すると、突然、大きな音を立てて、襖が開いた。何事かと、顔を向けると、匙祈子さんが、仁王立ちしていた。

「聞き捨てなりません! なんですかそれは!?」

 祈子さんは、畳を乱暴に踏みながら、古杉さんの元へと歩み寄っていく。見るからに、ご機嫌斜めだ。いや、明らかに怒っている。

「ちょっ! ちょっと! 祈子さん! 今は、ちょっと!」

「五月蠅い! 貴方は、黙ってなさい!」

 祈子さんに怒鳴られ、突き飛ばされた。派手に吹っ飛んだ僕の体を、九十九さんが支えてくれた。

「何を考えているのですか!? 貴方は!? 人間にしてくれならまだしも、殺してくれですって!? 貴方の恋人への想いは、その程度のものなのですか!? 死ぬ覚悟があるのなら、もっとできることがあるでしょう!? 命をかけて、恋人との生活を守ってごらんなさいよ! 今の貴方の死は、ただの逃げでしょう!? 恋愛舐めんじゃないわよ! そんなちんけな覚悟なら、偉そうに恋愛なんかしてんじゃないわよ! 反吐が出るわ!」

 傷口に塩をありったけ塗り込む祈子さんに、僕は居たたまれなくなって、駆け寄ろうとした。すると、響介さんが、手を伸ばし僕の動きを制した。

「まあまあ、ここは祈子君に任せようじゃないか」

 僕は、浮かせた尻を畳へと戻すと、後ろから九十九さんが肩に触れる。振り返ると、九十九さんが、小さく頷いた。僕も頷き返し、二人へと視線を向ける。祈子さんは、古杉さんの前で正座をした。

「私達『もののけ』が、人間社会で生きていくには、大きな弊害があります。生きていくだけでも精一杯なのに、恋愛なんて贅沢だと思いませんか?」

 祈子さんの口調が、急に優しくなった。悲しそうに、愛おしそうに、祈子さんは語りかける。え? 祈子さんって、『もののけ』だったの? 動揺が悟られないように、場の空気を壊してしまわないように、僕はグッと堪えた。

「恋をした相手が、『もののけ』であろうと・・・人間であろうと、きっと人間には、理解できない苦しみや悲しみが付きまとう。『もののけ』として、生まれてしまったのだから、それはもう、諦めて受け入れるしかないです。受け入れるしかないのです。でも、自分以外の誰かに恋をした貴重で尊い想いまでは、諦める必要はありません。諦めてしまえば楽になることも分かっています。でも、この想いは簡単に諦められるものではない。そうでしょう?」

 今にも泣きだしてしまいそうな祈子さんの声に、古杉さんは、小さく顎を引いた。

「貴方が、十分努力をしていることも分かっています。投げやりになってしまっては、元も子もありません。少しずつ少しずつ、ゆっくり前進していきましょう? 幸い、貴方も私も、そして恋人さんも『もののけ』なのですから、時間はたっぷりあります。焦ることは、ありませんよ。お互い、頑張っていきましょう?」

「・・・お姉さんも、恋をしているんですか?」

「ええ、勿論。でも、私の方が、貴方よりも大変かも?」

 祈子さんは、マスクに手を当てて、困ったように笑った。

「辛くないですか?」

「辛くはないわ! 私は、恋を楽しんでいるもの! いつの日か、絶対に振り向かせて見せるって、毎日が輝いて見えるもの! 両想いの貴方が、そんな情けない顔しないの!」

 祈子さんは、古杉さんの背中を激しく叩いた。まるで、背中を押すように、エールを送るように見えた。古杉さんは、凶悪な牙を剥き出しにして笑みを浮かべたかと思いと、スルスルと牙が引っ込み、人間の姿に戻った。

「ああ、なんだか分からないけど、すっきりした気持ちです。お姉さん、ありがとう」

 にこやかに微笑む古杉さんと祈子さんに、何故だか僕は涙腺が緩んでしまった。

「すまないねえ。古杉君。ここでは、君の望みを叶えてあげることは、できないけれど、僕達にできることがあったら、協力させてもらうよ。また、気が向いたら、遊びに来ると良い」

