第16話 地に着かない物

 躍斗は洗面台の鏡の前に立って深い息をつく。

 今日は色々とあって疲れた。普段は風呂嫌いなのだが、今はゆっくりと湯に浸かりたい気分だった。

 カッターシャツのボタンを外し、ズボンのベルトを外す。

 普段はほぼ学生服だが、別に気に入っているわけではなく、着る物に執着がないだけだ。

 学生服は思いの外動きやすく作られているものだ。

 それにあれこれ迷う事もない。

 家に帰ってからはトランクスにシャツだけ。その格好で寝ている。

 それはキュオが来てからも変わらない。そろそろそれも考えないといけないか、などと考えつついつものように風呂の蓋を開け、掛け湯をしてから湯船につかる。

 ふうー、と息をつきながら少し曇り始めた鏡に目をやる。

 別段何もないが、前に鏡の向こうに白い顔のゾンビを見て以来、何となく鏡を見るのを避けていた。

 全く見ないというワケにもいかないので見るには見ているのだが、あれからおかしなものが映る事もない。

 ふとお湯を見ると赤い色をしている事に気が付いた。

 入浴剤だ、と分かっていても背筋が寒くなるような気がする。

 湯船を出て、体を洗う前に少し鏡を拭いてみる。やはり映るのは自分の顔だけだ。

 風呂を出ていつものシャツとトランクス姿になる。

 洗面台の前に立ち、鏡を覗き込む。

 ヒゲは歳の割に薄い。数日に一回剃るかどうかという程度だ。父親のシェーバーを借りている。

 まだまだ大丈夫だな、と鏡を開け、裏の棚からうがい薬を取り出す。

 パタン、と鏡を閉じた所で、後ろに男が映ったのを見て驚いて振り向く。

 だがそこには誰もいない。

 鏡を見るとやはり男の姿、レッドだ。

 狭間にいるのか? とそっと鏡に手を当てるとレッドの姿が鏡の向こうから消えた。

「やあ」

 代わりに後ろに立っている。

「人んちだぞ」

「狭間は誰のものでもないよ」

「出てきた時点で不法侵入だろ」

 家の者に見つかったら面倒じゃないか、と不満を露わにする躍斗にレッドは口に手を当てる。

 笑いを隠しているらしい仕草に躍斗は周囲を見回す。

 一見さっきまでと同じ脱衣所だが、物があまりない。閑散としている。それにこのどこに光源があるのか分からない様な薄明るい感じには覚えがある。

「まさか、僕が狭間に?」

 引き込まれたのか、と続ける躍斗にレッドは「ご明察!」と指を立てる。

「君の入浴シーンは見ていないから安心したまえ」

 そんな心配はしてない、としかめっ面になる躍斗にレッドは構わず喋り出す。

「狭間と言うのは一つじゃない。何層にも折り重なっていると言っていい。少し時間のズレた狭間。大きくズレた狭間。ここはそのうちの一つ、言ってみれば『僕の狭間』だ」

「ここにはレイコはいないのか?」

 それが一番の問題だ。あの死神がいるのなら、また追っかけられるかもしれない。

「いないよ。だがそれはここだからいないんじゃない。あの死神は今どこにもいない。正しくは見つからないんだが、もしかしたら君が知っているんじゃないかと思ってね」

「知るわけないだろ」

「死神を一か所に封じ込めたまではよかったんだけどね。やはり僕の力では不完全だったようだ」

 あの死神を!? 閉じ込めたのか? と素直に驚く躍斗に、レッドは続ける。

「僕は世界の数式を解き明かそうとしている。この世を説明できるたった一つの数式。それを解き明かせれば、この世の全てを理解できる。全てを説明できるんだ」

 レッドは洗面台に置いてあるうがい薬の瓶を取り上げ、高く持ち上げるとその手を放した。

 瓶は当然のように下に落ち、床に当たって砕け散る。

「落下した瓶はニュートン力学に従って落ち、硬い床に当たった衝撃で壊れた。落下速度、空気抵抗、衝撃力、ガラスの耐久力、力の伝達。それらが全て複雑に関連して、ガラスの砕け散るパターンを形作るんだ。だが、もう一度同じ事をしても同じパターンには砕けない」

