不可逆のお好み焼きを逆行させるための原動力

「ここでは何ですから、どうぞ」

 と、神社の方へといざなわわれ、あの長い石段を上り、古びた神社へ。絵馬を買った売店の脇の、いつのものなのか分からない炭酸飲料の古いロゴ入りの擦り切れたベンチに。

 見計ったかのように怪しげな音を鳴らすそれに腰掛け、巫女は俺たちにも同じようにするよう促した。


「サヤさんは、とても不安定な状態なのです」

 サヤが涙目を上げる。

「どういうわけか、サヤさんは戻っている」

「あちら、と言うのは――」

咲耶さくやです」

 巫女を何と呼べばよいのか分からずに生じた一瞬の躊躇いを汲み、名乗った。

「咲耶さん。あちらっていうのは、その、いわゆる死後の世界?」

「そう言うこともできるかもしれません。しかし、おそらく、正しくは、そこに至る道」

「道」

 サヤには思い当たるふしがあるらしい。俺に話してくれた、お地蔵さんのある道のことだと思ったのだろう。

「ほんとうに黄泉に至ってしまえば、何をどうしても戻ることはできません。黄泉というのは全ての行き着く先にして、全ての始まり。そこには形も音も思念も色も匂いも温度も何もないと言います。しかし、そこに至る道にいるときは、まだ人の意識というものは存在し、己がどのような形であったのかを知っている状態なのです」

「じゃあ、もう少しでわたしは、耕太郎のことも忘れて、自分が誰なのかも忘れて、その何にもないところを漂うだけの状態になっていたの?」

「それすら、無いのです。黄泉においては、すべてが一つ。お好み焼き、お好きですか?」

 咲耶が急に声を明るくし、妙なことを言い出すから、俺もサヤも変な顔をした。

「この石段下に、美味しいお好み焼き屋さんがあるのです。よろしければ、今度行かれてみては」

「ちょっと待ってくれ、一体何の話をしてるんだ」

「ごめんなさい。黄泉とは、いわばお好み焼きの生地のようなもの。キャベツは刻まれ、小麦粉は水に溶かれ、豚肉もエビもイカも、何でもかんでも混じっている。それはそれぞれ個でありながら、お好み焼きの生地という一になりきってしまっている。そこからキャベツだけを取り出してトンカツの付け合わせにしようとは思わぬように、キャベツでありながらお好み焼きの生地でしかない状態なのです」

「分かるような、分からないような」

「お好み焼きの生地とは、お好み焼きの生地以外の何でもない。キャベツでもエビでも豚肉でもなければ、お好み焼きそのものですらない。でも、それをすくい上げ、鉄板の上に。そうすれば――」

「――お好み焼きに?」

 サヤは頭がいい。俺は咲耶の言うことが微妙に分かりきらないままだが、サヤは腑に落ちるところがあったらしい。

「黄泉っていうところは、生まれ変わりを待つところなのね」

「そう言うこともできるでしょう。サヤさんは再び鉄板の上で暖められ、お好み焼きになるのを待つはずだったのだと思います」

 黄泉というものがどのようなものなのかということについて、非常に分かりやすい例えなのだろう。しかし、俺はさっきコロッケを食ったばかりなのにもうお腹が空いてしまっていて、それを情けないと思うしかなかった。


 お好み焼きになってしまえば、それは人の血肉となり、時間をかけて天地を巡り巡り、また小麦粉やキャベツになって食卓に至る。しかし、焼いたお好み焼きが焼く前の状態に戻ったり、かつて焼いたことのある一枚と全く同じ分量で具を配分し、全く同じ量のソースをかけ、鰹節を振ることが不可能であるように、それは必ず不可逆的な流れを持つ連環であると咲耶は説明した。サヤは自分の身に何が起きているのかを知ろうと、深く聞き入っている。

