7  -魔素体大禍とその経緯-




 シフト・ファイター『鶴城薙乃』、或いは明悟の孫娘『鶴城栄美』の姿をしたシフト・ファイターに変身してしまうコンパクトを手にしたその日から明悟は、自分がどうしてこのコンパクトを手にしたのか? その意味と意義についてずっと思い悩む事となった。それは運命や星の巡り合わせの謎を読み解こうとするようなものでは無く、栄美が何故自分にこのコンパクトを託したのか、栄美は明悟にコンパクトをどうさせたかったのか、最早遠い彼方に消え失せてしまったその真意を、明悟は甲斐無く延々と探し求め続けているのだ。


 鶴城明悟がシフト・ファイターに変身するコンパクトを手に入れた経緯を説明するには、やはり『魔素体大禍』の推移について触れておく必要があるだろう。未だに発生原因も何も分かっていない現象だが、あの未曾有の大災害が無ければシフト・ファイターの存在が世に知れ渡る事も無かった。シフト・ファイターを説明する上で切っても切れない出来事なのだ。


 魔素体大禍が起こる大凡5年ぐらい前から、『魔犬』と称される正体不明の怪物が世界各地で目撃され始めていたらしい。犬やオオカミに纏わる伝承・都市伝説は古くから世界各地に散見できる事柄だが、魔素体大禍以降に改めてニュースやネット上の情報を調べると、明らかに魔素体大禍の5年前辺りから、奇怪な犬、或いは何らかの巨獣の目撃情報や事件が急増している。ただその内容はまちまちで、よく調べれば、野犬の群れが廃村を我が物顔で占拠していたりとか科学飼料で肥大化したイノシシが目撃されたとか狂犬病の犬が人を襲っただとか関係の無い事件に行き着くものが大半だ。しかし、そんなガセネタの中にちらほらと、明らかに魔犬と思しき黒く巨大な、そして輪郭があやふやな獣の目撃情報や映像・画像記録なども含まれていた。この時期から既に魔犬が胎動していたという事なのか、そして犬や怪生物に纏わる事件の増加が魔犬の出現に関係がある事なのか、未だに不明なのだ。


 大っぴらに『魔犬』が人々の眼前に姿を現し始めたのは『魔素体大禍』の10ヵ月ほど前からである。世界中の郊外や山村に前触れも無く現れた怪物達の性質が知れ渡るに連れ、我々が未曾有の存在と対峙させられていると思い知らされた。肉体が後に魔素と名付けられる未知の粒子で構成されている事、一個体において体積や重量が可変する事、身体が破壊されると肉体を構成する粒子が拡散して跡形も無く消え去る事。既存の科学から完全に逸脱したそれはあらゆる分野で大きな革新をもたらすであろう事は誰の眼にも明らかだろうが、現実は非常に切迫していた。

 魔犬は雑食である。生きた動物、死んだ動物、果実や草や建物の木材さえ喰らう事がある。粒子の塊にも関わらず魔犬は新陳代謝を行う。そして生きた動物と死んだ動物の中には当然人間も含まれるのだ。魔犬の謎の究明は、画期的な科学研究という以上に人類の死活問題となった。


 しかしその研究は困難を極める。まず、単純に捕獲が非常に困難なのだ。既存の毒物・薬物が一切効かないので確実に動きを止める事が出来ない。罠を仕掛ける方法も試されたが、野生動物としても異常なパワーと俊敏性を有していてしかも身体のサイズが大型犬サイズから三メートル前後の直立する巨体に自在に変化するため、罠がまともに機能して捕獲できたケースは殆ど無かった。そして肉体の強度と絶対的な凶暴性、現代の兵隊の標準装備である自動小銃による攻撃が殆ど効かず恐れすらしない。魔素体大禍を経た現代においては魔犬の撃退にはグレネードランチャーや無反動砲などが使用される様になっているが、捕縛を目的とした場合はそれも悪手で、行動できなくなるほどのダメージを負った場合、魔犬は傷口から魔素を噴き出し、30分も経たない内に消失してしまうのだ。


 魔素そのものの『人の思惟に感応して性質を変化させる』特性も研究者達に大きな混乱をもたらした。例えば、魔素を成分分析機などにかけた場合、検査中の分析装置の周囲にいる人間の思惟、微かな予想や願望などを反映した性質に変化してしまうのだ。この結論に達するまでの、そしてそう結論付けざるを得なくなった際の科学者達の阿鼻叫喚ぶりは想像するに余りある。


