8 影

 道路までの暗い石畳の道をふらふら歩く。

 ぼくは、さっきのやつの言葉をずっと頭の中で繰り返していた。昔っからぼくを知っているような、まるで「あいつ」みたいな言葉。そういえば前にも、昔からぼくの友人だったかのようなことを言っていたような気がする。

 いや、もう気がついていたんだ。自分の問題ですら捨て置く臆病なぼくが、認めたくないだけで。

 ポケットからスマホを取り出して、「黒田秋孝」の名前を探した。いつも電話なんてしないけど、でも、今日はこっちのほうがいいだろう。

 耳に呼び出し音が響く。けっこうな間があって、つながると同時に「なんだ?」と不機嫌そうな声がした。一週間ぶりの秋孝の声だった。

「あのさ。一つ聞きたいことがあるんだけど。」

「明日の小テストなら漢字の書き取りだぞ。」

「そうじゃなくて。」

 たぶん、いや確実に、秋孝なら一言でわかるって確信していた。

 深呼吸をする余裕もなく、口から出た声は震えていた。

「秋孝。ドッペルゲンガーって信じるか?」

 やかましい葉擦れの音が、ぼくを笑っているようだ。

 少し間があってから、「なんだ。」と気の抜けた返事が聞こえる。

「もうばらしたのか。あいつもせっかちだな。」

「じゃあ、お前は――。」

 にやりと笑う気配がした。ぼくの知らない顔で笑っているに違いない。だってこいつは、ぼくの知っている秋孝ではないんだから。

 答え合わせをするように、秋孝は弾んだ声で言った。

「そうだよ。俺は黒田秋孝を乗っ取った『影』。で、お前のところで遠夜由羽をやっている『影』が、ほんとうの黒田秋孝だよ。そういう仕組みだからな。」

 やっぱりと口から音が漏れて、ぼくはその場に座りこみそうになった。どうにかこらえられたのは、家の外にある街灯が見えたからだった。

「じゃあ、一学期にぼくに話しかけなくなったのは。」

「ばれそうで怖かったんだよ。お前らの付き合いは秋孝から聞いてたからな。会話をしたら即ばれるかもしれない。そんな危ない橋は渡りたくなかったんだ。」

 やっと慣れてきたのに、と残念そうな声が続いた。

「この頃はうまくできてただろ? どうよ?」

「……いや、結構ぼろが出てた。ぼくが感づく程度には。」

 秋孝の影は「例えば?」と無邪気に訊いてくる。

 遠くの明かりを目指して歩いた。違うとわかっていても、そこが出口に見えてしょうがなかった。一体、どこから出ようとしているのだろう?

「あいつはぼくのこと、地主とか言わない。あと勢いで大間に行ったりなんかしない。」

「後のほうは俺もそう思うよ。前のほうは……。そういえば、昔なんかあったんだっけ。」

 ぼくは相手に伝わらないとわかっていて、肩をすくめる。

 昔、今みたいにあの人たちが喧嘩をした時だ。そのころは喧嘩の原因がぼく自身なんじゃないか、なんてかわいいことを考えるような純粋な子だったから、プチ家出をしたのだ。

 とはいえ子供の足で行けたのは秋孝の家までで。二人で川原を歩いた程度だったけど。

 その時に二人で約束したのだ。大きくなったらこの川を歩いて海まで行こうと。大人になれば自由になれると考えた、浅はかな子供の頃の思い出だ。

 べらべらしゃべるほど親切ではないから、さっさと話を戻した。

「じゃあ、ずっとお前が秋孝をやってたのか?」

「ああ。あいつ、いち早く『影』になりたがってたからな。」

「……なんで?」

 道路に一歩出て、立ち止まる。街灯に引き寄せられた蛾がふらふら舞うのを見上げる。

「あいつは賭けにでたんだよ。」

 電話の向こうからがらがらと音が聞こえた。引き戸を開けた音だろうか。

「――もあんたや秋孝と同じように、元は普通の人だった。」

 突然、『影』は言う。

「それがいきなりもう一人の自分が現れて、あなたのことを手伝いますとか言い出して。はまんまとそいつの術中にはまって居場所を乗っ取られた。その後なにが起きたと思う?」

 頬を冷たい汗が流れる。

「……?」

「そういうこと。一人の人が二人存在するなんて無茶は通用しない。だからわたしはんだ。」

「それなら、んじゃ。」

 自分で言っておいて、後から震えが来た。

 ――ぼくはいま、その当事者なんじゃないか。

「あんたも、そのうち誰かの『影』になる。そしてそれが秋孝の望んだことだ。」

 秋孝の、いや、秋孝の『影』の声に、ぼくはその場に座りこんだ。

 何を考えていたんだろう、あいつ。ずっと一緒にいたのに、秋孝の考えていたことがちっともわからない。

「どういうことだ?」

「さあな、詳しいことは聞いてない。ただ、あいつは約束だからって言ってた。」

 約束。なんの約束だろう。

 ……まさか。

 秋孝は、「どこにも行けないぼく」の代わりになろうとしたんじゃ。

 ぼくが黙ったのをどうとらえたのかは知らないけれど、秋孝の影は「よかったじゃないか。」と明るい声で言う。

「もうあいつとは交代したんだろ? そのうち『影』になって誰かに乗り移れば、遠夜由羽として生きなくてもいい。そんな家ともおさらばだ。」

「『影』になる……。」

「違う誰かになれるんだよ。」

 ぼくが、遠夜由羽じゃなくなったら。

 父さんと会わなくてよくなる、っていうのはちょっと嬉しいかもしれない。でもそんなの、現実でもどうにかできる。両親が離婚したりすれば、あるいは。

 この家を継ぐのは元からそんなに嫌じゃない。離れられないっていっても旅行くらいには行ける。それでじゅうぶん。

 べつに、ぼくが別物になる理由は、どこにもない。

 どうしてこう、次から次へと厄介なことばっかり。

 衝動的にスマホを投げ捨てようとして、そんなことは無意味だと、ここにいないやつに言われたような気がした。だって、さっき言われたじゃないか。

 誰に聞かせるわけでもなく、小さく声が漏れた。

「……もう元には戻れないんだ。」

 スマホを握りしめて、さっきやつが……、いや、遠夜由羽になった秋孝が言っていた言葉をかみしめる。

 竹林の中を風が駆け抜けた。同時に、遠くから光が届く。

 森の中から、光が近づいてきた。車のヘッドライトであることは、道沿いに動く光の軌道ですぐにわかった。

 ふたたび、しっかりスマホを耳に当てる。

「それって、自由って言えるのか?」

「……由羽?」

 怪訝そうな声。ああそうだ。うまくいったやつにはわからないかもしれない。

「自由っていうのは、自分でひねり出すものだろ。人から与えられる自由なんて、身勝手な同情みたいなもんだ。重くて厄介なだけだ。」

 秋孝を悪く言うつもりはなかったんだけど。心を決めてしまったから、もう言葉を止める堰はなくなってしまったんだ。

 元に戻れないなら、ぼくから終わらせるしかないじゃないか。

 光と共に重低音が近づいてきた。ぼくは立ち上がって、家の前の道路へやって来る光を見た。妙にふらふらしていた。

「他人の人生を生きなきゃいけないなんて、ごめんだ。」

 おい、とぼくを呼ぶ声が遠ざかる。スマホは手から滑り落ちた。ぼくは光に包まれて、目を閉じた。

 急ブレーキの音。

 間に合わないのは計算済みだ。


 すぐに意識が飛んだから、痛みはそんなに感じなかった。


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