第2話:己に盲目。他に慧眼。

 会社で俺達が付き合っていることを知っているのは三人だけ。

 祐介、蓮水、そして関谷さん。

 関谷さんに関しては、水族館で話した『俺には花宮さんがいるんで』以降、まともに会話をしていないので、知っているというか、そう思わせたまま弁解もせず、ここまで過ごしてきた。話す必要性もないからな。


 以前から、俺達は会社の人達に隠すように家を出る時間を変えていたが、付き合いを始めてからは一緒に通勤している。だが、もちろん出社時間はずらして会社へと出勤するよう変えた。

 どうしてもなのか、見せびらかしたいのかは知らないけれど、会社の近くギリギリまで手を繋いでいたいみたいで、毎日手繋ぎ通勤をしている。


 最初さえ恥ずかしかったが、日々を繰り返していく中で何も思わなくなっていってしまった。 慣れとは恐ろしい……。

 七葉が会社に入ってから、五分後くらいに出勤。そしてオフィスには向かわず、喫煙所でタバコを吹かすのが相変わらずのルーティン。


「おざまっす」

「おう、おはよ」


 祐介も俺と同じく毎朝タバコを吸うので、顔を合わせるのはいつも喫煙所だ。

 そういえば、あの日の翌日にこの場所で祐介に頭を下げられた。もちろん誰も居ないことを見計らって。

 昨日はすいませんでしたと、何度も何度も謝られ、頭を下げ、自分が発言したことを謝罪された。


 祐介は悪いと思っているからこそ、こうして謝罪をしてくる。でもあれに関しては許すとか許さないの問題ではない。


 そもそも俺が、七葉が、こうして交際を始めれたのは、祐介の尽力があってこそだし、彼が謝る理由なんてどこにも存在しない。こちらが逆に頭を下げて、感謝をする立場なのだ。


 全く持って逆。


 それすらも先に、頭を下げることが出来ない自分がすごく恥ずかしかった。


 ——すいませんでした。


 俺は頭を下げた。

 確かに祐介の発言は自分で言うのもあれだが、これでも先輩だ。目上の人に対しての言葉遣いではなかったし、態度も見て取れるくらいに苛立っていた。


 しかし、気持ちが分からないわけじゃない。そうさせたのは俺だから。ここで分からない自分がいたら確実に自分を殴ってる。


 普通であれば、激昂してもおかしくない。

 でも俺は普通じゃない。

 謝るのはこっちだと。感謝させてくれと。

 祐介は頭を下げた俺に驚いていた。


 顔を上げてほしいと何回も言われたが、それを拒否し、謝罪と感謝をした。


『あの水族館での出来事は、祐介がいなかったら俺は何もできなかった。

 ただ二人を傷つけて、悲しませただけで終わっていた。

 祐介の言葉で気付いたんだ。お前の行動、言動は何も間違っていない。俺に謝るなんて無価値で、無意味だよ。

 感謝してもしきれない恩を作ってしまった。本当にありがとう。

 ——そして、迷惑かけてすいませんでした』


 でもな、俺にだけにしとけよ? と冗談交じりに最後に付け加えておいた。


 祐介は二つ返事で『了解です』と軽く笑って、『殴られると思ってた……』と胸を撫で下ろしていた。俺のイメージはそんなに悪いのかと少しだけ不安になってしまうがこれを機に変えてくれ。


 先輩、後輩である前に、一人間だ。この会社でこそ知り合ったが、場所が違えば関係も変わる。遊びに行ったり、飲みに行ったりと祐介とは友人と呼べる間柄でもある。


 祐介が俺の事をどう思ってるかなんてどうでもいいのだ。ただ俺が頼れる友人と思っているだけなのだから。

 