 シフト・ファイターが現れたのはそんな混乱の最中だ。その多種多様な特殊能力は多くの者に新たな謎と混乱を与えたが、彼らは人類の味方だった。当時軍隊ですら手を焼いていた魔犬を圧倒的な身体能力とその特殊能力で撃退する姿が映像や口伝に少しずつ知れ渡る様になっていった。彼らが何者だったのかはわからなかったが、迷い無く魔犬と戦い人々を守る行為と、魔素で形作られたそれぞれ独特なコスチュームの印象から、多分正義の味方のようなものだろうと、割とすんなりと受け入れられてしまった。というか、魔犬による脅威から彼らに縋る気持ちが、シフト・ファイター達を正義の味方と認知させていたのだろう。


 人類は、正体不明のシフト・ファイターに頼りつつ、何とか魔犬に立ち向かっていた。しかし、その出現は後のカタストロフの前哨戦でしかなかったのだ。世界のどこかに魔犬が現れ、それを稀に現れるシフト・ファイターが撃退する、という対岸の火事のヒーローショウを題材にワイドショーや討論番組で無為な議論をする平和な日々は魔素体大禍によって完膚無きまでに終わりを告げた。


 6年前、厳密には今から5年と8ヵ月前のの9月末、世界中の主要都市に大量の魔犬が同時に発生した。


 大量と言ってもイチ都市につき千体弱から数十体程度だが、一体退治するのに掛かる労力を鑑みれば途方も無い数だ。魔犬達が現れた都市の出現数を比較すると、何故か都市の人口と比例して魔犬の出現数が増えている事が明らかにされている。ただ、魔犬が出現した都市としなかった都市の境目が曖昧で、ひとつひとつの『国』の枠組みの中から人口密度の多い都市上位数カ所の内のいくつかに魔犬が出現したという見方が一般的だ(そしてこの如何にも恣意的な選別基準が、魔素体大禍が人災とする仮説の大きな根拠の一つになっている)。


 興味深い事に、魔素体大禍においては、魔犬が出現する『瞬間』の目撃情報が多数残されている。これまでの魔犬の出現は主に郊外の人気の無い場所が中心だったので、誰も魔犬がどのように発生するのかを見た事が無かったのだ。ただ、この目撃情報は研究者を更なる混乱の坩堝に叩き込む内容で、そもそも意味が解らないので『ショックで目撃者の記憶が混濁している』とかレッテルを張られてまともに取り扱って良いものかと疑問視する声がある。ただ、世界各地での証言の内容にはどれも似通っており、妄想と切り捨てるのは少々乱暴過ぎる部分もある。


 魔犬出現時の目撃情報で最も有名かつ仔細なものが、イタリア・ローマ在住の男性サラリーマンC氏へのインタビューだ。特筆すべきは、彼の証言には魔犬を目撃する『直前』の『思考』が克明に反芻されているという点だ。



 ――あの日は、いつものように行きつけのカフェで朝食を取ろうとしていたんだ。ただいつもと違って周りの客がどうもざわついている。

 何でもニューヨークで魔犬が大量発生したとかで、みんなモバイルやタブレットでネットやニュースを視ていた。

(※中略)

 ――オレもスマートフォンでニュース番組を視たんだけど、どこの局もニュースキャスターが深刻そうに断片的な情報を繰り返すだけで現在のニューヨークの映像を映している局は無かった。映像が放送されていないのは単に映像が送られてこないのか、手に入った映像がショッキング過ぎて使えないのかわからないけれど、アナウンサーと時折見切れるテレビスタッフの動揺ぶりからどうもただ事じゃないらしいという雰囲気だけは伝わってきた。

 オレはふと顔を上げてカフェの外の景色を眺めた。行き交う人や車を目で追いながら頭の中では魔犬が暴れるニューヨークの町を想像していた。不謹慎なんだけど、タイムズスクエアの電光掲示板が立ち並ぶ中をアメコミ映画よろしく魔犬が暴れる様子を、今現在ニューヨークで実際に起こっているかもしれない惨事を妄想した。

 ……その時は何故か、魔犬の挙動が異様に細かく想像できたんだ。

 犬型の魔犬が立ち上がりながら膨れ上がり、大男みたいな巨体になって、ゆっくり歩きながら黒い煙をうっすらとたなびかせる。身体の筋の動きすら想像する事が出来た。ただ、途中でおかしなことに気付いた。自分が今頭の中で妄想している魔犬がまるで実際に目で見ている様な妙な感覚に陥っていた事に。そして更に、今まで頭の中で妄想していただけのものだったはずの魔犬を、今現在目で、視覚情報として目の前にいる魔犬を捉えている事に気付いたんだ。カフェの外の通行人が悲鳴を上げたのはそのすぐ後で……



