第5話 静寂なる剛鎚

 時間はさかのぼり、昨日の深夜。辺りは静まり返り、歩いている音も響き渡っているかのように聞こえた。空には不気味に光る月と、その周りを囲むように星が輝いている。


 仕事で疲労した月宮が「それ」を発見したのは、そんな深夜のことだ。民家からは明かりが漏れておらず、街灯だけが夜道を照らしていた。月宮の視界はぼやけており、はっきり言って、半分寝ていたと言っても過言ではない。


 そんな月宮の視界に映ったのが、日神ハルだった。もちろんこのときの月宮がそれを知る由はない。そのときは、ただそこに人間のようなものが落ちている程度にしか思っていなかった。


 月宮はそこで考えた。今、自分の目に映っているのが人間なのか、そうでないのか。拾うべきなのか、放っておくべきなのか。回らない頭を使って考えた結果、月宮は「それ」を拾って帰ることにした。なぜそのような決断を下したのかは、今になってもわからない。魔が差した、と言うべきなのだろうか。その軽さに少し驚いたが、そのときの月宮にはたいした問題ではなかった。月宮はおぶって彼女を運んだ。月宮は部屋の前に着いた途端に「それ」を捨て、部屋に入った。捨てたといっても投げ捨てたわけではなく、壁に寄りかからせるように置き捨てたのだ。


 そんな昨夜のことを、月宮は秋雨に教えなかった。教える必要はないと思ったのもそうだが、教えたらなにを言われるのかわからない。それにその記憶はぼんやりとしていて、上手く説明できるようなものではなかった。


 今朝、秋雨が月宮の部屋を訪れず、日神の存在を知ることがなかったのなら、月宮は日神を放置し、隣人でも構わない、いずれ誰かがどうにかするだろうと淡い期待を抱くはずだった。


 それはもう、運が悪かったとしか言えなかった。


 日神を見つけてしまったこと、秋雨が部屋に訪れたこと、その両方が重なってしまわなければ、今日は久しぶりの休日のはずだった。


 運が悪いだけでは済まされない。月宮はそんな気がした。


 外履きに履き替え、昇降口から出た。ずっと座っていたせいか筋肉が固まっているようだったため、腕を挙げ軽く伸びをした。日は高く昇っており、朝よりもずっと気温が上がっている。


 ちなみに今は下校時間ではない。昼休みが終わるほんの数分前だ。月宮はそんな時間に外にいる。いわゆる早退だった。正確にいえば、サボタージュである。日神のことが気になり、居ても立ってもいられない、というわけではなく、そろそろなにかありそうな、そんな気がしたのだ。


 日神は姫ノ宮学園から逃げ出した。なにが原因で逃げ出したのかはわからないが、生徒を外に出さない姫ノ宮学園が日神を放っておくとは思えない。追手の可能性。月宮はそれを感じていた。追手がいなくても困らない。それはそれで平和的解決が望めるから。しかし追手がいる場合、それは望めない。姫ノ宮学園の異常なところは閉鎖的なところであるが、月宮が気になっているのは情報の少なさだった。漏洩の一つもない。数千以上の姫ノ宮学園の関係者がいて、それは可能なのだろうか?


 はたして、これまでに脱走をしたのは、日神だけなのだろうか?


 月宮はレンガで造られた道を歩き、校門へと向かった。しかし月宮はこれが本当にレンガであるかどうかは知らない。そう見えるだけで、案外違うものできているのかもしれなかった。