 レッドは演説するように指を立てて「なぜか!」と強調する。

「一見全く同じように力を加えたつもりでも、そこには再現出来ていない力が多く作用しているからだ。だが同じパターンを再現するのにそれらを全て知る必要はない。物理学の数式は、最終的にはたった一つのシンプルな数式に集約されるんだ」

 何が言いたいんだこの男は、という顔になる躍斗に、

「君も宇宙の数式を解き明かしたいのだろう? 表現はともかく狭間の能力に目覚める者は同じ到達点に向かっているはずなのだがね」

 それは間違いではない。躍斗も世界の理を解き明かし、宇宙の真理に到達する事を目標に掲げて狭間に落ちたのだ。

「スバリ。宇宙の真理とは何だ?」

 そう問われて躍斗は言葉に詰まる。

 いざ何だと聞かれると確かに答えようもない。だが、それに答えられなくては真理を目指すも何もない。

「宇宙の構造を理解する事か?」

「まあ間違ってはいない。僕が答えを知っているという意味ではないよ。間違っていないと言うのは、それは単に表現を変えただけだからだ。『真理』というのを『構造の理解』に変えただけだね。だから間違っていない。だがそれは答えでもない」

 躍斗はむっとしてしまう。元来試されるのは好きではない。

「じゃあ、アンタは何だと思うんだ」

「おや、いいのかい? 君はまだ、自分の答えを言っていないが。言いたくないのならばそれでいい。だが、自分の中でまだ明確な指針が出来ていない時に、僕の答えを聞く事は君から可能性を奪ってしまう事になるかもしれない。それでもいいなら僕の考えを話すけどね?」

 それはそうかもしれない。レッドの考えも気になるが、躍斗は誰かの考えをなぞったり流されたりするのも本意ではない。やはりこの問題だけは、自分で導き出さなくてはならない。

 かと言って何も聞かず、自分も何も言わないのも、この男に負けたような気がしてしまう。

「世界の、中心だ。宇宙の始まりを知る事だ」

 世界の中心で、何かを叫ぶという奴だ。

「素晴らしい!」

 レッドは躍斗を指さす。

「先に言ったようにこの世は天文学的に複雑な事象が互いに関連し合って成り立っている。要はぐちゃぐちゃな世界なんだ。だがそれも元は一つのシンプルな数式で表される。数学者は過去、複数ある複雑な数式をシンプルに纏める事で解き明かしてきた。その行き着く先の究極の最終形は……」

 レッドは言葉を溜め、

「無だ」

 そっと囁くように言う。

「限りなく無に近い有。限りなくゼロに近い1。そう、それが宇宙の始まりだ。宇宙は絶えず広がり続けている。その最初は? 宇宙の最小単位は何だ? 何もない所から宇宙は生まれたのか? いやそれはあり得ない。限りなく無に近いが無ではない。ただの点なのか? 鉛筆で描いた点も電子顕微鏡で見れば巨大な炭素の粒の集合体だ。さらにさらに小さかった頃の宇宙の大きさはどのくらいなのか?」

 レッドはぜいぜいと息を切らす。

「そしてその限りなく無に近い、限りなく小さな宇宙でも世界の理は同じ。その存在も数式で表す事が出来る。その数式も究極なまでにシンプルで、限りなく無に近い。つまり君と僕は同じ到達点に向かっている」

 しかしレッドの無表情からは、それが協力する仲間だと言っているのか、奪い合う敵になると言っているのかは図りかねた。

 そして「死神だが……」と話を戻す。

 レッドは床に落ちたうがい薬の瓶のキャップを手に取る。

「このキャップを落として床に着くまでに1秒かかると仮定しよう」

 パッと手を放し、キャップが床に落ちる。だがその途中を反対の手でキャッチした。

「今0.5秒経ったとする。ならば床までの距離が半分になったという事だ」

 また手を放し、また半分の距離になった所でキャッチする。

「更に0.5秒の半分の時間、0.25秒経過すれば、更に床までの距離が半分になる。更に次の瞬間にはまた半分。すると、このキャップはいつまで経っても床に到達できないのではないか?」

