第3話 異質な脱走者

 月宮の部屋が今までにない空気で満たされていた。原因はもちろん部屋の前に倒れていた少女である。今はコーヒーで一息ついているところだった。部屋の外で見たときもそうだったが、改めて見ても少女の状態は決していいものとは言えなかった。


 髪は黒く、後ろで束ねている。陶器のようなその肌には、なにかで引っ掻いたような傷があった。それは少女の着ている制服も同様だった。


 その制服は、姫ノ宮学園ものと秋雨は言った。姫ノ宮学園は有名な学校であるため、知っていたのだろう。逆に月宮がそれを知らないことを、秋雨は驚いていた。制服には姫ノ宮学園の校章が付いておらず、それで判断ができなかっただけで、月宮も姫ノ宮学園のことは知っていた。


 街中にありながら街中にはなく、誰もその実態を知ることがないというのが、姫ノ宮学園という組織だ。もちろん、情報が一つもないというわけではない。むしろ開示されている情報が、常軌を逸していた。


 特筆すべきなのは二点。


 途中入学が認められないこと。


 基本的に敷地からの出入りが禁止であること。


 途中入学が認められないというのは、聞くだけならば問題がないように思えるが、しかし姫ノ宮学園に所属できるのは、乳幼児からである。つまり、生まれて間もない子供でなければ、入学資格はないのだ。故に、入学を望む場合は、家族ごと学園内に入ることになる。これも姫ノ宮学園が広大な敷地を有しているからこそできることなのだろう。学園と名乗っているが、土地や環境は都市レベルである。だからこそ不自由など存在しない。すべてが揃っているのだ。


 そして出入りの禁止。来る者は拒まず、離れる者は許さず。そんな言葉が巷で広がるほど徹底している。これまでに学園外に出た者はいない。もちろん、学園上層部の役員は例外である。都市レベルではあるが、都市ではない。街にある学園の一つにしか過ぎないのだ。


 基本的に、というのは、年に一度、学園が一部であるが解放されるためである。その日だけは、外からの客を招き入れている。街の人間は物珍しさから心待ちにしているが、これはただの茶番でしかない。友好のためでは決してない。


「えっと……」


 秋雨が恐る恐る口を開いた。


「あなたはどうして月宮くんの部屋の前に倒れていたの?」


「……わからないです」


 少女は消えそうな声で言った。


「その……、記憶がないんです」


「記憶喪失なの?」


「あ、いえ、ここまで辿り着いた経緯の記憶がないという意味で、自分のことを憶えていないとかじゃないんです」


「じゃあ、名前を教えてくれる? やっぱり名前って大事だもんね。私は秋雨美空。美しい空で美空だよ」


 よろしく、と秋雨は右手を差し出した。握手を求めているのだろう。


「私は日神ハル(ひかみ)です。えっと……、季節の春ではあるんですけど、漢字ではなくてカタカナなんです」


 そう説明して、日神は秋雨と握手を交わした。綺麗な手をしているな、と月宮はそれを見て思った。


「月宮くんもだよ」


 月宮を見て秋雨は言った。


「月宮湊。三水に奏でるって書く方の『湊』な」


 月宮は握手を求めなかった。


 秋雨は、日神に自分たちのことを説明した。どうして日神のことを訊かないのかと月宮は疑問に思ったが、それはまず日神を安心させるためだという答えに辿り着いた。秋雨なりに考えているのだろう。秋雨は初めに、年齢、学年のことを話した。日神は、月宮たちと同年齢だった。日神はそのことに驚いていた。もちろん月宮のことではなく秋雨のことである。秋雨の年齢を疑っているのか、日神は月宮に目で訴えかけてきた。