 日の照り返しがきつく、目を細めていると、校門にいる誰かの影が視界に入った。向こうからは歩み寄って来ない。まるで月宮のことを待っているようだった。


 その影の主と五メートルほどの距離で月宮は立ち止まった。その顔に見覚えはないが、その人物が来ている制服には見覚えがあった。


「はじめまして」


 目の前に立っている少女が口を開いた。腰まで届いている長い黒髪が古風な人形を彷彿とさせる少女だ。


「あなたが月宮湊で間違いありませんか?」


「いや違うけど」


「なるほど。どうやら間違いではないようですね」


 人の話を訊かない奴だ、月宮はそう感想を持った。目の前の少女は、日神よりも少しだけ背が高そうだ。秋雨よりは言うまでもなく、高い。


「私の名前は長月イチジクと言います」


 長月は淡々と台本を読んでいるかのように続ける。


「イチジクは基本的にはカタカナ表記ですが、漢数字の九でも構いません。名前などただの記号にすぎないのですから」


「じゃあ、名乗る必要はなかったんじゃないか?」


「初対面の方には、名乗るのが礼儀でしょう。ましてや、こちらから窺っているわけですから、これは義務とも言えます」


「それは俺にも名乗れって言ってるのか?」


 月宮は訊いた。


「そうですね」


 長月は肯定した。


「できるのなら名乗ってください。九割九分九厘、あなたは月宮湊でしょうけれど、念のため」


「まあ、月宮湊は俺の名前だな。お前が探している月宮湊と同姓同名だろうけど」


「いえ、この天野川高校にいる月宮湊は一人だけです。もっと言えば、この街に月宮湊という名前の人物は一人しかいません」


「あ、そう」


 昼休みの終了を告げる鐘が敷地内に響き渡った。そろそろ秋雨が、月宮がいないことに気付き始める頃だった。秋雨が慌てている様子が目に浮かぶようだ。そしてクラスメイトたちが、またか、と呆れているはずだ。


「それでは本題に入ります」


 長月は無表情だ。


「日神ハルをこちらに渡してください。返答次第では、武力交渉もやむをえません」


 見た限りでは長月がなにかを持っているということはなさそうだった。あるとすれば背後に隠し持っているか、あるいは衣服の中。そして当然、能力者という可能性もある。すべての能力者は、名簿に載っているらしいが、あいにく月宮はその名簿を見たことがなかった。姫ノ宮学園の人間が載っているとも思っていない。幼少期からあの学園に入ってしまえば、その情報が「外」に漏れることはない。


 あらゆる可能性を視野に入れ、月宮は長月を見据える。


「無回答は許しません。十秒以内に回答がなければ、武力交渉を開始します。その際、あなたの身の安全は保障しませんが、命までは取らないのでご安心を」


 月宮は長月を見ていて、人間ではなく機械と対面しているように感じた。あまりにも感情がなさすぎる。声に抑揚もない、まるで台本を読んでいるかのようである。長月からは冷気が発せられても不思議ではない。


「残り五秒です」


 長月は両手を開閉させた。動作の確認、準備運動なのだろう。


 長月がどんな手段で武力による交渉をするのか、月宮には見当がつかない。このような経験は積んでいなかった。大抵の場合、事前に知識を入れ、行動していた。そうでなければ、月宮湊という存在はいつ消えてもおかしくない。


 月宮は思考を続ける。長月との戦闘は避けなければならない。月宮の背後には数百の人間が納まっている校舎がある。長月の攻撃手段がわからない以上、この場を離れなければならない。数十メートルは離れているからといっても、安心はできない。


 目撃者を募り、長月が退散してくれればいいが、それは同時に月宮がなんらかの問題に関わっていることを知らせることになる。そうなれば、あの厄介な二大組織が動き出すことだろう。


「時間切れです」


 長月がそう言った瞬間、月宮は走り出した。目的地は人目につかない場所。この広い敷地内、校門側から見て左奥に存在する雑木林だ。生物部などが利用しているらしいが、この時間なら生徒はいない。敵に背中を見せることが、間違っていることはわかっている。しかし今は一秒でも早く目的地に辿り着かなければならないため、悠長なことは言っていられない。


 背後にいる長月の姿を確認した。その距離は十メートルあまり。月宮が走り出したと同時に、長月も動いていた。呆気に取られず、ただ月宮が逃走したという事実を認識しただけなのだろう。長月の手に武器はなかった。


 しかし、月宮の目にあるものが映り込んだ。


 あれは……。


 長月の広げた両手には魔方陣が光り輝き、その中心部から、長月の身の丈以上はある巨大な銀色のハンマーが出現した。その銀色に、日光が反射していた。そんな巨大なハンマーを握っても、長月の走る速度は変わらなかった。長月はハンマーを持ち上げようとはせずに、その頭部を引き摺っている。レンガのようなものでできた道が、けたたましい音と共に削られていく。それだけあのハンマーの重量があるのだろう。しかし長月の細い腕にそんな力があるとは思えなかった。


