十八、ゆめおって

 空が明るみ始める頃、酒屋の前には白んだ影がかかっていた。

 影の中では、腰の曲がった老爺がうつむき、明るみの中では、アサクラたち三人が佇んでいる。


「大したもんなかったんやけど……」


 三人に歩み寄った老爺は、風呂敷に包んだ酒瓶を手渡した。すっかり慣れ親しんだはずの酒瓶が、今のアサクラにはすこし重く感じられた。


「ありがとよ、おっちゃん」

「行くんやの……?」

「ああ、迷惑かけらんねぇからな」


 アサクラは風呂敷酒瓶と一緒にロープを譲り受けると、荷物を身体に巻いて固定した。

 老いて小さなその肩に、そっと手を置き頷いた。

 老爺は釈然としない様子だったが、あいにく説得している時間はなかった。


 じきに電車が走りだすからだ。

 二週間の空白こそあったものの、〈クラブラザーズ〉は、やはりアサクラたちの許に現れた。人の往来があれば、またやって来るだろう。老爺を危険にさらさないためにも、早急に、ここを離れなければならないのだ。


「サトちゃんがいるし、そう遠くへは行かねぇよ。また会うこともあるかもしれねぇ」


 老爺はこっくり頷くと、目に涙を浮かべた。

 ハシモトも袖で目許を拭い、マスナガは黙して瞼を下ろした。

 アサクラは鼻をすすった。鼻の奥がつんと痛かった。

 人の道はいちど交われば、いつまでも繋がり続ける。

 そうと解った今でも、やはり別れは辛いのだ。


「気ぃつけねの」


 老爺が涙ぐむと、突然、ハシモトが前に出て老爺の手をとった。


「本当に、ありがとうございました。助かりました。これ、ぼくたちだと思って受けとってください」


 そうして老爺に握らせたのは、なんの変哲もないパチンコ玉だった。べつに三人の持ち物ですらなかったが、老爺はいたく感動したようだった。パチンコ玉を握りこむと、三人を拝むようにした。


「それじゃ、達者でな」


 去り際を見失わぬうちに、アサクラは身を翻した。


「お元気で」

「また」


 名残り惜しそうにハシモトたちも踵を返した。

 縋るような老爺の嗚咽が追いかけてきた。


「っ」


 アサクラは、たまらず振り返ろうとしたハシモトの肩を掴んだ。相手の目を覗きこんで、ゆっくりとかぶりを振った。


「……わかってます」


 三人は心を鬼にし、強いて足を速めた。

 次第に風が強くなり、嗚咽も聞こえなくなっていった。


 気付けば、寂寞とした通りを歩いていた。


 道幅はそれなりに確保されているものの、車道には車の影ひとつなかった。我が物顔で往来するのは、根無し草を追いかける草食恐竜ばかりだった。

 古民家の門前や電信柱には、喫茶店や美容室などの看板がぽつぽつと掲げられていた。いずれも錆が浮いて文字はかすれていた。建物の中を覗いてみても人気はなかった。


 恐竜が蔓延っている影響だろう。

 酒屋爺のように今もカツヤマ市に住み続けている者は、きっと稀有なのだ。

 そういった者たちがどのように糊口を凌いでいるかは定かでないが、恐竜がスキーをするくらいである。知性恐竜を相手に商売しているのかもしれない、とアサクラは理屈っぽく自分を納得させた。


「どこにでも入れそうなお店ありますね」


 ハシモトの声で、アサクラは伏し目がちな目線をあげた。そして、やや勾配のきつい通りの先を見据えた。


「わざわざ調べるまでもなかったのかもな。だが、次の拠点はもう決めてあるぜ」

「またパチンコ屋ですか?」

「いや、小学校だ。学校はおそらくもう機能してねぇだろうし、重機関銃が設置されてるんじゃねぇかと思うんだ」

「なるほど、重機関銃ですか。恐竜の脅威から子どもたちを守るために設置されてたってことですよね?」


 ハシモトも随分フクイに慣れてきたらしい、とアサクラは口端をつりあげた。


「そうだ。動くかどうかわからねぇし、弾も残ってないかもしれねぇがな。でも、もし、動かすことができれば〈クラブラザーズ〉を迎え撃つとき、大きなアドバンテージになる」

