ドレイズと変異体

名取

第1話



 世界が終わろうとしていたが、僕は心地良い回転椅子から動く気になれず、ただ座ったまま青空を仰いでいた。研究所の天井には大穴が空いていた。天高い場所で爆散したヘリコプターの破片が、ちょうどこの部屋……A462・動物実験室の真上に堕ちてきたのである。おかげで年中薄暗く、科学者たちのエゴと欲望と熱情が渦巻いていたこの場所も、もうすっかり爽やかな風吹く、春のピクニック日和の公園のようになっていた。



「戦争日和だ」



 口をついて、そんな言葉が出る。煙草でも吸いたい気分だった。研究所は全面禁煙だが、もう気にすることもない。僕はポケットから煙草を一本取りだして火をつける。

 核戦争の兆候は以前からあった。昔々、人口爆発と少子化と温暖化、その他諸々の問題をどうにかすべく、先進各国はさらなる科学実験に着手した。神への信仰も、国民同士の絆も頼れなくなった今、国家が安心して縋れるものといったら、明確な数字と進歩を常に示してくれる、単純明快な科学技術だけだった。



 AI、ハイスペック義肢、ナノテクノロジー、合成肉、VRセックス、デザイナーベイビー、安楽死……



 玩具箱をひっくり返したように、湯水のごとく金を積み込まれた科学はその対価を存分に吐き出した。ねえサンタさん、いい子にしているからきっとまたプレゼントを頂戴ね。世界各国のお偉方は、そうやってしきりにねだる幼子のように、何年も何年も飽きることなく科学者育成プロジェクトに巨額の投資をし続け、それにつれて学校のほうもじわじわと理系科目を増設した。やがて国語と社会は選択科目になった。そしてついに数年前、カリキュラムから完全に消えた。ただし国語の読み書きに関わる部分だけは、算数の一部として残っている。文字が読めなければ、論理的思考の仕様が無い。もはや言葉は+や-の演算記号と同等以上の意味を持たなくなった。しかしそんなデメリットも些細なことに思えるほどに、科学の進歩は誰にとってもわかりやすく魅力的なのだった。

 そんな盲信的な熱狂であるから、プレゼント箱の中身が、神の御業ともいえる核ミサイルやプルトニウム爆弾に行き着くのは、ある意味自然の摂理のように思われた。もっともっと、目新しくって刺激的な玩具を頂戴。そう願ったからこそ、なるほどあわてんぼうのサンタクロースは、その白い袋に劣化ウラン弾をごっそり入れてやって来たというわけだ。


「君は将来、どんな科学者になりたい?」


 サンタといえば、僕の時代、小学生への定番の質問はこれだった。ある程度賢い子供なら、科学者になることはもうほぼ確定していて、だから自分もこの質問をされたはずだったが、そのときなんと答えたのか、今となってはさっぱり思い出せない。きっと国語をろくにやらなかったせいだろう。当時習ったインド式算術や、計算に使っていたバーチャルタイルの色、フラッシュ暗算コンテストのランキングに載っていた同級生の名前ははっきりと思い出せるのに、自分のこととなると、まるで靄がかかったように判然としない。


「うぅー……」


 ふと耳に届いた唸り声に、僕は現実に引き戻された。実験動物の檻が並ぶ、強化ガラス板1枚隔てた向こうの実験室から、そのおぞましい声は聞こえてきた。僕は煙草を口の端に咥え、デスクの上のオートマチック拳銃——去年の春、日本国内で初めて一般市民の銃所持が認められたばかりだった——へと目を向けた。しかしまあ、この銃も、さして役には立たないだろう。金属片が研究室の屋根を突き破ったその瞬間、安全装置から吹きだした毒ガスによって、檻の中にいたほとんどの実験動物は死んだはずで、それでも生きているとしたら、おそらく、あの一匹でしかありえなかった。



 個体名・モンスター。



 なんと安直な名前だろう、と僕も初めは嗤ったものだ。科学者の言語感覚もここまで廃れたかと、電子メールを読んだときは内心他人事のように皮肉った。しかし実際その研究に合流してみると、果たして地球上でこの生き物以上に「モンスター」と呼ぶにふさわしい生き物はいないということがすぐわかった。

 元々は、一匹の雄ウサギだった。

 根絶されぬガン細胞の研究のため、遺伝子情報から心に至るまで弄くり回されたそのウサギは、いつしか化け物以上に化け物となっていた。まず細胞を自分の意思で、自由自在に、いくらでも増幅できる。それは事実上の不死といえた。そして新たに作り出された細胞は、ウサギのゲノム情報だけでなく、場合によってはキリン、ゾウ、ワニ、カラス……そういったありとあらゆる他の動物の設計図に従って組み立てられた。たとえば水中で腕を切られれば、代わりに生えてくるのはウサギの前足ではなくウミガメの尾ヒレだったし、サルと同じ檻に入っているときに尻尾を切られれば、ちょこんとしたウサギのそれではなく、サルのように長い尾を生やしたりした。早い話が不死身のキメラである。


「おっ、」


 蕎麦屋の暖簾をくぐるかのような気軽さで、モンスターがふらりとこちらの部屋へ入ってくる。音もなく突然現れた彼に、僕はつい驚いて、小さく声を上げていた。

 毒ガスの影響で、彼は例によって自らの姿を作り替えていた。今日のメニューはたくましいゴリラの胸筋と脚、器用なアイアイの手に、頑強なワニの皮膚を幾重にも纏い、しかし顔はかわいげの残るチンパンジー、といった具合だ。実験でも、知能を必要とする場面になるといつも彼はチンパンジーの脳味噌に頼った。水中では時々イルカになることもあったが、陸ではこういうときは必ずチンパンジーであった。モンスターは唯一、人間の模倣をすることはできなかったのである。しかし目だけは、赤くつぶらな丸い瞳……ウサギの部分を保っていたのは、今やそこだけだ。

 僕は奴に動揺を悟られないよう、何気ない動作を装いつつ、デスクの上の拳銃を手に取った。物言いたげな彼の方に静かに銃口を向け、口にしたのは、一言だけである。


「ステイ」


 そうするだけで、そのおぞましい異形の姿を保ったまま、彼は小さく、小さく変形する。幸い今の状況を、チンパンジーの脳の容量では、まだ正確に把握できないらしい。銃口を向けられたまま、彼は大人しくチワワほどの大きさに縮むと、僕の足元に座り込む。きょろきょろと辺りを伺ったあと、今日はどんな実験が始まるのか、と言わんばかりにこちらを見てくる。

 僕は銃を下ろしながら、安堵と、そして同時にひどい憐れみを感じてため息をついた。実験動物の染み付いた悲しい習性……もう規則を破っても、誰もお前を罰せないのに。その異様に硬質化した皮膚には、こんな下らない鉛玉、せいぜい一マイクロメートルめり込むのが関の山だというのに。

 

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