「佐伯先輩さ、最近男前になりましたよね」

「急になんだよ……きもちわるいな……」

「いや、なんかそう思っただけっす」


 タバコを咥えながら、気怠そうに携帯に目を落とす。

 今日は珍しく、他の社員も喫煙室に居て、大所帯ではないがそれなりに混みあっていた。


「最近の花宮さんの色気やばくね?」

「わかるわぁ! なんかえろいよな」


 他社員の話に、ぴくっと目尻と頬が引き攣る

 祐介もそれが聞こえたみたいで、こちらを見ながらニヤニヤとしていた。


 我慢だ、我慢。七葉はこの会社で一番の人気だ。こうなるのも必然。致し方がないのだ。我慢しろ。佐伯柊、独占欲ほど醜いものはないぞ。

 視線が気になって仕方ないので、眉を顰めて祐介を睨みつける。


『なんだよ』

『いや、別に?』

『言いたいことがあるならハッキリと言えよ』

『別に?』


 視線で会話をしていると、次は蓮水の話へと移行し始める。


「てか蓮水ちゃんもさ、最近髪切って色気増したよな? 俺アタックしちゃおうかなぁ」

「確かにぃ。あの子スタイル良いし、可愛いし、絶対エロいよなぁ」


 ……男はどうしてこうなのだろうか。

 その話を聞いた祐介は俺と同じ反応をしていた。頬が引き攣りまくっている。


 ぷぷっー。人の事笑えないじゃんかークスクスと祐介を笑っていると、今度は彼が眉間にシワを寄せて視線を送ってきた。


『なんすか?』

『いや、なにも?』

『言いたいことがあれば、遠慮なく言ってくれて構いませんよ?』

『特にないけど』


 睨み合いの会話は先ほどと同じ結果に終わり、苛立ちを隠せない彼はタバコの箱をトントンッと叩いて、出てくるタバコを咥えて再び吸い始める。


 分かりやすい奴だなぁ。

 と思いながらも、俺もそれに倣ってもう一本吸う事に。


 一旦、喫煙所を出て、目の前にある自販機でコーヒーを二本買う。


「ほれっ」


 缶コーヒーを祐介に投げると、片手でかっこよくキャッチ。


「あざっす」

「お互い様だ、気楽にいこうな」

「一緒にしないでください。俺はなんで」

「そりゃ悪かった」


 ふぅーっと肺に入れた煙を同時に吐き出す。もくもくと上がる煙で換気扇が追いつかなくなり、喫煙室は一時的に白く染まった。


 頭の中が仕事〈 女の奴らは、やっと出て行き、それを確認した祐介が口を開いた。


「……やりましたね」

「何を?」

「いやぁ、分かるんすよ。さっきの話とさっきも言いましたけど……ましたね」

「んー……あぁ、まあ……そりゃあね?」

「あの二人だけじゃないっすからね。ああいう事言ってるの。男社員はこぞってエロいとか、色気倍増とか普通に言ってますから。先輩と付き合い始めて、花宮先輩は確かに変わりましたよ?」


「そうか? 俺は前から変わってないと思ってるんだけど?」

「近くにいるから分かんないんですよ! このリア充め!」

「ただの僻みじゃないか……で、そっちはどうなの?」


 彼らの進展は聞いていないので、正直気になる所。あの日、何があって、どうしたかなんて俺の口からは聞けないからな。なので、迂遠に聞いてみた。


「どうもなにも、あんま変わってないですね。進展なしっていうか……」


 視線を落として、悲しそうな顔で缶コーヒーのプルタブを引き、口に運ぶ。


「はぁー、どうしたらいいですかね? 何考えてんのか分からないんですよ、あいつ」

「それは俺に一番聞いちゃいけない質問だわ。俺も分からん」

「ですよねー。好きになられた人間にこんな悩みを言っても分からないですよねー、相談した俺が馬鹿でしたー」

「嫌味かっ!」


 ははっと乾いた笑い声を漏らし、また一口とタバコを吸う。


「でもまあ、頑張ってはみますけど」

「祐介なら大丈夫だ。お前はかっこいいし、最高にいい男だからな」

「うげぇー男に言われても嬉しくねー」


 冗談交じりにゲロを吐くかのように口を抑えた。


「なんて奴だ!?」


 そうこう会話している間に、二本目のタバコも吸い終わったので、喫煙所を出た。


「今日新しい消臭スプレー持ってきましたよ。使います?」

「どんな匂い?」

「蓮水が好きな匂い」

「どんな匂いだよ。分からんわ」

「じゃあ俺にかけてください」

「はいよ」


 シュッシュッと全体にかけ、匂いを嗅ぐと香水っぽいような、匂いが鼻を通る。


「どうします? かけます?」

「いや、俺は……な、花宮さんの好きな匂いでいいわ」

「かぁー、腹立つ先輩だなぁー」


 と言いつつも、何やかんや俺の事好きだろと思う。可愛い後輩だ。

 消臭と言う名の、芳香をしてオフィスへと向かった。


「なあ祐介、後ろの寝ぐせすごいぞ」

「ああ、直すのめんどくさいんでいいっす」





*****




「おはようございまーす」


 オフィスに入り、社員に挨拶を交わしながら、デスクへと歩いて行く。

 自席へ向かう途中に、七葉に小さく手を振ると、彼女も小さく周りに気付かれないように手を振ってくれた。……可愛い、好き。


「ここ会社ですよ。イチャイチャは仕事が終わってからにしてください」


 見られていただと……こいつ、背中に目でも着いてるのか!?