 世界中で得られた目撃情報において共通している点は主に二つ、目の前に忽然と現れた点と、魔犬が現れる直前に目撃者が魔犬の姿を頭で思い浮かべており、まるで想像上の魔犬が現実に転写されたような錯覚を受けさせられる点だ。魔素の、人間の思惟に影響され性質を変える特性から、目撃者の空想に呼応して魔犬が現れたという仮説は一切有り得ないと言い切れない部分もあるが、その説を補強する材料はほぼ皆無である。


 正体も原因も何もかも不明だが、とにかく世界中に魔犬が現れた。

 何の前触れも無い出現だった。断片的な目撃情報がネットやニュースで飛び交い、誰も彼も事態の全容が掴めず、世界中の都市が恐慌状態に陥った。情報不足と映像の中で暴れる魔犬達が国中に混乱を拡散させ、あらゆる社会活動が機能不全を起こした。だが、数日もすれば各国政府もある程度の情報統合が出来るようになり、軍隊を展開し空と陸から索敵と逃げ遅れた市民の救出を開始していた。


 軍隊と魔犬の衝突、それに併せ各都市に現れ各個独自に魔犬退治や人名救出を始めるシフト・ファイター達。そんな折である、鶴城明悟の孫、鶴城栄美が行方不明になったのは。




 魔素体大禍直前、日本国内では31人のシフト・ファイターが確認されていた。その内、現在もその活動が確認されているのは3名。3名とも東京近郊に在住していると思われ、今も東京周辺で魔犬退治を行っている。しかし、政府機関は彼らの所在・素性は把握しておらず現在も目下調査中、という事になっている。ただ、各シフト・ファイターの素性は追及しない形で連絡手段を確保されており、現在、日本再興の命運を左右するとさえ言われている一大公共事業『青山霊園封鎖作戦』のための共同戦線を張る体制が形成されている。


 ……では他の28人はどうなっているのだろうか? 大半は行方不明、『正義の味方』を引退してどこかで細々と生き残っているのかもしれない。しかし少なくとも、政府に確認されている6人と、そこに明悟が知る人物――つまり、鶴城栄美を加えて計7人は、有角魔犬とドッペルゲンガー軍団との戦闘で命を落としている。


 まず有角魔犬について説明する。有角魔犬とは、文字通り角が生えた魔犬だ。額の辺りや頭部、背や肩や胸や腕の各所から、鉱石を切り出した様な滑らかで無機質な赤い角や棘が生えている。角が生えている怪物を『犬』と呼ぶのは若干不合理かもしれないが、角や棘が生えていること以外は普通の魔犬と大差無いので、まあ魔犬の眷族であろうと判断されている。いや、普通の魔犬と大きく違う点があと二つある。一つは、単純に『強い』事。腕力、機動力、反射神経、耐久力などの戦闘力、人類と殺し合いをする能力が明らかに普通の魔犬を上回っている。ハッキリ言って通常の魔犬ですら人間の手に余る相手なのに、有角魔犬の戦闘能力は過剰としか言いようがない。もう一つが、明らかに有角魔犬が通常の魔犬達を統率し連携を取っている点。どのような方法かは不明だが明らかに有角魔犬と他の魔犬が意思の疎通をしている。魔犬達のみなら、単純にそれぞれが独自に行動し、獲物に対して直線的に襲い掛かるだけだったが、有角魔犬が現れればそれを中心に魔犬達が群れを成す。そして、移動中の車列を市街地で待ち伏せしたり防衛線に対して強度の高い有角魔犬を盾に集団で突撃してきたりと、明らかに今まで行ってこなかったような集団行動を取り始めたのだ。さながら魔犬の群れのボスのような存在が、前触れなく急に現れたのだ。


 有角魔犬の事を『魔犬版シフト・ファイター』などと呼ぶ者も居た。確かに有角魔犬の戦闘能力は凄まじく、そしてまるで、魔犬側がシフト・ファイターに対抗するために造り出したのではないかと感じられてしまう位に(魔犬側にとって)都合の良い登場のタイミングなのだ。実際、シフト・ファイター達は有角魔犬には非常に手を焼いた。一人で複数体の魔犬を相手取れるシフト・ファイター達も、有角魔犬が相手だと一対一で掛かり切りになる。そしてそれこそが有角魔犬の狙いで、自身がシフト・ファイターの足止めをしている間に、魔犬の群れがシフト・ファイターから逃げ出したり、近くに居る別の人間(シフト・ファイターではない、生身の)の兵隊を襲う、という様な戦術めいた戦い方をするようになっていた。