 躍斗は返答に困ってしまう。もちろんそんな事はない。時間の経過という部分に嘘が入った簡単な言葉のトリックだ。

 レッドは再び立ち上がってキャップを目の前の高さに持ち上げた。

 躍斗と目を合わせ、何も言わずにキャップを放す。

 落下したキャップは床に近づくにつれ速度が遅くなったと思うと、床に着くか着かないかという辺りで完全に静止した。

 まるでレッドの言葉通りに、いつまで経っても地面に到達しないかのように。

 さすがに躍斗も面食らって見てしまう。

「僕は物質を通り抜ける事が出来るが、正確には空間の理に近づいて、その数式にちょこっと手を加える事ができるようになっただけだ。手の加え方次第でこんな事も起きる」

 この力の応用でレイコを空間に閉じ込めたとの事だが、今いないという事は逃げられたのだろうと言う。

 しかし姿も見せないので、まだ手こずっているのか、それとも別に用でもあるのか、そこまでは分からない。

「だけど、あの死神も世界を壊そうとしてる者を排除するのが目的だろう? それを封じ込めてどうしようって言うんだ?」

「僕が世界を解き明かすのに、邪魔な存在には違いないからね」

 そんな事で? 世界が崩壊しては意味がないのではないか? と訝しむと、

「僕には世界の存続など意味はない。無に到達するという事は、何もかも無くなってしまうという事だよ」

 躍斗は息を呑む。

 以前躍斗が世界を崩壊させたように、この男は恐らく世界を崩壊させる。

「だが、僕なんかまだまだ世界の理には程遠い。君のように、全てを捻じ曲げてしまうものに比べたらとてもとても」

 レッドは大袈裟に頭を振る。

 芝居がかっているので本気かどうか分からない。

「だが君は力を使う事を恐れているね。常に最小限に力を抑えている。自分の力が世界を壊しかねないと分かっているかのようだ」

 躍斗の頬を風呂上がりの水滴が伝う。

 その時、視界の隅に動くものが見えた。

 それは鏡の向こう。キュオが風呂に入りにきたのだ。

 キュオは鏡の向こうで服を脱いで下着姿になる。

 中学生になるかならないかくらいの、加えて妹としての意識が強くなってきた女の子の着替えなど、別段意識する事もないのだが、なんか覗きをしているみたいなので一歩下がって視界から退く。