「はい、ありがとうございました」

 古杉さんは、両手を畳につけて、深々と頭を下げた。そして、祈子さんにも例を言い、静かに立ち上がる。

「ああ、そうだ。ちなみに、君の恋人は、なんていう『もののけ』なんだい?」

「『鬼髪大蛇(きはつおろち)』というそうです。俺は、そんな『もののけ』知らなかったんですけど」

「『鬼髪大蛇』? 僕も知らないねえ? いや~参った。僕も知らない事が、まだまだあるもんだねえ。どんな『もののけ』なんだい?」

 響介さんが、煙管に火を落として、天井に向かって煙を吐いた。

「髪の長い『もののけ』ですよ。髪の毛を蛇のように、自在に操れるそうです」

「髪の毛を自在に操る? ・・・へ~そうかい。可愛いのかい?」

「いやぁそれが、顔は知らないんです」

「ん? どういうことだい? 付き合ってるんだろ? まさか、実際には、会ったことがない、画面越しの君かい?」

「いやいや、違いますよ」

 古杉さんが、片手を振って笑った。

「顔が、髪の毛でグルグル巻きになっているから、顔を見たことがないんです。俺は、彼女の優しさに惚れたんです! 顔は、関係ないんです! なんて、カッコつけ過ぎですかね? じゃあ、これで!」

 古杉さんは、爽やかに笑うと、大広間を出て行った。

「九十九君。客人がお帰りだ。お見送りしてあげて」

「かしこまりました」

 九十九さんが、立ち上がり、古杉さんの後に続いた。

 僕は、放心状態で固まっていた。否が応にも、頭の中では、あるシーンがグルグルと巡っていた。そう、まさに、グルグルが。

「響介さん! 良いんですか? 帰らせても?」

 僕は、古杉さんが大広間を出たタイミングで、響介さんに近づいた。

「ああ、今のところはねえ。まあ、要警戒だねえ」

 響介さんは、呑気に煙管を吹かす。

 髪の毛を自在に操り、顔を髪の毛でグルグル巻きにして隠している『もののけ』。そんなの昨夜の『髪の毛グルグル男』と同じではないか? 首謀者でなくても関係者の確率は、高いのではないのか? こんな降って湧いたような手がかりだけれど、みすみす逃す手はないように思えた。しかし、響介さんは、動じることなく、静観する。

「ところで、祈子君。助かったよ。ありがとう」

「いいえ、私は特別なことは何も・・・ありきたりの陳腐なことしか言えませんでしたわ」

「言葉の内容なんか、どうでも良いのさ。君の熱の籠った想いが彼を動かしたんだ。大切なのは、『何を言われたか』ではなく、『誰に言われたか』だからね。君の熱量で、君の本気が伝わったのさ。同じく困難に立ち向かう同志の言葉だ。強烈に響いただろうさ」

「お役に立てて、何よりです」

 祈子さんは、唯一出ている目を細めて、大広間を出て行った。僕は、祈子さんの後ろ姿を見送り、彼女が大広間を出たのを確認してから、響介さんに顔を向けた。

「祈子さんも『もののけ』だったんですね? 知らなかったです」

「ああ、そうか。時は、知らなかったんだねえ? 彼女は『口裂け女』だよ。身体能力が異常に高くてねえ。刃物を持たせたら、その戦闘能力足るや否や」

「そう言えば、祈子さんは、響介さんから『刃物を持つことを禁止されている』って言ってました。それは、強過ぎるからなんですか?」

「う~ん、半分正解で半分間違いだねえ。まあ、その内教えてあげるよ。だから、彼女に刃物を持たせちゃいけないよ」

 またもやお預けをくらい、何とも不完全燃焼だ。響介さんは、大きなあくびをして、畳に寝っ転がった。すると、鏡々さんが、響介さんの頭の横へと擦り寄った。

「どうぞ。お使い下さい」

 鏡々さんが、正座した太腿を二度叩いた。

「おお、これは、ありがたい」

 言うと、響介さんは、鏡々さんの太腿に頭を置いた。膝枕というものだ。

 少し羨ましかったけれど、凝視するのもどうかと思うし、僕は畳に後頭部をつけた。両手を組んで、後頭部の下に敷いた。付喪神と言えど、女性の膝枕と方や自分の手枕。主人と奉公人。分かり易い格差の図式だ。


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