「すいません。気をつけます……」


 恋に現を抜かすのも程ほどにしないとな……。

 自席に辿り着くと、またかと言いたくなるくらいにいつも通りの光景が目の前にあった。


 蓮水が気持ちよさそうに人の席で寝ている。

 あの時と違って、髪は短くなり、結ばれていない髪。

 最近髪を切った。肩にあたるくらいのセミロングへと姿を変えていた。


 そしてもう一つ変わった事がある。


「祐介の心配も杞憂だな」

「どういうことですか?」



 ——それは蓮水の寝る位置にある。



 今までは俺の席で寝ていた。

 だが、今はどうだろう。


「おい、起きろ」


 ガンッと椅子の脚を蹴って、乱暴に起こした。


「んあっ……あぁ、おはよう……祐介」


 蓮水の言葉を聞いた祐介は、感動したのか、それとも驚いたのか、口を手で塞いだ。


「なっ!? おっ、おはようっ! しず、シズクハァースミ! ワッツアップ?」


 名前を呼ぶのに抵抗があったのか、声が上擦ってなぜか外国人風に挨拶。

 それを見た俺は、つい笑みが零れてしまう。


「は?」


 裏腹に蓮水の返事はドスが効いていた。

 相変わらず素直になれない奴らだ。っと、違うか。蓮水は割とオープンで、祐介がただしどろもどろなだけか。


 この関係を見る限り、二人は普段、名前を呼び合うくらいにはなっている。進展しているじゃないか……。 


「なんでもねーよ! 人の席じゃないと寝れないのか。自分の席で寝ろよ……」

「祐介の席は私の席でもあるでしょ?」

「……あるかもしれないけど」


 あるんだ。ないだろ。お前の席だろ。


「ここまで移動して寝るくらいなら、家でもっと寝ればいいじゃないか」

「朝からガミガミうるさいなぁ。いびり癖のある姑か」

「俺は女じゃねぇよ! いつ性転換したんだよ!」


 仲いいなぁーこの二人。

 ずっと見てられるわー。お互い素直じゃないのが、また可愛いなあ。


「別にいいじゃん。祐介のケチ、嫌い」

「なっ!? ごめん、好きに寝ていいからな。遠慮なんていらないからな」


 ぷっっ! 嫌われたくないから急に素直になる祐介もまた可愛いのである。

 だが、この辺でこれも終わり。ごめんね水差すようで。


「蓮水、もう就業時間だ。デスクに戻りな」

「はーい。じゃーね、祐介」

「おう……っておい! よだれ!」


 ててててっと、祐介の言葉を無視して、通り過ぎていく。

 俺の横を通る間際に蓮水に耳打ちされた。


「先輩、やりましたね」


 ピクリと肩が跳ね、後ろを振り返ると、舌を出して、テヘッと笑い去って行った。

 そんなに分かるものなのか……七葉の醸し出す色気は悍ましいと実感させられた。


「拭けよ……」


 ぼそりと立ち竦している祐介に仕方がないのでティッシュを渡してあげる。


「間違っても舐めるなよ?」

「誰が舐めるか!」


 冗談を言ったつもりなのだが、大声で怒られてしまった。


「すいませーん。失礼しましたー」


 自分がいかに大きい声だったのかをすぐ理解し、へこへこと頭を下げ、机を拭き始めた祐介は聞こえてないのかと思ったのか、非常に気持ちが悪い事を呟いた。


「雫のよだれ……あぁ、いかんいかん」

「やめろ、それ以上の行為は上司として見ていられん」

「え!? 今俺なんか言いました!?」


 無意識かい。逆に恐ろしいわ。


「雫のよだれ……でへへへへへって言ってたぞ?」


 少し誇張して教える。


「お願いします。聞かなかったことにしてください。ほんとになんでもしますから!」

「言わないし、それに、でへへへへへは嘘だ」

「なんだよぉぉ」


 うなだれながら椅子に腰を下ろして、ティッシュを名残惜しみながらゴミ箱へと捨てた。だからやめてね?