 月宮は目を疑ったが、逃走という作戦は間違っていなかったと安堵した。あの場から離れていなければ、確実に目撃者がいたことだろう。とはいっても、ハンマーが道を削る音は相当なもので、校舎のほうまで聞こえているかもしれない。傷跡は残ってしまうが、姿を確認されるよりはずっとよかった。


 それよりも月宮が考えなければならないことは、長月ことだった。


 魔術。


 魔方陣を使ってのハンマーの召喚は魔術によるものだ。それだけで、姫ノ宮学園がどんな組織なのかを、垣間見ることができる。長月が魔術で攻撃してこないのは、おそらくサポート系統の魔術しか使えないため。もし使えるのだとしたら、ここで使い渋る意味はない。一撃必殺とまではいかないが、月宮の行動を止めることくらいはできるはずだ。それをしないのは、できないから。そう考えるのが妥当だろう。


 月宮は魔術に詳しくない。そういうものが存在するから、少し勉強しておくようにと所長に言われ、多少の知識を得ているだけだ。狭く、浅い知識。つまりは基本中の基本を憶えた程度だ。


 ふと、あの騒音が聞こえなくなったことに気付いた。


 月宮は足を止めずに、背後を確認する。


 そこに長月の姿はなかった。あるのは今まで長月がハンマーを引き摺った跡が二本あるだけだ。どれほどの重量があれば、あそこまで地面を抉ることができるのだろうか。そしてそれを二本所持している長月はどこへ行ったのか。月宮は考えた。


(……まさか)


 月宮は自分の考えが正しいかどうかを思考錯誤する前に、すぐに行動へ移った。前にのめり込むように飛び上がる。その先はちょうどレンガのような道が終わり、月宮の目的地である雑木林だった。


 やわらかい地面に接触したと同時に、後方で轟音が鳴り響いた。それはまるで爆弾でも使用したかのような音と、そして衝撃だった。月宮は衝撃に押されながらも、両手で着地をし、そのまま勢いに身を任せ、斜面の地面を上るように転がった。月宮の膝あたりまでしかない樹の枝に体を引っ掻かれながらも、上手く受け身をとることができた。すぐに立ち上がり、近くにあった木に身を潜めた。少し小高い場所から、その轟音の発生源を確認する。


 土埃が舞っていて、その全貌は明らかではなかったが、そこにはクレーター状の大きな穴ができているだろう凹みを見ることができた。土埃はすぐに薄くなり、中心部に人影を見ることができるまでになった。そしてそれは、間違いなく長月イチジクである。


 衝撃による被害はなさそうだった。レンガのような塊が周辺に飛んだ可能性はあるが、幸いにも辺りに建物はない。それは月宮が誘導したおかげとも言える。問題は轟音のほうだ。あの大きさの音ならば、敷地内いっぱいに広がった可能性がある。それに気付いた校舎内にいた人間が外に出てくれば、当然、二本の削り跡を見つけるだろう。


 長月は二つのハンマーを引き摺りながら歩く。また耳障りな音を立てながら、ゆっくりと月宮のいる雑木林へと近づいてきた。


「まだ近くにいますよね」


 長月は息一つ乱していない。それは月宮も同様だ。


「私がどのような手段で攻撃をしてくるのか、それを見極めるために一度振り返ったあなたのことです。私の姿が確認できないまま、逃走するはずがありません。それを視認するまで――あなたの考えが正しかったと証明される瞬間を見逃すとは思えません」


 月宮の頬にひとすじの汗が流れた。運動による体温の上昇を調節するためのものではなく、湿度による暑さで流れた汗だ。雑木林の内部は風通しが悪いのか、それとも単に日光が差し込まないせいなのか、あるいはその両方なのか、それを判断することはできないが、ある程度の湿度が保たれているようだった。月宮の足元もひどくぬかるんでいる。日光は差し込んでこないが、雑木林内はサウナのようになっていた。


「それにしても、私がどこへ行ったのかを瞬時に気付いたのは評価できます。あの場面で立ち止まらず、周囲を確認しないのは、なかなかどうしてできないものです。そして、倒れ込むように飛び上がったのは英断です。自分のことを信じていなければ、あるいは臆病でなければそんなことできません」


