一緒の夜

「一緒に寝ようよ。」


その日の夜。家路について申し訳程度の晩飯を食べたあと布団に入ろうとすると、唐突にそんなことを言われた。


 動揺する。


「え?なんで?幽霊って、寝ないんじゃないの?」


幽霊は何も食べないし、寝ない。生きていた頃していたことを忘れてしまう。そんなことを先ほどソラはなぜか自慢げに話していたのに。


「そうなんだけど、寂しくて。

 やっと、話せる人に出会えたから。」


うなだれてつぶやく目の前の女の子が、たまらなく愛おしい。


 僕らは同じ布団の中で横になった。


 ソラの身体は透明で、おぼつかない。半ば布団と重なるようにして、僕の隣に横たわっている。


 ただ彼女は微笑んでいた。


「誰かがそばにいる安心感で、胸がいっぱいなの。」


そうつぶやいたソラの髪の毛が、頬をなぞって滑らかに流れている。その輝きに見惚れて、思考が止まる。彼女の頭の中にある温かさが、じんわりと伝わってくる。


 電気を消したうす暗い部屋に、外からささやかな光が迷い込んできた。一体彼らはどこから来たんだろう?街角の電灯か、車のヘッドライトか、閉店した店の電光掲示板か…。


 そんなことが妙に意識できるくらい、ゆったりと時間が過ぎていった。


 僕は天井を見上げて、ソラが口にした願いについて考えていた。


 学校に、行きたい…かあ…。


 それは、僕にとってずいぶん覚悟がいる願いだった。普通の大学生が当たり前のようにしている「登校」という行為を、こんなにもためらっている自分に、ため息が出る。


 でも、やっぱり学校には行きたくなかった。


 本能に近い防御反応を伴った心の声が聞こえたとき、もう一人の僕が口を開く。

 

 君が学校に行きたくないのはわかった。でも、それはなんで?


 興味のない講義をひたすら聞くのがつまらなかった?一人で学食でご飯を食べるのが虚しかった?いつまで経っても、友達の一人もできない自分に失望していた? 


 どれも合っているようで、違う。それらは理由の一端を示しているかもしれないが、本質ではない。


 人が何かを諦めるとき、その裏側にいつも確固とした理由があるわけではない。むしろ言葉にならない曖昧な感情を必死にありきたりな理由で埋め合わせていることが多い。


 僕が学校に行かない理由も、自分の中にある曖昧な拒絶反応によるものだった。それをあえて言葉にするなら、「その場所に必要とされていない」と僕の頭が判断したんだと言うしかない。


 学校に行くたびに、正体のわからない違和感に取り囲まれた。椅子に座って教授の話を聞いていても、構内を歩いていても、解決できない疑問から逃れることができない。


 本当に僕はここにいるのだろうか?


 その頃から、自分と他人との間に空間の歪みを感じ始めた。近くにいるはずなのに、ずっと遠くの場所で見つめるしかない自分を意識し始めた。たとえて言うならば、中学時代集合写真を撮るタイミングで欠席してしまい、右上に無造作に貼られていた可哀相な学生の写真のような違和感。


 同じアルバムのページで顔を見せ合っているのに、その学生だけ異質な存在として祭り上げられている。その人は証明写真特有の無表情な顔を見せている。


 大学にいるときの僕は、その学生とまったく同じだった。


 互いに手を結び、衝突する若者たちの中で繰り広げられる喜びや悲しみをずっと遠くから眺めていた。僕の影は次第に薄くなり、身体は足元から順に透明になった。腿、腰、胸、肩が順々に消えていき、ついには首だけの存在になった。そして、、、


 最後には、大学から消えた。


 不安を感じないわけではなかった。しかし、孤独や寂しさに安らぎを感じていた僕は、すべてから遠ざかることに精神の安定を求めていた。よくないことだと知りながらも、一人に酔いしれる麻薬を打ち続けていた。

 

 もう、あの場所には戻れない。


「さっきから、なに考えてるの?」


ふと、ソラの声が聞こえた。見ると彼女は、心配そうにこちらを見ている。


 ソラ。お願いだから、そんな目で僕を見ないでくれ。


「いや、明日の朝飯何にしようかなって。」


「絶対そんなこと考えてないでしょ!もっと自分の心臓をえぐるようなことを考えていたでしょ?


 はっきりとはわからないけど、伝わってくるよ。ユウキのモヤモヤした感情。黒く渦を巻いて同じところを回転し続ける気持ち。」


 なにもかもお見通しだった。


 感情も、記憶も、思考も。ソラはなにもかもを僕と共有しているのだ。


 その事実は、暗闇の中で照らされた一つの希望だった。でも今は。彼女と苦悩を共有してしまったことに罪悪感を覚える。ソラに重荷を背負わせてしまったことが悲しかった。


 彼女の前で、今僕はどんな表情をしているんだろう?


「ユウキ、笑って。ね、笑って。」


僕の肩をつかんで、ソラはそう言った。大丈夫、きっと、大丈夫。そう語りかけてくれている気がした。


 僕は笑った。自分の顔は見えないから、ちゃんと笑えているか自信がなかった。作り笑いだったかもしれないし、本心からの笑顔だったのかもしれない。それはわからなかった。


 それでも。ソラが僕の顔を見てほほ笑んでくれた。それだけで十分だった。彼女が僕の笑顔を受け入れてくれた。その幸せをもらっただけ、それだけで十分だった。


「ほらね、笑えば、不安なんて吹っ飛ぶんだよ。本当だよ。」


愛情のこもった言葉で僕に幸せをくれた彼女を、もっともっと幸せで包み込んであげたい。そう思っていた。


 

 

 


 

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