「じゃあ、どうしてわたしはここに?」

 当然の疑問である。生死というものがお好み焼きなのであれば、サヤは、不可逆の法則を破ったことになる。

「いくら意識が残っていたって、戻って来られるなんて」

「戸惑われるのも、仕方ないでしょう」

 咲耶のことが、やはり分からない。なにかとても恐ろしい存在であるような気は拭うことはできないが、こうして親身になってくれてもいる。俺の視線に気付いたのかこちらに眼をやり、にこりと微笑む。

「あなたがすでに亡くなってしまわれているのは、紛れもないこと」

 改めて、事実を突きつけるようにして言った。サヤはいちど目を閉じ、そして困ったように笑って頷いた。

「あなたがいたところには、名があります。黄泉比良坂よもつひらさか。そう呼ばれる場所に、あなたはいました」

 あのバスの行き先になっていたのは、そこなのかもしれない。現世とあの世に至る道とをバスが繋いでいるというのは奇妙な話だが、そもそも幽霊になったサヤがここにいる時点でファンタジーなのだから、驚くには値しない。

「黄泉比良坂への入り口は、あちこちにあります。それはお寺だったり、神社だったり、古い木のだったり、岩の陰だったり。最近では、駅やバス停にも多く見られるようになりました。おそらく、それに乗ることで連続性なく居場所が変わると捉える人が多いため、比良坂に通じたのでしょう」

「あのバス停にも」

「正確には」

 鳥居。そこが、比良坂への入り口なのだそうだ。咲耶は、その話をした。


 古来、鳥居というのは人の棲む領域と神の棲む領域との境がそこにあることを示し、神の領域への門としての役割があった。今はこの藤代神社のように宅地開発のために鳥居の内側にまで人の棲む領域が取り込まれている――あの古ぼけた商店街がそうなのだろう――ことがあり、そのために人と神の領域が曖昧になり、そういうところにはその曖昧さがもたらす大きな門ができるのだという。

「この神社の鳥居の、その内側の人々。彼らには、サヤさんのことが見え、話すこともできるでしょう。だけど、鳥居の外にあっては、サヤさんは人の目に止まることなく、その発する声は決して届かぬでしょう」

 俺にだけ見え、俺にだけ感じることができる。そういう存在。せっかく戻ったのにサヤのお父さんやお母さんには見えないのなら可哀想だと思ったが、当のサヤは咲耶の言葉の続きを欲して真剣な眼を向けている。

「本来、あなたはここにはいないはずの存在なのです。あなたがいるべき場所は、

 あるべきものをあるべき場所に置くため、さまざまな力がこの世には存在する。それは天地の自浄作用と言ってもよく、そのためサヤの存在がここにあるという矛盾とそれが生む歪みを正す力により、サヤはどうしてもバスを見、あちらに戻ろうとしてしまったのだろう、と咲耶は分析をした。

「わたし、ここにいちゃいけないのかな」

 俺の方を見、心細げな声を。俺は強くサヤの肩を抱こうとして、触れてはいけないと強く拒まれることを思い出して手を遊ばせ、でも精一杯声に力を込めて言った。

「ここにいなきゃいけない。いちゃいけないなんてことは、絶対にない。ここにいてくれ、サヤ」

 それを、悲しげに見つめる咲耶。その視線など構わず、抱きしめてやりたい。それができるのは俺だけなんだから、俺という存在によってサヤがこの世に繋がれているのなら、俺が認めないと、サヤはここにいながらにして消えてしまう。


「あなた方が互いを想い合い、求め合っていることは、よく分かりました」

 咲耶が俺たちの邪魔にならない色の声で、静かに言った。

「ひとつだけ、お伝えしておきます。サヤさんは、とても不安定な状態。この世にいることが、そもそも無理な状態なのです。それを耕太郎さんの想いが辛うじて繋ぎ止めているのです。ゆえに、サヤさんがここにいるということは、多くの力を消費することになるのです」

 何の力を。サヤがこの世に存在することにエネルギーがいるのなら、そのは何なのだろう、と素朴な疑問が生じた。不可逆のお好み焼きを逆行させるための原動力なくして、サヤは存在することはできない。