「本当に同い歳だぞ。見た目はあれだが」


「それどういう意味!?」


 秋雨は月宮を睨んだ。月宮は小動物に睨まれた気分になった。


「ごめんなさい。私、てっきり妹さんだと思っていました……」


 日神は申し訳なさそうに言った。


「そういえば、名字が違いましたね」


「顔とか似てないだろ」


 月宮はコーヒーを一口飲んだ。


「そうですね。でも、あまりそれは関係ないと思いますけど」


「じゃあ、やっぱり身長差か?」


「えっと……」


 日神はちらりと秋雨を見た。身長のことを言われて、落ち込んでいるようだった。


「まあ、そうです。それに、なんだかお二人の雰囲気がとても良かったので」


「そうなのか? まあ、仲はいいと思うけど……。なあ、秋雨」


 月宮は落ち込んでいる秋雨に声をかけた。しかし、秋雨は顔をあげなかった。


 月宮は肩を竦めた。日神も不思議に思っているようだ。


「日神が身長のことを言うから……」


「私のせいなんでしょうか? それなら申し訳ないことをしたと思います」


「いや、冗談なんだけど」


 日神は月宮の言葉を聞いていないのか、秋雨に謝っていた。顔を伏せている秋雨はただでさえ小さい体がより小さくなっていた。


「本当にごめんなさい」


 日神は秋雨の顔を窺いながら言った。


「あの、顔が赤いですよ? もしかして泣いているんですか?」


「だ、大丈夫。泣いてないよ」


 顔を伏せているせいか、秋雨の声は少し籠っていた。


「少し暑いのかな。もうすぐ夏だしね」


「クーラー点けるか?」


 月宮が訊いた。月宮の部屋には備え付けのエアコンはあるが、扇風機はなかった。


「い、いらないよ」


 ようやく秋雨が顔をあげた。いらないという意志表示なのか、両手を前に突き出していた。少しだけだが、顔が赤くなっていた。


 開け放たれていた窓から、風が吹き込む。涼しいと言えるような風ではなかったが、室内の換気には充分だった。三人も室内にいれば、それも小さな部屋にいれば、室温が上がってしまうのも仕方がない。月宮はそう納得した。


 そして同時に考える。日神ハルがここにいる理由を、姫ノ宮学園にいない理由を訊き出すべきなのか。それを目の前にいるクラスメイトに聞かせていいものなのか。月宮は答えが出ているはずのことすら考えた。


 要は、タイミングの問題だった。秋雨が日神から訊き出す前に、月宮が秋雨のいないところで訊き出すしかない。


 その状況をどうやって作るのか。しかも、より自然に。


 月宮は思考を巡らした。その状況へと辿り着くための策を練らなければならない。部屋にあるもの、部屋にないもの、偶然の産物。秋雨をこの部屋から一時的にでも出ていかせることのできる可能性を探し出す。


 考え込んでしまうと、秋雨にまた指摘されるため、月宮はたびたび秋雨と日神の様子を気に留めていた。今は、日神が秋雨を心配していて、秋雨が大丈夫だと説得しているようだった。お互いに相手のことを思っているのか、そのやりとりは延々と続けられている。


 それを見ている振りをしながら、コーヒーを一口飲んだ。時間が経っているため、熱さは失われており、お世辞でもおいしいと言えない代物になっていた。


 腕時計で時間を確認すると、そろそろ登校する時刻を回ろうとしていた。


「ちょっと俺、隣に行ってくる」


 月宮はなんの脈絡もなく二人にそう言った。


 二人はやりとりを止め、月宮のほうを見た。


「え、でも、もうすぐ登校する時間だよ?」


 秋雨は少し焦りながら言った。あのやりとりの中でもきちんと時間を確認していたことに月宮は驚いた。


「すぐ用事は済むと思うし、もし時間になっても戻ってこなかったら、先に行っててくれ」月宮はカップを持って立ち上がった。そして流し台にカップを置く。


「その間、私はどうすればいいの?」


「ここで待っていてもいいし、なんなら俺を待たずに先に行ってもいいぞ」


「そんな……」


 秋雨は日神のほうを見た。日神はそれに気付いたが首を傾げるだけだった。


「その用事って、私が行っても大丈夫……かな?」


「まあ、問題はないな。借りてた本を返すだけだし」


「じゃあ、私が行くよ!」


 秋雨は立ち上がった。


「家主がいないのに、ここに残るなんてできないよ」


 月宮は秋雨の性格をよく知っていた。秋雨は極度の人見知りなのだ。知っている人間の横にいれば少しはやわらぐのだが、一対一となると話は別だ。先ほどまでのように、秋雨が日神と話していられたのは、傍に月宮がいたからこそで、秋雨と日神だけだったのなら会話が成立するはずがなかった。


