6 遠夜家

 家に帰ると、三日ぶりに母さんがいた。仕事の時のぱりっとしたスーツじゃなくて、ゆったりした部屋着を着てリビングのソファに足を組んで座っている。ぼくが入ってくるのを見ると、「お帰り。」と言ったっきり目線をテレビに戻した。声をかけ辛い雰囲気だ。

 ぼくはその背中に「ただいま。」と声をかけると、台所にお弁当箱を出しに行った。夕飯の準備をしている家政婦さんからお茶をもらって、さっさと自分の部屋に引き上げよう。

「お茶もらいますね。」

「はい、どうぞ。」

 自分の家だけど、今の台所は家政婦さんのテリトリーだから一言断って冷蔵庫を開ける。中にはどこかで見覚えのあるプラスチックのカップが何十個も並べられていた。

 家政婦さんがこっそり耳打ちしてくる。

美船みふねさんが作っていたんです。もう固まっていますから、どうぞ。」

 ああ、やっぱり母さん怒ってるんだ。

 うちの母さんはなにかあるとお菓子を作る。気が高ぶると考えがまとまらなくなるから、甘いものの匂いにつつまれて精神を鎮めるらしい。ある意味母さんの念が込められているからあんまり食べたくはないんだけど、おいしいのも事実だから一つもらうことにした。

 それに、食べ物に罪はない。

 お茶とプリンを持って母さんに近づく。

「母さん。プリンもらうよ。」

「何個でも食べなさい。」

 振り返らずに言われて、あきらめてリビングを出ようとした。本当はちゃんと顔を見たかったんだけど。

 半分廊下に出たところで、「由羽。」と名前を呼ばれた。

 ふり返ると、ソファに座ったまま、母さんがまっすぐな目でこっちを見ている。秋孝とは違う意味で、ぜんぶ見透かされる気がする。

「今日はさっさとご飯食べて、さっさと寝なさい。じゃないと騒がしくなるから。」

「うん、わかった。」

 ぼくは静かにリビングの扉を閉めた。

 速足に自分の部屋まで歩いて、プリンとお茶を机に置く。鞄を放り出すとすぐにベッドに倒れこんだ。

 ついにばれたか。

 三週間くらいだろうか。さすがにほとんど家にいなくても、わかるものはわかるらしい。

「――ねえ、なんなの、この儀式みたいなの。」

 いつの間にか椅子に座ったぼくの影が、プリンを勝手に食べている。ニコニコしているところを見るとそれなりにおいしいようだ。そりゃそうだ。母さんのお菓子作りは昔っから続いているのだから。ケーキを作らせたらパティシエ顔負けのができる。

「いつものことだよ。あの人の浮気がばれて、母さんが大喧嘩をする前に心を落ち着かせるためにお菓子を作るんだ。この後盛大に怒るために、気を溜めてるんだってさ。」

 やつはスプーンを口にくわえたまま微妙な顔をした。砂糖と塩は間違っていないはずなのに。

「かなり怨念がこもってないかな。」

「お菓子に罪はないさ。」

 苦そうにプリンを食べ終えて、しっかり手を合わせたやつはぼくに向き直った。

「いつもこんな感じなの?」

「うん。昔からずっと。」

 最初に裏切ったのがどっちなのかは知らない。でもたぶん、あの人のほうが先だろう。だって母さんの浮気がばれることは今まで一度だってなかったから。

「大丈夫。一方的に母さんが怒るだけだし、むしゃくしゃしてもあたるのはたいてい物だから。懲りずにまたどっか行っちゃうし。」

「由羽にはあたらない?」

 ぼくは静かにうなずく。

「小さいときに、母さんが作ったお菓子といっしょに木製のバッドを持たせてくれた時があってね。ケンカが終わって子供部屋にやってきたあの人がそれを見て何もせずに行っちゃってからは、一回も口きいてない。」

「一回も?」

 やつは目を見開いた。

 今はもう、姿をたまに見かけるだけ。誕生日やクリスマスのプレゼントをくれるのは、いつだって母さんと家政婦さん、それに玄さんだけだった。学校の行事に顔を出したこともなければ、一緒に旅行に行ったこともない。親子って呼べるのかも、もう怪しい。

 父さんと呼ぶ気すら、おきない。

 ぼくの影は気づかわし気にこちらを見てくるけれど、そういうのは家政婦さんからさんざん向けられていて、慣れっこだった。

 うちの家族は社会的に見れば異常だろう。でもぼくにとってはこれが普通だ。

「つらくないの。」

「べつに。ずっと前からこうだし、ぼくはどうせここから動けないし。」

 そう、ぼくは家を継がなきゃいけない。

 こんな大きな家の子供で、一人っ子で、男子。生まれたときからこの土地を受け継ぐって、しぜんと決まっていた。

 これ以上居づらくなるくらいなら、悪化させないように静観したほうがいい。親のもめごとは気持ちから切り離していたほうが楽だ。

「逃げ出そうとは思わなかったの?」

 やつはやけに食い下がってくる。椅子の背もたれを体の前に抱えこんで座っている姿は友達とゲームの話でもしているかのようで、他人の話を聞いている、って感じがする。

 昔、似たような会話を秋孝としたのを思い出した。そのときは状況が少し違っていて、ぼくの考え方も今のものではなかったけど。

「昔はまだ、自由に将来が選択できると思ってたから、遠くに行ってみたいとか言ってたけど。今はそうでもないかな。」

「……へえ。」

 影はため息みたいな声を出して、それからいつものようににっと笑った。

「遠くに行きたくなったら言ってよ。ぼくが代わりに由羽になってあげるから。」

 「もう一人のぼく」からの提案としてはもっともな意見だったけど、それは言い得て妙な言葉だった。

「お前、もうほとんどぼくみたいなものじゃないか。」

 そう言うとやつも自分の言葉を反芻して「そうかも。」と手を打った。

 その夜は言われたとおりに早めに寝ようとしたのだけれど、部屋の外が気になって眠れなかった。いつにも増して大きな音と共に言い合いは長引き、ついに窓の外が明るくなるころになってようやく収まったようだった。ぼくはほとんど眠れずに、やつに代わりに学校に行ってくれと頼んだ。

 両親と顔を合わせるのも、荒れ果てているであろう家の中を見るのも嫌だった。

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