 それに対する咲耶の答えは、俺が想像していなかったものであった。

「サヤさんをこの世に繋ぎ止めているのは、耕太郎さんの意思の力。それは、言い換えるなら、いのちの力」

「つまり」

 察しのいいサヤが、眼鏡の奥で何事かを察した目を開いた。

「サヤさんは、耕太郎さんのいのちを燃料にし、この世にぶら下がっているのです。共にあるだけで、耕太郎さんのいのちは余計に多く燃えてしまう。離れて燃料の供給が断たれれば、サヤさんはあるべきところにすぐに戻ってしまう。触れれば、たとえそれが刹那でも非常に多くの燃料を吸い上げてしまう。本来、サヤさんは、いのちという燃料などとうに尽き、からからに渇いているのですから」

「だから、決して触れてはいけないと、そう感じるのね」

 理由までは認識しなくとも、そう強く感じたことの答えを得た。だが、サヤの眼は、だからどうしようとか、こうしてみようとかいうようなところを見定められず、頼りなげに動いていた。

 俺は、むしろ安心した。それをサヤとも共有したくて、思ったことをそのまま言った。

「俺のいのち一個を半分こして、二人で生きられるなら、俺は全く構わない」

「耕太郎、そんなの――」

「いいや、サヤ。お前がいない期間、俺は生きてなんてなかった。だけど、お前が戻ってきて、あの日以来はじめて時間が動いたような気がするんだ。本来あったはずの時間が半分になったとしても、それでまたサヤと一緒に過ごせるなら、むしろ嬉しいことさ」

「耕太郎」

 サヤの瞳に、また涙が浮かぶ。戸惑ってはいてもサヤもまた戻ってこれて嬉しいと思い、俺と一緒に過ごすことを喜んでくれているのだと知り、嬉しかった。

「さあ、サヤ。戻ろう。俺の寿命が半分になったとしてどれくらいの期間なのかは分からないけど、一緒に過ごそう」

 そう言ってまたベンチを鳴らして立ち上がる俺を、咲耶の視線が射る。


 立った瞬間、天地が逆転し、凄まじい吐き気と悪寒と体の痛みと重さに襲われ、自分の体重すら支えられず、俺は砂利の上に崩れた。

「耕太郎!」

 サヤの悲痛な声が、インフルエンザにかかった朝みたいにして耳の中に共鳴する。

 さく、さく、と砂利の鳴る音。そして、水の匂い。

「あなたが求めたこと。それは、大いなる対価を払ってはじめて成り立つこと。あなたの心の渇きを癒すのに、あなた以外からそれは得られない」

 水の匂いが、強くなる。咲耶が、そばに屈み込んでいるのだろう。

「ゆめゆめ、お忘れなきよう。これが、を取られるということ。そして、これが、あなたが願ったこと」

 俺の名を呼ぶサヤの声があちこちから聴こえ、そしてだんだん遠くなり、閉じた。それでも、水の匂いはいつまでも俺にまとわりついているような気がしていた。

 閉じ切るかどうか、たとえばうっすらと襖の隙間から隣の部屋の光が漏れるような俺の思考に、咲耶がなお語りかけてくる。

「あなたは、受け入れることが、できるのでしょうか。あなたのもとに戻ったサヤさんが、あなたの鏡の中のものでしかなかったとしても」

 ──なにを、言ってるんだ。

 俺の心身は、それを問うにはあまりにも消耗していた。

 不可逆のお好み焼きを逆行させるということがどういうことなのか、その原動力に俺のいのちを消費しているということは分かっても、肝心なことがよく分からないままだった。

 サヤは、実際戻ったんだ。どんな形であっても。受け入れるもなにも、俺はじっさいにサヤを見、サヤと言葉を交わしている。鏡の中だとかよく分からないことを言って俺を困らせたり怖がらせたりするつもりなら、その手には乗らない。

 この耐えがたい眠りから覚めたら、それを証明してやる。そう思うことで、俺はどこかに引きずり込まれそうになることから踏みとどまった。

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