。なかなか獲物はかからないようだ。

 わたしは秋孝の隣に座りこんだ。

「黒田君、小テスト、勉強した?」

「あー、まだ。」

「それこの間もまーちゃんに言ってたよね。」

「うん。いつもこんな感じだから。」

「昔から?」

「うーん……どうだったかな。」

 なんてことのない会話。そのはずなのに、眺めていた川面がにじんだ。

 顔を伏せたわたしに、秋孝は何も言わなかった。黙って釣り糸を巻いては投げるを繰り返している。川の流れは緩やかで、見ていると心が落ち着いた。

 こうやって秋孝と、……別人だけど、普通に会話できているということが、うれしかった。

「なんかあったの。」

 体の水分が全部出ちゃったんじゃないかってくらいまぶたが腫れぼったくなったころ、秋孝が竿を振りながら言った。

 なんだよ。聞いてくれるなよ。誰に聞かれたって説明なんてできないのに。

 こっちが黙っていると秋孝も黙っていて、沈黙に耐えられなくなったのはわたしのほうが先だった。

「ある人が言ってたんだ。わたしとよく似た子の話なんだけど。あの子は自分から行動しないから、君は自分から行動して偉いね、みたいな。」

「うん。」

「それを聞いて、思ったんだ。全然違うって。わたしは、その子がやりそうなことを真似しただけだったのに。当の本人は、全然違うって。なんだかおかしくって。私はそうしなきゃいけいないと思ってやったのに。」

 深い話は何もしない。当事者の秋孝には、一番言いたくない話なのだから。

 なにも返事がなくて隣を見れば、釣りに集中しているのか、遠くを見ていた。やっぱり自由なやつだ。

「……なんで真似したの。」

「え?」

「柊さんなりのやり方じゃ、だめだったの。」

 わたし――ぼくなりの、やり方。

 わかっている。だってこれは、わたしに似ている女の子の話だから。

「それじゃあ駄目だったんだ。」

「なんで?」

「それだと、時間がどうにかしてくれるって思って、何もしなかったから。」

 かなとがかなえがそういう性格だと教えてくれた時、確信した。ああ、ぼくもそうだったんだなって。

 部屋に閉じこもって、どうにか時間をやり過ごしていた日々。どうにかしなくちゃと思いながら何もできなかった、あの日々。

 本当なら、あの部屋から出て学校に行って佐倉さんを助けたり、親と話したりしなきゃいけなかったのはぼく自身だったのに。

 すべて、他人に任せていたんだ。

「柊さん、変わりたかったの?」

「……そう、だね。」

 そうかもしれない。

 否応なく変わっていく状況の中で。わたしは、「変わらなくちゃいけない」と思うことすら忘れていた。もう変わってしまったから、それに合わせないと、と必死だった。

 結局、そういうことなのだ。

「変わりたいとは思ってなかったけど。結局変わらなきゃいけなかったから、変わったのかもね。」

「そう。」

 ……なんだ、その淡白な返事は。

 そこにいるのは秋孝じゃない。わたしだって、由羽じゃない。それなのに、ずっと前からこうだったみたいに会話ができて、つい肩の力が抜けてしまった。

 もう残ってないと思っていたのに、また目からぽたぽたと水滴が落ちてくる。

 川原には日が傾くまで、水の音と、秋孝が釣り糸を巻く音と、わたしの声が響いていた。

 結局、秋孝は一匹も魚を釣り上げることができなかった。

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