3  -魔犬-




 アサルトライフルのスコープで窓の外を覗きつつ、身体を窓際の壁に隠しながら立射の姿勢で魔犬を狙う。駒木には、魔犬の頭部を狙うように指示されている。


 全身に魔素を纏うシフト・ファイターは(魔素の作用で)身体能力と強度が大幅に強化される事で知られているが、もうひとつ、魔素に強固で緻密な思惟を伝達し、個々人固有の現象を発生させる能力がある。それこそ、『シフト・ファイター』自体が他の魔素体同様に完全なアンノウンだった魔素体大禍の直前直後には奇跡とか、超能力とか魔法としか呼び様が無かった程のとんでもない現象だ。


 薙乃の実地試験の内容は、実戦下でその特殊能力を確実に発動できるのかという事。


 これまで実験や試験に関しては幾度となく行われた。無論、それにより充分有意義な魔素や魔素体、シフト・ファイターに関するデータを得る事が出来たが、目指している水準はその先で、薙乃がシフト・ファイターとして実戦に耐え得る能力を有しているか実証する事にある。倉庫の奥で大事に仕舞われている兵器と実戦で運用された事のある兵器との間には絶対的な信頼度の差がある。


 スコープを覗き魔犬の頭部に狙いを定める。黒いシルエットの魔犬は当所無いとぼとぼとした緩慢な歩みで交差点を徘徊している。


「こちらクイーン1、狙撃の準備が出来た」

「周囲に異常無し。そちらのタイミングで発砲せよ」


 では、始めるか。アサルトライフルのセーフティを安全から単射に切り替える。


「『武器を識る人ウエポン・マスタリー』」


 魔犬をスコープ越しに捉えながら、薙乃はそう一言呟いた。


 その言葉を発すると同時に、その音声の波が呼び水になる様に薙乃の頭の中に銃のイメージが浮かび上がる。今両腕と肩で支えているアサルトライフルのイメージ、その内部構造がレントゲン写真のように喚起される。その中で一点、マガジンから銃身に送り込まれる弾丸に意識を集中させ魔素を籠める。


 魔素を籠める、という感覚。薙乃自身を覆っている魔素のひと欠片を能動的に弾丸に移動させるという技術は誰かに教わり習得したものでは無く、『シフト・ファイター』に変身した時点でぼんやりと記憶の片隅に浮かび上がった出所が不明の知識だ。今まで忘れていた古い思い出を不意に思い出す様に、この『武器を識る人ウエポン・マスタリー』という単語とそれがもたらす現象に関する知識が、頭の中にどこからともなく現れたのだ。そしてそれは知識だけでなく、感覚としての記憶すらすでに備わっていた。さながら、自転車の乗り方のコツを練習する事無くある日マスターしたようなもの。薙乃はこれに気付いた瞬間、『シフト・ファイター』への変身が人体に強いる性向、人間をある種の道具に変えようとする強制力に怖気を感じずにはおれなかった。だが、その『武器を識る人(ウエポン・マスタリー)』というフレーズに伴う知識と感覚は、幼い頃の記憶を掘り起こす様に自然に薙乃の心身に溶け込むのだ。


 イメージの中の機関部、その中の弾丸と、実物の弾丸がリンクし、魔素を帯びるのが感じ取れる。『武器を識る人ウエポン・マスタリー』というフレーズによって引き起こされる現象は、手に持っている携行武器のスペックの上方修正、魔素によって武器の威力を向上させる事だ。……通常の小火器程度の破壊力では全身が魔素で出来た魔犬を倒す事は出来ない。装甲車の機関砲やいわゆる重火器の類ならばダメージを与えられるがそれらでさえ直撃させなければ戦闘力を確実に奪えるとは限らない。薙乃は『武器を識る人ウエポン・マスタリー』の効果により、弾丸に『着弾直前に加速し、口径が大きくなる』性質を付加した。


 スコープの中のターゲット、魔犬はインサイトされている事など露ほども感じ取っていない様子で、交差点をとぼとぼと横切り、電柱の根元に鼻先を寄せる。動物的な所作だ、彼らも本物の犬の様に排泄物でコミュニケーションを取るというのか? そんな小さな発見と共に、犬の姿をした存在を撃ち抜こうとしている事に小さな罪悪感が生まれたが、それはすぐさま思考から掻き消された。彼らは野生動物では無い、いや、仮にそうだったとしても、看過出来ない害悪である事には変わりはない。