「サトちゃんが満足に動けるようになるまで、学校に籠城すると」

「まあ餌やりしなくちゃいけねぇから、実際はじっと閉じこもり続けるわけじゃねぇがな」

「期間はどのくらい必要だ?」


 赤信号の横断歩道を渡ると、マスナガが訊ねてきた。


「わからねぇが、あまり長くはならねぇと思う。へしこのおかげで、かなり元気になってきたぜ。オレにも懐いてるみたいでよ。かわいいぜぇ。あのつぶらな瞳でな、じっと見つめてくんだよ。餌やると嬉しそうに鳴いて。あ、そうだ、クチバシの柔らかいところに顔を押し付けるとな、ぜんっぜん息できねぇの。でも、すげぇ気持ちよくて。たまんねぇぞ。お前らも一回やってみろ。あとサトちゃんはな、名前を呼ぶと」

「それより、これ何ですか?」


 ふいにサトちゃん愛を遮られ、アサクラは鼻にしわを寄せた。


 それより、とはなんだよ――。


 怒りに拳が震えだしたところで、マスナガが割って入ってきた。


「はたや記念館〈ゆめおって〉だ」

「はたや記念館、ですか」


 ハシモトは掲示板から顔をあげ、正面の広場を見つめると、手前側に建った横長の小屋を指差した。


「これですか?」

「これはトイレ。記念館はあっちだ」


 マスナガが広場の左奥を指し示した。

 二階建ての小ぢんまりとした館があった。どことなく古式ゆかしい風情を感じさせる、褐色の木造建築物だった。

 それを目にすると、アサクラの怒りは次第に鎮まっていった。


 あの時はアニキも一緒だったな……。


 ふいに記憶を刺激され、今は亡きシバの気配を傍らに感じたからだ。

 しかしアサクラは、すぐ頭を振って正気に戻った。


「言っとくが、あそこに籠城はできねぇぞ。文化財だからな、武器も置いてねぇ」


 文化財の言葉に、ハシモトが目を丸くした。


「こんなイカれた場所でも文化財が残ってるんですね!」

「悪口と偏見が過ぎるぞ」

「し、失礼しました」

「フクイはすげぇんだぞ。昭和初期から戦前にかけて、人絹じんけん王国なんて呼ばれてた。それくらい織物業が盛んだったってことだ。実際、当時の国内の人絹織物は、大半がフクイで織られてたらしい」

「すごいですね」

「中でもカツヤマ市は、明治の中頃から織物業が盛んだった。フクイの織物の起源なんて言いだしたら、二、三世紀ごろまで遡るって話もあるくらいだ」

「〈ゆめおって〉に、資料は残されてるんですか……?」


 ハシモトは、資料自体に興味があるというより、恐竜蔓延の影響を危惧したようだった。

 心配すんな、とアサクラはその肩に手をのせた。


「ちゃんとメガネイターが管理してる。中では織物体験もできる。カイコだっているんだぜ」

「カイコ! よかったぁ」

「……ホントにな」


 胸を撫でおろすハシモトの姿を見て、一度はふり払ったシバの幻影が存在感を増していった。

 シバもまたフクイの外から来た人間だったが、かつて〈ゆめおって〉を見上げた眼差しには、ハシモトに似た尊崇の念が感じられたものだった。


 歴史や文化は守られるべきだ、とシバは言った。

 それは、ただの過去じゃない。ひたすらに継承されつづけ、今さえ超えて、未来の人々の心にとっても拠り所となるものなのだから、と。

 そして〈クラブラザーズ〉は、そういったものを顧みず蔑ろにする存在だとも。


 思えば、あの時シバは、戦えと訴えていたのかもしれない。

 現に、あれから間もなくして第二恐竜養殖場は爆発し、シバ率いる〈フクイ解放戦線〉は〈クラブラザーズ〉に宣戦布告した。

 県庁を占拠した戦力は分解され、フクイ行政を司る県知事システムは〈クラブラザーズ〉の桎梏から解放された。


 しかしアサクラは抗争に参加しなかった。

 ただただ咽び泣いていた。

 シバの死を嘆くばかりで、己の道を歩くことすらも止めてしまったのだ――。


「……さて、そろそろ行こうぜ」


 だが、今は違う。

 アサクラは、ハシモトとマスナガの横顔を眺めると、自分の時がようやく動き出したことを自覚できた。


 あの日みてぇな過ちは、もう二度と犯さねぇ。

 長らく胸を苛んできた後悔も、反省に変わりつつあった。


 そしてアサクラは、未来に思いを馳せるのだ。

 この先、自分がハシモトとマスナガを裏切ることになろうとは露も知らずに。

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