第3話 カルーアミルクの後味

僕はよく妄想をする。


美女が急に目の前に現れて僕に話しかけてくる。


僕は素っ気ない態度を取り、その美女は必死に僕に気に入られようと尻尾を振りながら話しかけてくる。


そんな妄想だ。


でも、いつだってそんな美女が僕に声を掛けてくることはない。


道を尋ねてくる事さえもない。


「え、あ、ぼ、僕ですか?」


目の前の美女に僕は噛み噛みでそう答える。


「そうです。会社一緒ですよね?システム開発部の。」


「あ、えっと、はいそうです。」


目の前の東条さんからは、これまで嗅いだ事のない種類の良い香りがした。


香水とかの人工的な香りではない、東条さん自身から発せられるそういう類の香りだった。


近くで見ると人形なんじゃないかというくらい、顔立ちが整っていて、欠陥が一切見当たらなかった。


「昨日、帰りにあたしの事見ましたよね?その件でちょっとご相談があるんですが。」


「え、あ、昨日ですか?なにかありましたっけ?」


僕はとぼけている訳ではなく、本気で覚えていなかった。


僕みたいな奴と東条さんが点と点で交わることなど天文学的にも有り得ない話のように思えた。


「ほら、帰り際に、専務とあたしが一緒に歩いてるのを後ろから眺めてたじゃないですか。」


「あ……」


「それで、やっぱり金か……って呟いてましたよね。あれ、まあまあのボリュームでしたよ。」


東条さんは、白い歯を見せて僕に笑いかける。


僕はその笑顔に吸い込まれそうになる。


「聞かれちゃってましたか……お恥ずかしい…そ、それで相談というのは……」


「ここで簡単にお話しできる話ではないので、終業後にまたお話しできませんか?」


「あ……はい。大丈夫ですよ。」


「よしっ。それじゃあライン教えてください。またあとで連絡します。」


僕はスマホを取り出し、東条さんのIDを入力する。


『桃香』という文字とモデルかと思うほどの美人の写真のアイコンが、僕のスマホに現れる。


「あ、あたし、桃香って言うんですよ。とりあえずスタンプか何か送っておいてください。」


「わかりました。」


「じゃあ、またあとで。」


そう言うと東条さんは赤色のネイルをした手を僕に振って、その場をあとにした。


僕は放心状態だった。


席にはまだ微かに東条さんの香りが残っていた。


そして、僕のスマホの画面には交わらないはずの点、東条さんのラインが映し出されていた。


「悪い、悪い。慣れねぇもん食ったから、腹くだしちゃって、大の方してたわ。」


海東は何事もなかったかのように、席に戻ってくる。


僕はこの事を海東に打ち明けるべきか悩んでいた。


しかしこの話はUFOを見ただとか、幽霊が出たとか、そういったどこか非科学的で、馬鹿馬鹿しい話のような感覚に陥り、うまく話せる自信がなかった。


「よし、そろそろ出るか。」


「ああ……」


結局僕は悶々とした気持ちのまま、イタリアンレストランを出て、会社へと戻った。


自席に戻り、PCを開けると、画面のところに付箋が貼ってあった。


『朝言ったこと本気だからね〜。八嶋』


付箋を見て、反射的に八嶋さんの方を見ると、八嶋さんは八重歯をチラつかせながらニコッと笑いかける。


年上の女性が、後輩をからかっているような笑顔に見えるし、純真無垢な少女が心から笑っているようにも見える。


僕はその判別もつかないまま、中途半端な笑顔を浮かべて、PCに目線を戻す。


「(東条さんの悩みってなんなんだろうか。専務とも関係あるみたいだし。それに八嶋さんはなんの目的であんな発言をしたんだ。しかもわざわざ付箋まで貼って念を押してきて。一体なにが起きてるんだ。)」