 校門付近を確認することはできないが、二本の傷を辿ってくる者がいないということは、まだ誰も外に出てきていないということだ。校舎の外に出れば、まず間違いなく目にするその「異常」が視界に入らないことはありえない。


「それは重くないのか?」


 月宮は、長月の様子の確認を続ける。


「その後ろにできている傷跡を見る限りじゃ、かなりの重量があると思ってたんだけどな。もしかしてわざとなのか?」


「少なくとも私の二倍以上の重さがあります。もちろん一本につきです。これ以上はなにも言えません。あなたが腕を一本差し出すというのなら、話は別ですが」


 月宮はなにも答えない。長月との距離が縮まってきたからだ。月宮が今しなければならないことは情報収集である。長月は月宮の情報を持っている。それがどの程度なのかはわからない。それに対して、月宮は、長月の――追手側の情報を持っていない。月宮が逃げることに徹さず、長月の行動を確認しているのは情報を集めているからだ。攻撃手段、対応力など、今後必要になりそうな情報を、その目で確認している。


「あなたは魔術という存在を知っているんですね」


 長月は立ち止まって言う。


「信じない者が見れば、一瞬でも思考が停止するはずです。得体の知れないものを見たときの人間の反応とはそういうものですからね」


「俺のことは調べたんじゃないのか?」


 月宮は長月が立ち止まったため、返答をした。二人の距離は五メートルもない。


「調べても、出てこないことだってあります。それに今のはちょっとした確認です。あなたの反応を見たかった。実際に対面しないとわからないこともありますからね。ああ、でも今は隠れていて反応を見ることはできませんね」


 ここまでのやりとりで、長月が一筋縄でいかない人物であることがわかった。いや、改めてわかったのだ。それなりに頭の回転が速いようである。


 わからないのは長月が能力者であるかどうかだ。今のところその特徴は見受けられない。能力者がその力を行使する際には、瞳に欠片が浮かび、微小の光を放つ。それ故に彼らは《欠片持ち》と揶揄されることがあった。それを見ない限りは、可能性を振り払うことはできない。


 月宮は頭を軽く振って、考えを振り払った。ここまでの少ない情報があれば、長月のことを考える必要はなくなっているのだ。完全な情報でなくても、それで真実に辿り着ける要素が少しでも手に入ったのなら、充分である。あとは選択し、吟味するだけだ。そしてそれは今である必要はない。


 本来の行動をするために、月宮は深呼吸をする。長月の情報を得るのは、それのついでに過ぎない。極論を言えば、振り返ることをせずに、ただひたすら走っていればよかったのだ。「振り返る」という動作を二度行ったことにより、長月のあの叩きつけをする時間を与えてしまった。逆に言えば、振り返らなければ攻撃をされることはなかった、ということだ。月宮の慎重さが生んだ時間だった。


 もう一度、深呼吸をする。


 月宮の準備は整っていた。


 あとはタイミングを見逃さないことだけ。


「出てきてもらえないでしょうか」


 長月は静かに言う。言葉とは裏腹に焦りを感じさせない。


「そろそろ、人が集まってきてもおかしくありません。私の姿を見られるわけにはいきません。都市警察は厄介ですからね。できれば相手をしたくはありません」


 風が吹き、雑木林の木々を揺らした。葉の擦り合わさる音があちこちで聞こえ、他の音を打ち消すようだった。


「あまり被害を増やすのは好きではないのですが仕方ありませんね。この林の木々には倒れてもらうことにしましょう」


 月宮は、その瞬間を見逃さなかった。長月が手に力を入れ、ハンマーを握り直したのを確認した瞬間、月宮は走り出す。木の陰に隠れながらではない。長月に自分の姿が見えるように、わざと隠れないようにした。ここで長月が不信に思ったとしても、追いかけざるをえない。すぐそこに目標がいるのだから、追いかけない理由がない。


 月宮の思惑通り、長月は追いかけてきた。葉の接触したときの音や足音で、わざわざ振り返って確認する必要はない。それどころか、長月は目の前にある少しでも邪魔になりそうな木を折り倒している。


 木が軋みながら倒れる音、そこにいた鳥が羽ばたく音。そのすべてを無視して、月宮は雑木林の奥へと進む。

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