「おーい。ちょっと皆集まってくれ」


 仕事にとりかかろうとしたら、関谷さんが立ち上がって声を上げた。

 なんぞや? と思って立ち上がると、関谷さんの隣には若者が立っていた。

 他の社員もぞろぞろと移動し始めたので、俺と祐介も立ち上がって移動することに。


「なんすかね? てかあれ誰だ?」

「さあ、初めて見る顔だな」


 皆の前に立たされたその若者は、堂々としており、しっかりとした印象を覚える。


 とりあえず後ろの方で傍観していると、スーツの裾をちょんちょんと小さく引かれ、振り返ると七葉が立っていた。

 そしてちょちょいと耳を貸せと手招きされた。

 なんぞ? と耳を傾けると、


「好き」


 静かに周りに聞こえない声で、囁いた。

 驚いた俺はのけ反るように身を引き、その行動を見た七葉は意地悪そうな顔でニヤリと笑った。


 はっはーん。悪宮さんのつもりですか?

 そうですか、あなたはしてやったりと思っているのですね。

 じゃあ俺のターンです。

 彼女の耳に顔を近づけ、言ってやる。


「俺は好きだよ」


 それを聞いた七葉はゆでだこのように顔を赤くさせ、シュンとし、もじもじしていた。

 やられたらやり返す。倍返しだ! 半沢さんだ。


「そこのお二人さん、そういうのは後でやりなさい?」


 またもや咎められる、が……君の方はどうなんだい? 

 祐介はちゃんと前を見て話しを聞いているが、問題はその背中に隠れるように遊んでいる蓮水だ。


 彼の寝ぐせを手櫛で直しては、「わぁ戻った」と……イチャこいてないな。ごめんなさい。ただ遊ばれているだけですね。


「そこ! 聞いてんのか?」

「聞いてまーす。すいません」


 聞いてないだろとぶつくさ文句を言いながらも、関谷さんは俺達の事を強く非難したりしない。……できないって言った方が正解だろうな。


 こっちは何も思っていないし、告げ口だってする気はない。した所で何も変わらない。知らなくてもいい幸せがあると思うし。奥さんと子供だっている。あれ以降、彼が反省し、改心したのであればそれでいい。俺達が口出しすることじゃない。


「じゃあ紹介するぞ。今日からこの部署に配属された、藤堂壱弥とうどういちやだ。この藤堂グループの社長の息子さんだ。では藤堂、挨拶を」


 紹介を聞いた女性社員からは黄色い声が出た。見た目もイケメン、会社の跡取り、身長も高く、そして何よりあの笑顔。そりゃこうなるか。

 でもなんかいやらしい。


 スペックだけ見て、判断するその思考が嫌だ。

 隣の七葉はどうしているかと一瞥すると、まだ下を俯いてもじもじしていた。


 ……安心。


「はい。紹介に預かりました、藤堂壱弥です。この会社の息子だからと言って、遠慮なんてしないでください。ガンガン指導の方をよろしくお願いします」


 ハキハキと喋り、一礼をした。


「めっちゃ謙虚じゃん」

「顔もいいし……最高」

「あの笑顔がまぶしい……」


 と、色めきだった声がちらほら聞こえる。

 拍手も上がり、現を抜かす女性社員。男性社員はというと、かなり険しい顔をしていた。

 祐介はと気になり見ると————まだ遊ばれていた。というか、櫛で寝ぐせを一生懸命直していた。


 あっちも大丈夫そうで安心。


「じゃあ教育係は山田と佐伯に頼む」

「え? なぜですか? 俺には山田がいますし、もっと指導できる人いますよね?」

「私はこれでも佐伯を高く評価しているんだ。だから言っただろう。と佐伯と。お前はサポートに回ってやれ」

「……はい。分かりました」

「はいっす」


 また忙しくなりそうだ。

 祐介は要領がよかったので、あまり手間はかからなかった。だが、彼の事はまだ知らないし、こんな中途半端な時期に配属ってどうなの? 異動か? 少し気になる。


 でもまあ社長の息子だからといって、贔屓はしないから覚悟しておけよと無言の圧を送る。

 すると、にっこりと笑顔で返されてしまい、反応に困った。


「祐介、大丈夫そうか?」

「寝ぐせは大丈夫です」

「その話じゃないから……」


 ……不安だわ。


「俺、関谷さんのとこ行ってから戻ります」

「りょーかい」


 怠そうな足取りで関谷さんの元へと向かって行った祐介の寝癖は言う通り直っていた。

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