「おーい、おい。おーい、おい」


 誰かの声が聞こえる。でも、それは大人の声じゃなくて、透き通った女の子の声だった。



 目を開けると、窓外の景色はもう真っ白になっていた。


「起きた? もうすぐだからね」


 すごい雪だね、蒼介――

 父の斗真とうまと運転席からミラー越しに目が合った。後部座席に揺られて居眠りしていたらしい。ナビのパネルを見ると「10:54」と表情されていた。


 年始恒例の帰省。高速道路が混むからと朝早くに出発するのが恒例で、退屈な窓外に飽きて毎年寝てしまうだけど、この雪景色を見た途端、蒼介はきまって目が覚めるのだ。そして、お母さんはこの雪の中で育ったんだな、と考えてしまう。


 母の紀子のりこは、隣で大人介護用のシートに座って眠ったままだ。


「もうすぐだ。トイレは大丈夫か?」

「うん、平気」


 車は白銀の中をひたすら進む。退廃的な冬の、真っ白な世界へ。




「静子叔母ちゃん、あけましておめでとう」「うん、あけましておめでとう」


 茅葺き屋根の一軒家で向かえてくれたのは、蒼介の叔母で紀子の姉である静子だ。

 築100年を越えたこの家は、絵にかいたような古民家だ。教科書やテレビでもよく見るような、三角屋根の木造平屋。内装は2年ほど前の大型リフォームではなっているけれど、玄関はガラス張りの引戸で、開け閉めする度にガラガラと大きな音をたてた。


「三上くん、手伝おうか?」

「いえ、大丈夫です」


 よいしょ、と父は母を玄関に置いてある車イスに乗せた。


「いい天気ですね」

「ええ、相変わらず雪は溶けてないけどね」


 門から玄関まで続く気持ち程度の庭には、薄い雪が一面に積もっている。所々に伸びた緑の草が顔を出していた。


「ほら、着いたよお母さん」

「おかえりなさい、紀子」


 眠ったままの母に、静子さんは優しく言った。


 実は、蒼介には祖父も祖母もいない。母片の祖父母は彼が生まれる前に死に、父方に至っては会ったことも話したこともなかった。

 今は、静子さん一家が暮らしているが、父という存在はいなかった。


「お、蒼介じゃん」

かおる姉ちゃんだ! あけましておめでとう」


 従姉の薫が家の奥から顔を出した。もうお昼近くなのに、モコモコのパジャマにオレンジ色の半纏を羽織ったまま、「さむいさむい」と、そのまま炬燵に滑り込んできた。寝起きだろうか、通年おかっぱ頭には、ぴょんとくせ毛がついている。


「あんた、また背が伸びたんじゃない?」

「うん、去年から7センチも高くなった」

「すごいじゃん。佐久間くんは抜かした?」

「ううん、でも山田くんは抜かしたよ!」


 薫姉はそうかそうか、と頷いてくれた。


「大学はどんなの?」

「いい感じだよ。制服もないし、時間割も自由だからね」


 薫姉は隣町の(といっても、ここからじゃ2時間くらいかかるのだが)大学に通っている。


「自由ってことは、全部体育とかでも良いの?」

「うーん。そういうコースに入ったら、全部体育でも良いと思うよ」

「へえ、良いなあ。僕だったら、ずっと体育にしちゃう」


 あはは、と薫姉が笑う。1年に1回しか会わないけれど、蒼介にとっては良い姉のような存在だった。学校のことをなんでも聞いてくれるし、子ども扱いもしない。怒るときは怒るし、遊ぶときはめいいっぱい遊んでくれる。


「そういえば、薫姉って大学で中国の勉強をしているんだよね?」

「うん、中国文学史ね。中国の昔の小説とか神話とか専攻してるの」

「せんこう?」

「自分で選んで、専門的に勉強するってこと。あんたの時間割が体育ばかりなら、体育専攻ってなるわね」

「ふーん。ねえ、じゃあ僕もを専攻したことになるかも!」


 そう言って、蒼介は持ってきたリュックの中から、原稿用紙を取り出した。


「なに? それ」

「冬休みの宿題。今年の干支の字が入ったことわざを見つけて作文にするんだ。僕たち年男だから」

「年男って、あんた早生まれじゃないの?」

「うん。だから僕だけ『羊』のことわざを考えるんだ」


 そこで薫姉は「なるほど」といった表情をみせた。


「羊が入ったことわざを教えて欲しいの?」

「ううん。ことわざは分かったんだけど、その意味を知りたいの」

「い、意味? なんてことわざ?」


「『こくさくのきよう』ってことわざ」


 蒼介は原稿用紙に「告朔の餼羊」と、す、すら書いてみせる。「知ってる?」

「う、うん……あんた難しいの知ってるね」

「でしょ?  へへへ」


 すると、母を寝室まで運び終えた静子と父が居間に戻ってきた。


「おーい蒼介、仏様拝んだか?」

「まだ」

「ご飯の前に仏壇のチーンをしてきなさい」


 はーい、と蒼介は元気よく炬燵から飛び出ると、仏間まで早足で向かった。



「なんだこれ?」


 蒼介の父・斗真が炬燵に起きっぱなしの原稿用紙を見つけた。


「なんて読むんだこれ? こくしゅ ?こくさか?」

「こくさくのきようだって」


 薫が答えてやる。彼女はどこか不貞腐れたような顔をしていた。


「蒼介の冬休みの宿題だよ。今年が年男だから、学校から今年の干支の『馬』が入ったことわざを考える宿題なんだって」

「え? でも、蒼介は早生まれで羊年じゃないか」

「そうなの! だから蒼介だけ『馬』じゃなく『羊』が入ることわざらしいのよ」


 薫の眉間のシワが深くなる。

 へえ、と斗真が感心したように原稿用紙の文字を見つめていた。


「この漢字も蒼介が書いたの?」

「うん、さっきね。何も見ないですらすらと」

「あいつ、いつの間にこんな難しい字を覚えたんだ」


 あーあ、と薫が両手を伸ばして、そのままばたりと仰向けに寝転がった。


「私も知らなかった。なんだか悔しい」

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