 魔犬が完全に動きを止める。匂いを嗅いで、魔犬の犬としての要素が匂いを識別する僅かな刹那、また頭を上げるまでの一瞬のスキを、薙乃はハッキリと捉えた。『普段』の自身とは比べ物にならない程の鋭い集中力が、コマ送りの様に魔犬の動きを分割し、引き金を引く絶好の瞬間を自分自身に示すのだ。自分の肉体が、自身の認識をはるかに超えるポテンシャルを発揮する事に戸惑いを感じずにはいられない。無論、それを制御できるようになる事も実地訓練の目標の一つなのだが。


 肉体の感覚に従う。薙乃は引き金を引き、魔素の籠められた弾丸を撃ち出した。


 銃砲の内部で炸裂音が響いたのとほぼ同時に、スコープの中の魔犬の頭部が、灰の山に全身を沈めた様なぼふん、という破裂音と共に大量の黒い魔素の粒が四散する。頭部に突如加えられた衝撃に併せ、魔犬の全身は軽く跳ねる。横倒しに倒れた時には、頭部は跡形も無く消え去っていた。


 薙乃は仮面からスコープを引き離し、仮面越しの視界で『ターゲット』の所在を確認しようとする。先程まで手に取れるほど間近に見据えていた怪物の残滓が遥か遠くの交差点の隅で黒い染みの様に揺らめいていた。

 薙乃は思い出したように止めていた呼吸を再開した。仮面の内側で忙しない呼吸音が渦巻き、少々耳障りだ。


「目標、沈黙。ポーン1に確認をさせる」


 微かに穏やかになった司令官の声を耳にした直後、


 …………!?


何か、呼び止められた様な感覚が薙乃の脳を刺激した。無線の音に驚いた訳では無い。狙撃の為に張り詰めさせていた聴覚や触覚が微かな刺激によって無意識化で反応させられたような、まさか、これが『気配を感じる』という感覚なのではないだろうか?

 

 次の瞬間、断続的に重い物が激突するような音と、大きなガラスが割れる様な音が、遠くの方から、確実に聴こえてきた。


「緊急事態! E-6地点よりアンノウン出現!」

 切迫した緊張感を持った無線が聴こえた物音の正体を裏付ける。


「向かいの建物か!?」

 薙乃は指令室に確認を取る。……正直、『E-6地点』が何処なのか即座にピンと来なかった。ディスプレイの表示を作戦領域全体の俯瞰図に戻せば恐らく表記されていると思われるが、咄嗟に端末を正しく操作する自信が薙乃には無かった。物音の方向と記憶の中の地図から予想を付けた。

「そうだ! その建物に向かっているぞ!」

 司令官の警告か終わらない内にまた音が、ガラスが豪快に割れるけたたましい音が先程より大きく、薙乃の耳に届いた。仏壇・仏具店の正面玄関が派手に破られたらしい。


乱反射集約センサースペクター・タッチに感有り、モードFとモードHの魔犬が一体ずつ計二体。狙撃ポイントの屋内に侵入」

 無人機群によって収集された情報が無線から伝えられる。

 

 そして、その魔犬二体は薙乃の位置を(恐らく銃声によって)捕捉し、自分に対して事務的でさえある本能としての殺意を突き付けていると、薙乃には理解出来た。


「クイーン1、今すぐ屋外へ出るんだ。無人機でバックアップできない」

「了解、この窓から飛び降りる!」


 第六感的な気配として、迫って来る魔犬のプレッシャーが感じ取れた。


 明確に自分を殺す意思を持って怪物が二体向かってきている。だが薙乃の心に焦りは無かった。命を狙われている状況に実感が持てないのか? 自分で自分の平常心に秘かに驚いていた。……或いはこれも『シフト・ファイター』として強化された機能の一つだというのだろうか? 精神面まで作り変えられているとなると、流石にゾッとしない。


 ……検証は後だ。手持ちの道具は有効に使おう。

 薙乃は、先程まで狙撃の為に少しだけ開けていた窓を全開にし、上半身を乗り出した。下界には……、広い駐車場がある。ただ平らなアスファルトの地面だ。着地の邪魔になる物が無いので良しとしよう。

 薙乃は四階の窓のへりに足を掛けよじ登り、そのまま躊躇無く飛び降りた。『シフト・ファイター』の強化された肉体ならば着地を失敗しなければ問題の無い高さではあるが、落下しながら地面が迫ってくるまでの刹那は異様に長く感じる。

 

 視界がアスファルトの地面でいっぱいになる直前、足から地面に着地。


「道路を横切って向かいの建物の傍まで走るんだ!」

 ……両足の裏を、幼い頃の木登りで枝から地面に飛び降りた時に味わった痛みを伴った痺れが駆け巡り若干ノスタルジックな気分にさせられたが、無論今はそんな過去に浸っている場合ではない。脚が正常に動くことを確認しつつ指示された方向を見定めて走り始めた。