 それを利用するのは簡単だが、親しい者にそれをするのは気が引けた。それでも今は、背に腹は代えられない状況だ。それに、月宮の嫌な予感は当たってしまうような気がした。日神は一見ただの女子高生に見えるが、所属しているのが姫ノ宮学園というだけで、すでに異質の存在だ。放っておくのも凶と出るし、関わっても凶と出るような、そんな存在。そうだとわかっているのなら、秋雨を巻き込まないために、方法を選ぶ余地はない。


「そうか、それなら頼むかな」


 月宮は納得した振りをした。


 月宮は借りていた本を秋雨に渡し、隣人へ返すように頼んだ。その本は分厚く、重量もそれなりにあるものだった。とはいっても本の域を超えることはないので、秋雨でも充分持ち歩くことができる。秋雨はふらつきながらも本を持ち、部屋から出て行った。


 そしてすぐに月宮は日神に話しかける。


「あいつには黙ってろよ」


 日神は一瞬なにを言われたのかがわからなかったのか、驚いた表情を見せたが、すぐに表情を切り替えた。


「あなたはどこまでわかっているんですか?」


「なにもわからねえよ」


 月宮は答える。


「お前がどんな状況に置かれているのかなんて見当もつかない。お前がなにを求めて『外』に出てきたのかもな」


「なら、私に関わらなければいいじゃないですか」


 日神は自虐気味に言った。


「それなら、彼女を巻き込むことはないですよ。すぐにでも私をここから追い出すべきだったんです」


「あいつがお前を見つけた時点でそれは不可能だ。回避できるわけがない。あいつはどうやってもお前を助けようとする。そしてそれは、俺の想定している最低の手段でだ」


「最低の手段?」


「そして同時に最善、最速の手段だ。秋雨はそう答えを出すに決まっている」


 玄関の扉はいまだに開かない。隣人に捕まったのか、秋雨が帰ってくるのには少し時間がかかりそうだと月宮は思った。


 月宮の部屋の隣に住んでいる住人は、人と話すのが大好きだった。少しでも長く話そうとするため、一度話し出すと、数分で終わることはない。それは相手が赤の他人であっても、親しい間柄でも関係ない。自分が満足するまで、とにかく話し続けるのだ。月宮も初めて会ったときには、その饒舌さに驚くばかりだった。すらすらと水が流れるように話し続け、月宮が買い物に行くと言ったら、ついてきてまで話し続けるほどだ。


 当然、秋雨もこのことは知っている。本を返しに行くだけでは済まないことも、わかっていただろう。それでも秋雨は、日神と同じ部屋にいることと天秤にかけた結果、そうなることを選んだのだ。


「それがどうして最低なんですか?」


 日神は訊く。


「月宮さんがそう評価する理由はなんですか?」


「その手段はお前の抱える問題を解決してくれるかもしれない。いや、するだろうな。それはいい。問題はその方法なんだ」


「方法……」日神は月宮の言葉を繰り返した。


「これは俺の推測――まあ、誰でも思いつくが」


 月宮は言った。


「お前は姫ノ宮から逃げ出してきたんだろうな。どんな理由があったのかは知らない。だけど、問題の根源は明らかだ。秋雨が取ろうとする手段は、その根源を完膚なきまでに破壊する」