 だがその動きに気付いたのかキュオが鏡を覗き込んできた。

 そして躍斗の姿を認めると、後ろを何度も振り返る。

 躍斗が鏡の中にしかいない事に気が付くと何やら叫びながら鏡に張り付いた。

 その瞬間、洗面台の前に半裸の少女が現れる。

 その少女はキュオと同じふわっとした髪型で同じ下着を身に付けていたが、その等身は小学生のものではなかった。

「どうして? 躍斗!」

 叫ぶ等身大のキュオは、鏡の向こうに躍斗が見えなくなった所で言葉を切り、ゆっくりと振り向いた。

「やあ、狭間の世界へようこそ」

 レッドの間の抜けた言葉に対し、呆けたまま固まっていたキュオは眉をひそめ、

「レッドさん!?」

「知ってるの?」

 躍斗も驚きの言葉を重ねる。

「僕も驚いているよ。僕の事を知っているのかい?」

 レッド自身、自分が何者なのか分からないと言っていた。

「ほら、初めて躍斗と狭間で会った時に話した。色々教えてくれた人だよ」

 キュオの先輩か、とその時の事を思い出す。

 最後にキュオを逃がす為に死神に向かっていったという。

 そしてひとりぼっちになったキュオは狭間をさ迷い、躍斗に会った。

「でも躍斗、なんか小さくなった?」

 改めて思い出し、慌てて目を逸らす。

 キュオは自分の姿を確認して悲鳴を上げた。

 普段大きめの服を着ているとは言え下着はやや大きめ程度。

 16才の体を隠すには少々面積が足りない。

 さっき脱いだ服は? と回りを見回すが見つからない。

 普段積んであるバスタオルもない。

 周りを見回すが、いつの間にかレッドの姿も見えなくなっていた。

 現世に戻ったのか? それなら不法侵入だが……と鏡を覗き込んでもコートを着た男の姿は見えない。

 別の狭間か? さっき狭間は一つではないと言っていたが、いずれにせよここに置いて行かれたようだ、と躍斗は鏡を調べる。

 鏡を通して狭間に来たが、簡単に通れるわけではないようだ。

 不安そうに躍斗を見るキュオを安心させるように笑って見せる。

 とにかくここにいても仕方ない。何かないか探そう、と脱衣所を出る。

 家の中は物音一つしない。

 タンスや冷蔵庫の中もほとんど空だ。

 およそ生活に必要な物が何もない世界のようだ。

 躍斗達は外へ出た。

 幸い下着だけの軽装でも寒い事はないが、キュオの格好は目に毒だ。

 現世に戻れたとしてキュオの立場はどうなるのだろう、などと考えながら誰もいない街を歩く。

「レッドって、どういう奴なんだ?」

 キュオを助けてくれたのなら、悪い奴ではないのかとも思ったが、レイコを封じ、躍斗とキュオを狭間に落としたとなると、そうとも思えなくなってくる。

 もっともキュオは勝手について来たとも言えるが。

 能力者を全て排除し、最後の能力者になろうとでも言うのか?

「わたしもそれほど知ってるわけじゃないけど、色々教えてくれた人だよ。変わってるけど」

 それは見れば分かる、と躍斗は納得する。

 だが知りたいのはそういう事ではなく、

「前は、最後にどうなったんだ?」

 勝手にホラー映画で主人公を逃がす為に自ら犠牲になる終盤の生き残りみたいなイメージを持っていたが……。

「レイコさんに…………、やられたのよ」

 それは消滅させられたものと思っていたが、どんな風にやられたのかで話が変わってくるかもしれない。具体的にはどんな風だったんだ? と聞く躍斗にキュオは歯切れ悪く口籠る。

「そんな事聞いてどうすんのよ。覚えてない! もういいでしょ!」

 顔を赤くして怒りはじめてしまった。

 そう言えば、前の宇宙でも躍斗が世界を崩壊させた後、誰も居なくなってしまった世界で躍斗もレイコに喰われたんだった。

 それと同じだとすると……、と思いだした所でキュオが怒った訳が何となく分かった。

 レイコは腕を絡める様に抱き着いて、口移しで狭間のドロドロを流し込んできたんだ。

 その後、躍斗は精神世界のような所に迷い込んだ。

 本来なら存在そのものが世界と同化していたような事をレイコは言っていた気がする。躍斗が存在を保っていたのはレイコと同じ階層まで上り詰めたからだと。

 もしかすると、レッドも同じように世界の深淵に辿り着いたのではないか?

 そして躍斗と同じように戻ってきた。

 同じ過程を経たのかは分からないが、むしろ問題は躍斗よりも深みに到達したかどうかだろう。

 躍斗はレイコの助けによって戻ったが、自力で戻ったのなら躍斗よりも強い力を持っている事になる。しかも不完全とは言えレイコを封じ込めたとなると死神をも凌ぐ力なのか。

 狭間に関して先輩に当たるのは間違いないようだが、もしあの男が敵に回ると言うのなら、躍斗に止められるのか?

 そんな思いにふけりながら誰も居ない街をキュオと二人、裸足で歩いていた。

 誰も居ない、食べ物も何もないのに不思議と不安感が無い。

 前もそうだったが、狭間の中と言うのはなぜか落ち着く。安らぎと言うか、このままここで消滅するのも悪くない気がしてくる。

 狭間と言うのは世にあるよくない物を排除する為のものでもあるから、そういうワナなんだろうと思う。

 だからそれに流されてはいけない。現世に戻ると言う意思を強く持たなくては、と横をついて歩くキュオを見る。

 疾しい気持ちも薄れていくのは幸か不幸か……。

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