第29話 帰還

 すでに暦は六月も半ばを過ぎた。炎天のなか麻の野良着に身をつつんだ農夫や女房が、畑で草を刈る風景があちらこちらで見られるようになっていた。多々良川を渡り、北東へ歩いている。男の左目は黒い布で覆われていた。すれ違う諸国遊行の勧進聖たち、立ち止まってその異相をささやきあう。

「どこぞの無頼漢ではないか?」

 すると、もう一人が、

「いや、流転の武芸者であろう」

 法体だが、ひどいぼろを着た一団だ。

「無頼漢とはな」

 男は苦笑した。

 この聖たちの目的が、まことに仏の教えに叶ったものなのか、それとも好き心からの放浪なのか……僧侶らしからぬ野太い声、松のようなごつごつした身体つき、不心得の企みを隠せない顔色がんしょく

 男の口の端に冷ややかな笑みが浮かんだ。

 東へ進んでいる。

 多々良川の支流が北を流れ、南には、一面に冬瓜や茄子などの青物畑が、その奥には竹林や森が広がる。しばらくそのゆるやかな坂を進むと、小山のように大きな楠が姿をあらわした。樹齢五百年の巨木である。四方に枝を伸ばし、梢が風に騒いでいる。人の背丈ほどもあろうかという幹をもつ。その枝に、今日も男の子らが登っている。木の根元では、ひとりの女の子がうらやましそうに悪童たちを見上げていた。

「お滝、登って来いよ」

「怖い……」

「や~い、弱虫」

「お前たち、女の子をいじめるなよ!」

 子供たちが声のぬしをいっせいに見た。男は笑いながら手をあげた。

「誰だ、あれ?」

「さあ? しらない。ああ、目がないぞ、あいつ」

「ああ! ほんと目がない」

 女の子もいっしょになって驚いている。

「この顔に見覚えはないか! わたしだよ」

 近づいてくる男をみな警戒し、木鼠きねずみのようにじっとその姿を見定めようとしている。なかにはスルスルと木から降りて、お滝と呼ばれた女の子を庇おうとする子供もいた。

「倉田弥十郎だ!」

「⁉ ああ、倉田の家老だ!」

「え~、ほんと!」

 弥十郎が笑みを浮かべながら楠の根元まで来る頃には、みな枝から降りてかけよろうとしていた。

「倉田の家老、汗くさ~い」

 お滝と呼ばれた子が言う。

「ほんとだ、あせくさ~い」

 楠から降りてきた一番年少の童も同じことをくりかえした。弥十郎は自身の小袖の胸元を嗅ぎながら、

「なるほど、汗臭いな……。だが……ほら!」

 そう言ってさっと右手を翻した。すると、今までなかった物が、突如として弥十郎の手のひらにあらわれた。饅頭をつつんだ竹葉ちくようである。

「ああ! 饅頭かい?」

「違いますね、あれは……おそらく、金平糖ですな……でしょ? 倉田殿」

「すまんな、良助。饅頭だ」

「な、な、な、な、饅頭ですと~」

 良助と呼ばれた少年が、大袈裟に驚いてみせると、ほかの子らが声をあげて笑った。

「わ~」

 弥十郎は、竹葉の紐をといて子らに渡した。戸次家中の子供や近くの農村から集まった子供たちだ。

「お滝、御父上は堅固にしていらしたか?」

 女の子は饅頭をほうばりながら頷いた。

「目、どうしたの?」

 饅頭を食べ終わったお滝が聞いてきた。

「悪い鷹に啄まれてしまったのさ」

「鷹に!」

「烏の間違いではござらんか? 倉田殿」

 と、さきほどのませた子供、良助が聞いてきた。

「烏なら、よかったのだが」

 弥十郎が残念そうに言うと、子供たちが大笑いしはじめた。

「ではな。あまりお滝をいじめるなよ」

「わかったでござるよ、倉田殿」

 弥十郎は手を振りながら、子供たちの遊ぶ楠をあとにした。古処山の郊外で用事をすませ、立花山に帰還する途中だった。

 城下の調練場で忠三郎に会い、

「城で、なにか騒ぎがあったようです」

 そう聞き、着替える暇もなく屋形へいそぐことになった。

 忠三郎は、近侍ら同僚十名とともに槍組と弓組の足軽を、それぞれ数十名単位に編成し練兵を指揮していた。彼ら戸次氏の子弟は、ほかの戦国大名がするような、個々の武者のもつ武力に頼る、古びた戦術はとらない。集団のもつ力を最大限に引き出すやり方を幼い頃から叩き込まれる。それが、戸次道雪の不敗神話を可能にしたのである。

 今日も足軽たちが鬨をつくり鎮西の大空に鳴り響かせていた。それを背に弥十郎は颯爽と歩く。誾千代が統虎を追放したことなど思いもよらない。

 屋敷の式台で迎えに出た侍に事実を聞くと、精悍な顔がみるみる険しくなった。屋形の一隅で、弥十郎は初老の年寄おとなを待っている。しばらくして現れた男は、彼の変わり果てた容姿に一瞬驚いた様子であったが、かまわず話をきりだした。

「伝え聞くところによると、高橋の御方がいらした。それをすげなく追い払ったとか。どういうことなのです?」

「ふむ……。実はな」

「伺いましょう」

「……で、向こうの様子はどうだった?」

「はぐらかさないで頂きたい」

「目をやられたな」

「安東様、あなたには手塩にかけて育ててもらった恩義がある。だから話したくないと仰るなら無理に聞くつもりはない。ですが」

「博多の女人に面目が立たないとか?」

「……食えない方だ。だが、そういう問題ではない。いまこの家に起きていることを知る権利があるはずだ。伊達にこの家の年寄をしているわけではない」

「お主はな、景定」

「何です」

 弥十郎は、憤っていた。道雪の死に際の言葉を、独断ともいえる形で蔑ろにした誾千代に。

「まぁ、少し落ちつけ。旅の疲れをとってからでもよいわ。そう年よりをこき使うなよ」

 安東紀伊介家忠は、戸次家の執事の職にいる。政を総攬する者がこまやかな部分まで目を配ることは不可能である。誾千代に代わってそれをこなすのがこの老武士の役目だった。

「取次を願います。誾千代様にお会いしたい」

「あまり波風を立ててくれるな」

 この年若い家老と女主人は、相容れないところがある。家忠は、いま対面させてよいものか、と迷った。

 が、この老人、若い頃は道雪に従い二十以上の合戦に赴いた古強者であり、その豪勇を主人に認められ、「武勇絶倫の猛将」と絶賛された。大友義鎮による叔父菊池義武暗殺という謀議にもたずさわり、功を認められて感状も下賜されている。隠居後は戸次氏の執事となった。いまだ矍鑠かくしゃくとして頑健な体は医者いらずであった。そのため度胸は並ではないが、身内同士の不和は歓迎していない。

 屋形にある広間で待っていると、凛然とした立ち姿の誾千代があらわれた。小野和泉がそれにつづく。

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