第1話 冷たい風と紺青

 自分の出身校で働いていると、たまにタイムスリップしたような気持ちになることがある。――これは、私の中学時代の出来事なのでは? と。しかし、辺りを見回すと、当時の同級生は当然ながらいないし、窓ガラスに映った自分はセーラー服ではなく、コンサバな教師スタイルの私服に身を包んでいる。


 そして、どこかほっとする。


 中学時代に戻りたいと感じたことはあまりない。誰からも敵視されないよう、ただひたすら防御する術しか知らなかった当時の自分は、あまりに滑稽だ。


 社会人生活三年目の冬を、私立の女子中で、まだまだ「ひよっこ」な若手数学教師として過ごす私。――これでも今年から、中学二年C組の担任をさせてもらっている。基本的に省エネルギーをモットーに生きる私にしては頑張っていると思う。


「原田センセー、また明日ねー」

「気をつけて帰って」


 夕方の五時を過ぎれば外はもう暗い。物騒な世の中だから、不審者には気を付けるよう、生徒たちにも幾度となく注意しているのだ。それでも彼女たちには部活がある、塾がある、習い事がある。


 今日の私にも、用事がある。――夜八時の、最終見回り。




 生徒の居なくなった校内を、一人歩いていた。黄色の腕章がずり落ちてくる。下校時刻後の校内の見回りは、去年の夏――不審者が侵入し、教室内を物色しようとした事件があってから始まった。この事件の顛末はなんとも滑稽で、偶然、教室内で隠れて遊んでいた複数名の生徒が、力を合わせてその不審者を取り押さえた、というもの。あまりに逞しすぎる彼女たちの行動は、危険だという理由で責められこそしたが、今や学校の伝説となっている。


 万が一、教室や部室に生徒が残っていたら、親御さんに連絡して迎えに来てもらうことになっているけれど、今までにそういった事案は見受けられない。


 教室を全て見回った後に、屋上へと向かう。この時間に、屋上でたむろしている生徒なんているわけもないのに、見回りのチェック項目に入っているのだから仕方がない。


 扉を開けると、冷たい風が吹き付ける。うっかり目を閉じた後、何事もないことを確認しようと、目を開けた――



「……ハル?」


 暗闇に弱い私の目が、どうしてそのときばかりは彼女の姿を的確に捉えられたのか、分からない。ただ、確かにそこには、春子がいたのだ。


 冷たい風に流れる長い黒髪。


 濃紺のAラインコートが、たなびいていた。


 私の方に向いた、二つの目からは、宝石のような涙が落ちる。


 そんな彼女は、1.5メートルほどの高さの手すりに細い足をかけていた。

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