 そして、この災禍に更なるカオスを加味した悪夢の存在こそ、ドッペルゲンガー達だ。


 ……魔犬の出現に関しては、原因不明・意味不明なれど10ヵ月ほど前から(曖昧模糊とした目撃情報を信じるなら五年位前から)前触れが有り、少しずつエスカレートする形だった。しかし、このドッペルゲンガー達の出現は本当に唐突であった。


 明悟は自衛隊経由で、マスコミがドッペルゲンガーの『変身』を撮影した映像を手に入れた。それはドッペルゲンガーの存在が世間に全く認知されていなかった時に撮影され、内容の生々しさによりテレビ放映が自粛されたものだ。


 その映像は東京の上空からヘリコプターで撮影されたもの。基本的に魔犬は空高くを攻撃する手段など持っていないので、魔犬が各都市に現れた最初の数日は軍隊やマスコミによりヘリコプターの空撮が盛んに行われていた。

 俯瞰から、人や車の動きが一切無い沈黙に沈んだビル群が撮影されていく中、スタッフの声をマイクが拾う。あそこ、何か白いのが沢山ある! ほら、あそこ!


 急旋回をした後ヘリコプターは地面に近付いていく。魔犬が物を投げてくる可能性が有り、危険地域での低空飛行は早々に禁止されていたので地面から百メートルの辺りでホバリングする。カメラが向けられた先にいたのは、全身が真っ白な人影の集団である。数はおよそ五十。よたよたとしたうつろな足取りで道路を同じ方向に歩いていた。


 その白いヒト型の集団のうち一体が、明らかにこちらを、ヘリコプターを見上げていた。そしてその一体は、カメラの映像越しからもわかるくらい真っ直ぐに、今この映像を取っているカメラのレンズをのっぺらぼうの顔で見詰めていた。

 カメラマンもその一体に気付き、カメラをズームする。その時にはその一体の白い身体には、水の中に絵の具の付いた筆を突っ込んだように濁った色が広がり始め、つるんとした表面は波打ち微かに膨れ上がった。


 色と形を変えつつある白いヒト型は両手を、自身の視線の手前に掲げた。その両掌から黒い塊が溢れ出て、右手左手の両方の黒い塊が合流し、ひとつの黒い箱状の形を形成した。それは、どう見てもテレビカメラである。それを持っている者もいつの間にかジーンズにベストを着込んだ中肉中背の成人男性に変わっていた。この映像を取っているカメラマンに対してカメラを向けている男がそこに立っていた。


 え……、オレ? カメラマン自身の声がマイクに拾われた。


 カメラマンに変身した人影が虚脱したようにカメラを降ろす。その男には顔が無かった。書きかけの人物画の様に顔の部分にパーツが一切無い白い無貌をそのまま残していた。そしてカメラは映像の端に捉える。顔だけが白紙のドッペルゲンガーの傍に、ヘリコプターに同乗した他のスタッフ達と全く同じ姿をした人物が立っているのだ。

 この後、不明瞭な悲鳴と共に映像が大きく乱れ、記録が終わる。


 この映像を撮ったカメラマンは今も生きている。カメラを構えていたお蔭でドッペルゲンガーに素顔を直視されず、顔の無い未完成な姿しか目にしなかったからだ。ただ、肉眼で直視してしまった他のスタッフ達はその場で意識を失い、すぐさま横浜のヘリポートに帰還したのだ。直後に死亡が確認された。ヘリコプターのパイロットがドッペルゲンガーを一切目にしなかったのが不幸中の幸いである。


 ……ドッペルゲンガーの出現は魔犬同様何の脈略も無く突然、魔犬が出現した市街地の近辺に突然群体で現れた。それらの場所は既に魔犬出現により住民が避難していた地域ばかりなので現れた瞬間の信憑性のある目撃情報というのは存在していない。仮に現れた瞬間を視たという者がいたとしても次の刹那にドッペルゲンガーに姿をコピーされて絶命しているだろう。前述の映像やドッペルゲンガーに遭遇して生き残った人々(透過性の無いゴーグルやサングラス、幅の広いマスクなどを身に付けていた人々など)の証言が分析されるまで、ドッペルゲンガーは出会っただけで死んでしまう非常に恐ろしい相手だった(対策があるとは言え、今でも十分恐ろしい相手ではあるが)。


 魔素体大禍からの唐突な出現から六年、明悟は幾度かドッペルゲンガーの実物を直で見た事がある。仮面を被った者に変身したドッペルゲンガーは殆ど無害に等しいので捕獲は簡単で、研究の為に資材倉庫の地下空洞に運搬された事もあった。しかし、明悟が最初にドッペルゲンガーと接触したのは魔素体大禍の最中、その個体は恐らく、栄美を殺した張本人だったのだ。



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