「(もしかして、これは夢か?)」


思考が追いつかず、現実逃避を試みるも、八嶋さんからの付箋はすぐ目の前にある。そしてスマホを見れば、東条さんのラインのアイコンが目に入る。


海外の海をバックに、白いワンピースを着る可憐な東条さんが僕の掌の中で笑顔を見せていた。


「(あぁ……やっぱり可愛い。)」


僕は胸が締め付けられる思いだった。


昨日はあんなにもお近づきになりたいと思っていたのに。夢でも付き合いたいなんて叫んでいたのに。


いざ目の前にそのチャンスが来ると、僕は結局怖気付いてしまう。


でも仕方ない。今回は相手が悪い。


今回の件はラインで断りの連絡を入れよう。


僕にしか出来ないことなんてきっとないし、誰か他の人が相談に乗ってくれるはず、きっとそうだ。


僕はそう決意し、頭を切り替えて仕事を再開させる。


でもなんだろう、このモヤモヤは。


結局仕事も捗らず、今日やる予定の仕事も全く終わらず、時間だけが過ぎていった。


終業後の時間が近づくにつれて、僕の鼓動は早くなり、心拍数が高まっていく。


自分の心臓の音がうるさすぎて、周りの音がなにも聞こえなかった。


急にポンと肩を叩かれる。


顔を上げると繁水さんの姿があった。


「お!集中してんねー。そんな納期ギリギリの仕事あったっけ?」


「あ、いえ。そう言う訳ではないんですが。」


「そーなんだ。まあ追い込みすぎるなよ。じゃあ俺は今から合コンに行ってきます。」


繁水さんはおどけた表情で僕に敬礼をすると、颯爽と帰っていった。


「(ああ……もう就業時間過ぎていたのか。東条さんにラインを送らないと。)」


僕は思い立ち、東条さんとのトーク画面を開き、文章を考える。


芥川賞でも狙う小説家のごとく、真剣に文章を考え、何度も推敲を繰り返す。


そしていざ送らんというタイミングで、東条さんからのラインが入る。


『お疲れ様です。お昼にお話しさせてもらった件の続きをお話しさせていただきたいんですが、今日19時に新宿駅に来られますか?』


しまった。先を越された。


そして、あろうことか既読もつけてしまった。


どうしよう。僕は何も考えられなくなっていた。


このままスマホを窓から投げ捨て、走って家に帰りたかった。


でも僕はそういうことが出来るタイプでもなかった。


『お疲れ様です。わかりました。19時に新宿駅に向かいます。』


了承のラインを送ってしまった。


結局断る勇気なんて最初からなかった僕は、流されらように東条さんの相談を聞きにいくことになった。


新宿駅に向かう途中にまた再度東条さんからラインが入っていた。


『よかったー。断られるかと思ってドキドキしてたんですよ。ありがとうございます。』


可愛い絵文字と共に送られてきた文章は、僕の選択が間違っていないという神のお告げかのようだった。


僕はテンションが幾分上がってしまっていた。


結局のところ、モテない男である僕は単純だった。


僕は音楽プレイヤーから流れるグランジを聴きながら、新宿駅へと向かった。


帰宅ラッシュの新宿駅は、とてつもない人混みで、改札を出るのも一苦労だった。


こんなに人が多くては、人一人見つけるのも大変だなと思っていた矢先、目の前に東条さんの姿を見つける。


東条さんは人混みの中にいても、そういったオーラのようなものなのかわからないが、とにかく目立っていた。


「来てくれて、ありがとうございます。とりあえず立ち話もなんなので、お酒でも飲みませんか?」


「あ、はい。いいですよ。」


「じゃあ私の知っているお店があるので、そちらにいきましょう。」


僕はただ従うことしかできなかった。


普通こういうのって男がリードするもんなんだろうなあ。とそんなことを考えながら、僕は東条さんの後をついて行く。


僕達は数分間、無言のまま歩き続きると、東条さんが歩みを止めた。


東条さんの視線の先には外からでもオシャレだと分かる、ガラス張りのスペインバルのお店があった。


「ここなんですけれども、よろしいですか?」


「あ、全然大丈夫です。」


店内は薄暗く、ムーディーな雰囲気を醸し出していて、聞いたことのない洋楽の曲が掛かっていた。


中から40代くらいの顎髭が似合う色黒でダンディな男性が出迎えてくれた。


「あ、桃香ちゃんいらっしゃい。久しぶりですね。」


店主と思われるその男性は低く落ち着いた声で、東条さんに話し掛ける。


その声は何か人に安心感を与える類のものだった。


「マスター、お久しぶりです。今日って個室とか空いてます?」


「タイミング良かったね。今日予約入ってたんだけど、キャンセル出たから空いてるんだわ。」


「やったー。じゃあ個室でお願いします。」


僕らは店の奥の個室に案内される。


先程のガラス張りのところよりも、人の目がないせいか少しだけ安心感を覚える。


メニューを見せてもらったが、僕の人生で触れ合いを持ってこなかった料理達が軒を連ねていて、何を頼んでいいかよく分からなかった。


とりあえずビールを注文して、料理は東条さんにすべて任せることにした。


「じゃあ、乾杯しましょうか?」


「あ、はい。」


「「おつかれさまー、かんぱーい。」」


とてつもない緊張感で喉がカラカラだったのと、酒に酔って現実逃避をしたかったからだったので、僕はグラスに入ったビールをひと息で飲み干してしまう。



「木田さんすごい!一気ですか!お酒強いんですね。ここのお店はお酒も色々種類が置いてあるので、色々飲んでみてくださいね。」


「あ、はいっ。」


僕は褒められたことで少し気を良くして、次のお酒を頼むことにする。