 少し強めの風が吹き、カーテンが宙を泳いだ。生ぬるい風が、室内を駆け巡る。その風が日神の髪を撫で、日神は右手で髪を優しく押さえた。


「お前はそれを望むか?」


 月宮は続ける。


「どんなに嫌なことがあろうと、姫ノ宮に大切だと思える人はいないか?」


「……います」


「それすらも駆逐するのが、うちの所長なんだ。『便利屋』の所長による完璧すぎる手際で、お前の周りから『姫ノ宮』を消してくれるよ。お前の知っている姫ノ宮学園は消滅する。それが嫌なら――」


 黙っていろ、と月宮は日神の目を見据えて言った。日神は月宮の目から視線を逸らすことはしなかった。お互いに見据え合って、なにも話さない。少しばかりの静寂。


 日神は、突然吹き出した。


「脅し、ですか?」


「まあ、そんなところだ」


 月宮は頭を掻いた。


「でも、あの姫ノ宮学園から脱出したほどの胆を持っている日神には意味がないと思ってるけどな」


「それはどうでしょう? 私は『外』のことを知りませんから、そういった冗談でも効果覿面ですよ」


「その調子じゃあ、覿面じゃないわな」


 日神は、普通の女の子らしく笑った。秋雨となに一つ変わらない笑顔。それは以前の秋雨を思い出させるのに充分だった。地獄のような惨劇を起こしたあの少女と……。そう考えると、日神の抱えている問題は、やはり闇だ。


 月宮たちがちょうど話を終わらせたころに、秋雨は戻ってきた。その顔には疲れが見えている。時間にして十分にも満たないが、隣人の話は、たまに大学の講義(大学に潜入したときに拝聴した)を圧縮したような内容のときもあるので、おそらく秋雨はそれに当たってしまったのだろう。相槌を打ちようにも打てない、話を切り出そうにも切り出せない、そんな地獄を見てきたのだ。


 月宮は、日神に視線を送る。それは先の話のことを確認してのことだ。日神もそれを理解していて、黙って頷いた。


「大丈夫か?」


 月宮は、秋雨を心配した。


「なんていうか、あれだ。お前にとってはどっちも地獄だったな」


「……そう、みたい」


 秋雨はぎこちなく笑った。その笑いには覇気を感じることができなかった。


 月宮は自分の鞄と秋雨の鞄を持ち、秋雨のいる玄関へと向かう。秋雨を近くで見ると相当疲れているようだったので、秋雨の鞄は渡さなかった。


「じゃあ、俺たちは学校だから」


 月宮は靴を履きながら言った。


「お前はここにいろよ。帰ったら話を聞くからな」


「わかりました」日神は言った。「ありがとうございます」


「それとなにかあったら、とりあえず声を出せ。大きくなくてもいい。そうすれば、隣のお喋り好きがやってくるから」


「どんな人なんですか?」


「んっと……」


 月宮は靴を履くのを中断して、考える。秋雨は魂が抜けているようだった。


「お喋りが好きな……人?」


 日神と月宮の間に沈黙が生まれた。月宮は日神の訊いていることが、容姿のことであることはわかっていた。けれど、それでも月宮の頭にまず浮かんだのが、「お喋り好き」であった。


「まあ、とにかく」


 月宮は沈黙を破った。


「信用できるから、安心しろ。話には耳を傾けるな。こうなるから」


 疲弊している秋雨を指差す。


「……わかりました。とにかく私は、ここでおとなしく月宮さんの帰りを待ちます。私にできることはそれくらいですから。そしてなにかあったら、声を出せばいいんですね」


「そういうこと。あとは好きにしていいから」


「いってらっしゃい」


 日神は言った。


「いってきます」


 月宮は扉を開け、部屋から出た。鍵をかけていくべきか迷ったが、念のためにかけておくことにした。日神の身になにかが起こり、声を出したとしても、あのお喋り好きなら扉を壊してでも入ってくれるだろうと思ってのことだ。


 左手には秋雨の鞄、右手は秋雨の襟首を掴んでいた。秋雨は月宮の思っている以上に疲労しているらしく、まったく動こうとしない。遅刻をさせないために来たはずなのだが、秋雨自身が遅刻の原因になりかねなかった。

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