 走る薙乃の左斜め前方、国道の道路脇に先程姿を見掛けた『カサジゾウ』がちょこんと直立している。それで薙乃は司令官がしようとしている事を大凡察し


 ――不意に頭上に、陽光を呑む曇天のような重い圧迫感が覆い被さる。薙乃は走りながら一瞬だけ頭上に視線を向けた。


 黒い犬が、宙を舞っている。


 薙乃が飛び降りた窓から同じように彼女を追って、魔犬が跳躍したのだ。それだけでは無い、四階の窓の内側からドス黒い別の陰が蠢き、太い腕で窓枠を破壊していた。


 煙の様にたなびく魔素を振り撒きながら前脚からすとんと着地した魔犬は、その勢いを殺さぬままに走り出し真っ直ぐ薙乃の後を追ってくる。


 国道を横断し、腰でアサルトライフルを構え振り向いた薙乃は息を呑んだ。大型犬を模した『魔犬』のしなやかなシルエットの背筋が異様に盛り上がり本来の体積の数倍に膨れ上がっていた。それに呼応し前脚と後ろ足、そして頭部も、まるで風船に空気を入れたみたいに膨張する。当の魔犬自身は変形する自身の肉体に疑義を呈する風も無く膨張がより進行した脚に重心を置きつつ器用に追跡を続ける。

 

 別の姿に変わりつつある。膨張した脚や背筋には逞しい筋肉や骨格の存在が見て取れたが、最早『犬』のそれとはかけ離れていた。


 巨大化を続け未だ姿を定めない巨魁は真っ直ぐと薙乃を目指す。歩幅は広くなったが地面を蹴るストロークの速さは(脚の肥大化の際若干よろけはしたが)緩める素振りを見せず、瞬く間に距離を詰めようとする。


 が、魔犬が仏壇・仏具店の駐車場から道路に出た瞬間、その左半身は大爆発を起こした。立て続けにぼしゅん、という小さな破裂音と共に魔犬の左側面からグレネードランチャーの弾が飛翔し、またもや炸裂する。待機していた『カサジゾウ』による攻撃だ。脇目も振らず薙乃を追いかけていた魔犬に横やりを入れた形だ。魔犬は、完全に静止している無機物には反応出来ないらしい。


 変形しながら走っていた魔犬は、側面からの二発のグレネードの爆撃に吹き飛び、横倒しになった歪な巨体をアスファルトに滑らせた。直撃を受けた部位は明らかに欠損し、多分前脚の付け根の辺りからもうもうと黒い魔素の粒子が溢れていた。……発射時の反動と重量を抑えた小型の無人機のものとはいえ、グレネード二発を直撃されてまだ原型を留めているという事に薙乃は少なからず戦慄させられた。慄きながらも、アサルトライフルの安全装置を淡々と解除し、腰で構えて連射した。『武器を識る人ウエポン・マスタリー』の効果によって、瑠璃色に輝く魔素を帯びた弾丸が光線のような残像の筋を描き、灰の山にレンガを投げ込むような断続的な破裂音と共に『魔犬』に着弾。黒い魔素の巨魁は、バランスの悪い脚と胴体でもがくが、容赦の無い弾丸の雨に身体を削られ、黒い魔素の粒子をまき散らした。


「上だ! さっき飛び降りた窓だ!!」

 原形が無くなりつつあった魔犬の様子に神経を向けていた薙乃は、耳元から響く司令官の叫び声に反射的に反応し、視線を持ち上げた。


 薙乃は、飛び込んできた光景に目を剥いた。


 先程薙乃が飛び降りた窓のへりに、黒い塊がぶら下がっている。


 前脚は類人猿の腕に近い形態に変わっており、後ろ足で仏壇・仏具店の外壁に踏み込みつつ体勢を支えている。

 窓のへりにぶら下がったもう一体の魔犬は、へりを掴んだ片手を支点にゆっくりと巨体を前後に揺すっている。まるで、振り子の様に。


 何をしようとしているのか薙乃にも察せられた。その瞬間、黒い巨体は大きく国道側に身体を振り、その勢いと共に仏壇・仏具店の外壁を蹴った。黒い影が、宙に投げ出された。


 身体を振った反動により、巨体は宙を舞い弧を描く軌道で滑空してくる。そして落下してくる先は、無論、薙乃が今いるここだ。


 薙乃は左側に飛び避けた。


 空飛ぶ魔犬はその直後、もはや黒い煙を上げるだけで動かなくなったもう一体を乗り越えた辺りで着地。しかし、巨体は着地後も前進する勢いを殺そうとせず、そのまま転がりながら道路を横切り、仏壇・仏具店の向かいの建物に激突した。