「ここのお店はワインとかも美味しいんですよ。このワインとか良いですよ。」


東条さんはメニューを指差しながら、僕にそう伝える。


僕はもはや断るという機能をアンインストールしてしまったので、もちろんその言葉通りのワインを注文する。


ワインを飲み、その後は彼女の勧めるウィスキーを注文する。


東条さんはその間、嬉しそうに僕がお酒を飲む姿を見ていた。


「本当お酒強いんですね。羨ましいです。」


「いやー、全然大したことないですよ。」


そしてウィスキーもペロリと飲み干してしまう。


僕は彼女に褒められれば、忠犬のように尻尾を振り、それに応える。


お酒も入ってきたおかげで、僕は楽しくなってきていた。


キャバクラ とかに行ったことがない僕は、可愛い女の子とお話ししながら、お酒を飲むことがこんなにも楽しいことだと初めて知った。


次に僕が飲むメニューを彼女が選んでる時に、僕はなにか引っかかる事があった。


そうだ、さっきから雑談ばかりしていて、肝心なことを聞いていない。


僕は酒の力も借りながら意を決して、東条さんに質問をしてみる。


「そういえば、僕に聞いてほしい悩みってなんだったんですか?」


彼女はそれに答えることはなく、ただ黙っている。


沈黙が流れる。


恐ろしいほどの沈黙。


そして彼女は悲しげな表情をしながら、重たい口を開く。


「ごめんなさい。すぐにお話しするのは難しくて。もう少しこのまま他愛もないお話をさせていただけませんか?」


「も、もちろんです。むしろ、すいません、なんか空気読めずに。」


「いえ、木田さんが謝ることはないんですよ。私の問題ですから。それよりも木田さんのお話をもっと聞きたいです。」


東条さんは、少し照れ臭そうな笑顔を浮かべながら、僕の目を見つめてくる。


僕はとにかく彼女を笑顔にしたい。その一心でひたすら話し続けた。


彼女はどんな話でも、真剣に聞き、最後には笑顔を見せてくれた。


僕はいままで味わったことない幸福感で満たされていた。


そんな幸せな時間がどれだけ経ったのか、そしてどのくらいお酒を飲んだのか、そんな事も分からなくなるくらいに僕は酔っぱらってしまっていた。


「木田さん。大丈夫ですか?そろそろお店出ませんか?」


「え、もうそんな時間ですかー?じゃあ移動しましょー!」



僕は千鳥足を必死に隠しながら東条さんの後を追う。


「どうしますか?もう一軒行きますか?」


「いいですねー、行きましょう!」


「テンション高いですね。でも本格的に酔っ払う前にお話ししたい事があるんですよ。」


「えー、まだ全然大丈夫ですよ。次行きましょうよ。」



「いや、どう考えてもダメじゃないですか。真面目な話なんです。」



東条さんは真剣な表情で真っ直ぐと僕を見つめていた。



その雰囲気に僕は勢いを失ってしまう。



「あ、わかりました。でもそうすると、どこに行きます?」


「あまり人に聞かれたくない話なんです。二人きりになれるところがいいです。」


「え……そ、その………ラ、ラブホテル的なところですか?」


僕はその発言が、僕自身から発せられたものだと気付くのに時間がかかった。


少し間を置いて、自分の発言に気が付き、顔が真っ赤になる。


「何言ってるんですか……カラオケとか、公園とかそういうとこですよ。」


東条さんは僕の発言などなかったかのように淡々とそう答える。


僕はもうこれ以上東条さんの顔を見て、話をすることができなかった。


下を向き、東条さんの視線から逃れていた。


その頃には僕の酔いは少しずつ覚めてきて、自分の発言を冷静に考えられるようになっていた。


恋愛経験のない僕が勢いに任せて振るった渾身の一撃は、東条さんにかすり傷一つ与えることができなかった。


むしろ、僕のダメージの方が圧倒的に大きかった。


少しの沈黙があり、東条さんはまた口を開く。


「あの、ラブホ行きたいですか?わたしは2人きりでお話ができれば、どこでも構いませんので。」


僕は思いもよらない発言に、驚き、思わず顔を上げる。


東条さんは先ほどとなにも変わらない端正な顔立ちを一つも崩さず,澄ました顔で僕を真っ直ぐに見ていた。


僕は再び視線を東条さんから外し、下を向く。


なにが正解なのかわからなかった。


僕は相田との会話をふと思い出す。


「女ってのは押しに弱ぇんだよ。だからホテル誘うときは、とにかく押して押して押し倒すんだ。」


相田も女性経験がないのに、この自信はどこから来るのかいささか不思議だったが、とにかく僕はこの言葉に勇気をもらった。


「ラブホテル行ってみたいです。もしも東条さんがよければ……」


僕は勢いに任せて、そう言ってしまっていた。


今日は何度勢いに任せているんだろうか。


東条さんはなにも答えずに、こちらをずっと見ている。


これで勝敗が決まるという局面で審判の判定を待つかのように僕はじっと息をのみながら東条さんの答えを待つ。


賞金を懸けたクイズ番組の司会者ばりに溜めに溜め、東条さんは口を開く。


「いいですよ。じゃあ行きましょっか。」


こんなにすんなりと事が進んだ経験がない僕は、この答えに逆に動揺してしまう。


「え……いいんですか?」


「あらためて聞かれると恥ずかしいですよ。だけど木田さんとなら・・・・・・・」


東条さんは俯きながらそう答える。


だめだ、可愛すぎる。


「じゃあ行きましょうか。」


東条さんはそう言うと、慣れた足取りで歩き始めた。


続く

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