第25話



 関所を抜けてアルペーヌの山道に入ると、今までより急に道が細くなった。道幅は馬が並んで二頭歩けるほどもない。


 その道をマルカが先導し、アース、シリオンと続くが、ひどく細い。


 普段は命知らずな旅人か羊ぐらいしか通らないのだろう。


 道は羊たちの蹄で踏み固められているとは言っても、やはり町や田舎の道路とは違う。雨が降った後、その流れで抉られてぼこぼこになったところや、急な段差が予告もなく暗闇の中から姿を現す。


 必死でアースは闇の中、目を凝らした。


 周りは高いアルペーヌ杉に覆われて、出ているはずの月の光さえもここまでは届かない。黒々とした山の闇の中からは、時折、動物の動く枝のがさがさとした音や微かな声が聞こえてくるが、その度に追っ手が違う方向からやってきたのかと、そちらに一瞬気を取られてしまう。


 一度マルカが胸にかかった金の笛を大きく吹いたが、それはひょっとしたら熊よけのためだったのかもしれない。それとも、後ろを走る自分達への合図だったのか。


 真っ黒な道の先から顔を振り向かせると、アースは声を張り上げた。


「シリオン、追っ手は?」


 すぐ後ろを走るシリオンに尋ねると、暗闇の中後ろに警戒しながら走るという難しいことをこなしていたシリオンは、すぐに答えた。


「まだだ。だが、そろそろ関所を出て追ってくる頃だな」


「そう―――急がないと」


 まだ関所からそれほど遠くに来たわけではない。


 頭の中でアルペーヌの地図を思い出しながら、アースは馬の腹を蹴った。


 ―――今、関所を出るとしたらここに来るまでにかかる時間は僅かしかない。


 だいたい何分後かまで頭の中で弾き出せる。


 急がないと。そう思うのに、高い杉の木に囲まれた山道は漆黒といってもよく、ほとんど何も見えない。草がどこにあるのか、道は左に続いているのか右に曲がっているのか、目の前には潅木があるのか、それとも大岩が横たわっているのか全てが黒で見分けがつかない。


 ―――わからない。


 でも、足手まといになるわけにはいかない。


 前を走るマルカを頼りに馬を操っているが、段々と遅れてきている。後ろを走るシリオンと馬の尻尾が近づきすぎ、さりげなくシリオンが手綱を緩めたのに気がつく。


 ―――急がないと。


 明らかに自分一人が遅れている。気は焦るのに、目の前は暗くて何も見えない。


 どこが道なのかさえも、木の陰に入ればわからなくなってしまう。


 月の光に輝く木の葉さえない。


 ただ一面の黒。右も左も闇に飲まれたような漆黒だ。


「アース!」


 はっとした。シリオンの声に慌ててスピードを緩めようとしたが、それより早く馬が足を崩すと、その暗闇の中に投げ出された。


「傾国! 」


 ―――いつそれが僕の呼び名になったんだ!


 そう前で驚いて叫んでいるマルカに叫びたいが、それよりも地面に打ちつけられるほうが早かった。


 手綱だけは離さないようにして、馬の足に内臓を踏みつけられるのだけはどうにか回避する。


 足の下で木の葉で柔らかくなった土と道の側で生えている長い草の感触がした。


「アース!」


 慌ててシリオンが馬を下りて、すぐ前のアースに走りよってくる。


「大丈夫か!? どこか痛いところはないか!?」


 それに打った足を少しだけさすりながら、アースは答えた。


「僕は大丈夫だよ。地面が柔らかかったから、少し打っただけですんだ」


 それに駆け寄ってきたシリオンが明らかにほっとした顔をした。


「よかった。首の骨でも折ったら、どうしようかと―――」


 本当に安堵した顔で、自分の打った足を見つめてくれている。触れ合いそうなほど近くにあるから、こんな闇の中でもシリオンの表情がわかる。


 そこにはさっき見せた怒りの欠片のようなものはなかった。


 ただ、アースと目があって少し決まり悪げに視線を逸らしてしまう。


「ここは土が軟らかいから、雨で抉れていたんだ」


 そう逸らしたことを誤魔化すように、倒れた馬の足元を指差された。


「本当だ」


 けれども、馬上から見て走っているときは一面の黒で何もわからなかった。


「シー・リオン。早くしないと追っ手が来る」


「そうだな」


 手綱を引きながらのマルカの言葉に、シリオンは倒れた馬を見て何か考えていたが、やがてその馬の手綱を取って起こすと、側の茂みに連れて行き、尻を叩いた。


「シリオン?」


 ―――どうして僕の馬を?


 それでは追っ手から逃げることができなくなる。まさかここに置いていくのではと一瞬手が冷えた時だった。


「来い!」


 ぐいっと腕を引かれると、そのまま抱き上げられてシリオンの馬に乗せられる。


「シリオン!?」


「お前を一人で走らせるのはやめだ。俺と一緒に来い!」


 そう言うと、否やを言わせずに馬の前に乗せたまま、手綱と馬の首と自分の腕でアースを囲い逃げ場をなくてしまう。


「で、でも。二人乗りだと早さが落ちてしまう」


「お前を一人乗せて怪我をさせるぐらいなら、追っ手を百人切り殺す方がよほど楽だ。安心しろ、二人乗りぐらいで俺の騎馬術は変わらん」


 そういうや、もう足で馬の腹を蹴ると、夜の闇の中に走り出してしまう。


「シリオン!」


 叫んだけれども、シリオンの自分を抱える腕は変わらない。


 けれども、一緒に乗ってすぐに気がついた。


 周りを流れる空気が明らかにさっきまでより早い。同じ暗闇の中なのに、まるで見えているように漆黒の中を駆け抜けていく。


 シリオンの腕の中から首を伸ばして見ると、マルカも同じだった。いつの間に順序を入れ替えたのか、今度はマルカが殿(しんがり)となって前を行く二人を守るように後ろにつき従っていく。


 そっと自分を抱えるシリオンの白い端整な顔を見つめた。それが今は戦いに赴く戦士のものとなって引き締まり、ただひたすら前の闇を見つめている。


 ―――シリオン……


 そうか、とやっと気がついた。


 ―――温泉に泊まろうなんて言い出したのは、夜の騎馬術に不得手な僕のためだったんだ。


 おそらく、シリオンとマルカは夜討ちの奇襲行動なので訓練されているのだろう。それだけに明かり一つない地での馬術の難しさを身をもって知っている。


「シリオン」


 嬉しいような申し訳ないような気がして、思わずその服の胸を握り締めた。


「アース」


 すると、それに気がついたように、頭の上から声が降ってくる。


「お前が俺に恋していないことはわかった」


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