 立ち上がり道路側に視線を向けた薙乃は一瞬魔犬を見失い、慌てて視線を横に滑らせた。


 薙乃は、自身が窮地に立たされている事を悟った。


 四階の高さから弧を描き飛び降り、勢いよく向かいの建物に激突したはずのそれは、既にその巨体を起こし、『獲物』に視線を定めていた。そう、それは既に『巨体』である。それどころか、それは今、直立しているのだ。


 その姿は四足歩行の大型犬というよりも最早オラウータンやゴリラに近い。後ろ足はやや短めだがしっかりと上体を持ち上げ、猫背気味だが安定したバランスを保っており、がっちりとした肩から伸びる両腕は太く長く、腕一本で小学校高学年の生徒一人分位のサイズは有りそうだ。その巨体の全長は3メートル近くまで膨れ上がっている。サイズから見た目まで似ても似つかないが、これも先程薙乃が狙撃した犬型の『魔犬』と同種の個体である。   


 魔犬達は二種類の形態に変形する機能を有する。猟犬形態モード・ハウンド怪物形態モード・フリーク。小型で俊敏、犬に近い形態の猟犬形態と大型で超重量、圧倒的パワーを持つ怪物形態の二つを状況に応じて使い分ける。それは体積だけでなく出力や質量すら増減する。質量保存の法則など蚊帳の外、魔素の性質を生かし二つの異なる存在をコインの表裏の様に一個体に備えているのだ。


 紅い双眸が薙乃を見下ろしている。直立巨大化した魔犬の頭部は辛うじて犬に近い形状を残していたが、眼だけはまるで自動車のブレーキランプの様に大きくかつ存在感を放ち、煌々と紅い輝きで射抜かんばかりに薙乃を見据えている。

 二者の距離は10メートル弱。薙乃はこの世ならざる獣の眼を真っ直ぐ見返しつつその全身の挙動に細心の注意を向けながら、左側に飛び避けたのは悪手だったと密かに後悔した。カサジゾウと挟み撃ちしてしまう形になってしまっており、グレネードの弾が外れてしまうと薙乃を誤射してしまう可能性が有るのでカサジゾウが攻撃できないのだ。――魔犬の上半身が僅かに前方に傾く。腰と後ろ足をバネの様に沈め、片手で地面に触れようとしていた。指は四本、その全てが黒い刃の様に先端が尖っている。相変わらず全身が黒いので体毛と筋肉と爪の境界がわからない(そもそもそんなもの無いのかもしれない)。ただ、地面に自重を預けようとする掌の先端には害意と暴力を顕在化させたような威圧的な鋭さが見て取れた。

 

 魔犬は、今まさに飛び掛かろうとしていた。獣の威圧感が刻一刻と膨れ上がっていくのがわかった。研ぎ澄まされた集中力の上ではそれが把握できたが、その上で肉体が完璧に対応できるかとなるとまた別の次元の問題だ。そう考えると恐らく右側に避けてカサジゾウと並んで攻撃が出来ていたとしても状況はあまり変わってはいなかったのだ。狩猟のモーションに移りつつある怪物との距離が10メートルというのは余りにも近過ぎる、逃げ道が無い。こんな距離から狙いをつけ始めて一体何発の弾が当たるというのか? グレネード弾や魔素で強化された弾丸が四、五発当たった所で運良く急所にでも当たらない限り(そもそもこいつの急所は何処だ?)恐らく止められはしない、そのまま自重で押しつぶされるか鋭い爪が引き裂き


「司令室! 『第二形態』を使う!」


 叫んだ薙乃は仮面の向こう側の返答を待たずアサルトライフルを地面に放り出していた。


 魔犬の肩が低く沈むと共に両手の爪をアスファルトの地面に深く喰い込ませた。そして両脚は大地を蹴り下半身を跳ね上げた。最早『犬』と言うよりも類人猿の挙動だ。


 薙乃はベルトの鞘に納めた銃剣の柄に指を滑らせた。

 耳元で「許可する!」と叫ぶ声が聴こえた。だがそれはもう遠い。薙乃は目の前に迫る黒い災悪を見据えながら、研ぎ澄まされる戦意と、胸の内に溢れ燃え上がる蒼い魔素と、その黒い巨魁に対する深い憎悪が混ざり合い、ひとつの別の姿を形造るイメージに没入していた。


 銃剣を引き抜き、高く掲げる。


 それは脳裏に現れた蒼い影。



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