死にたがりの修羅

泉宮糾一

#1 リリィ

1.悪夢

 百合の花弁ががくから千切れて机の下へ落ちていった。床に横たわると、もう動かなかった。君と同じだった。

 口の中では血の味が広がっていた。いくら舌を這わせても、逃れられなかった。

「まずいんじゃないの」

 言葉とは裏腹の、笑い声が耳に届く。クラスメイトの留岡とめおかと、取り巻きの津久井、宇田。他の奴が誰なのかはっきりとわからないけれど、味方が一人もいないことはわかっている。

 あいつの血縁者だから、僕はあざけりを浴びている。世間の倫理に反したあいつは僕の実の父親だ。呆れた母に見捨てられて、今は離れて暮らしている。家族のスタイルがいくら変わっても、嘲笑は絡みついた蜘蛛の糸のように、いつまでも僕についていた。

 その上で、君が死んだ。下らない奴らが君をあいつと同じだと嘲った。その浅ましさが気にくわなかった。そんなことができてしまう奴らに鉄槌を浴びせたくて、返り討ちにあってこの様だ。

 頭が重い。景色に君が浮かんだ気がして、僕は目尻を濡らした。勘違いした嘲笑が、すかさず耳に聞こえてくる。

 未だに君を思い浮かべてしまうのは、きっと僕の心の弱さだ。縋ろうとしてしまう。救ってくれと叫ぼうとしてしまう。そんなことはしたくない。君は何も悪くないはずだから。

 僕は君を否定するわけにはいかない。たとえ僕自身がどんな目にあったとしても。

 頭の痛さが強さを増していった。視界に血がにじむ。足を引っ掛けられて、額を打ちつけただけなのに、傷は思いの外深いのかも知れない。もしも傷が深すぎて手に負えなかったら、死ねるだろうか。それはとても幸運なことかもしれない。痛みも浅いこのままの状態で、フェードアウトするように、世界から消えていなくなれたらどれだけいいだろう。

 地獄いったら君は待ってくれているのだろうか。想像して、少し口元が緩んだ。天国かもしれないのに、まず地獄にいると思ってしまった。血がけぶり、大地の焼ける赤い背景は、君の居場所によく似合う。


 思考を、音が遮断する。

 やけに大きな音だ。話し言葉とも思えない。轟音、風圧、振動。やかましさで頭が割れそうになる。反射的に腕に力を込めたら、拍子抜けするくらい軽々と体が起きた。

 クラスメイトたちが立っていた場所に、何かがあった。それを形容する言葉はとっさには思い浮かばなかった。一見するとヘドロの山だ。内部から破裂しかけている爆弾のようにふくらんでいる。頭と思しき場所には目も鼻も口もあるけれど、目は縦に二段並んでいて、その上に口がある。そのすぐ右脇で鼻腔が荒く息を吐いていた。

 それらは間隔を空けて振動していた。全身が心臓のようだ。その振動に押されるように身体の際から触手が二本、揺らめきながら伸び出していた。

 留岡とその取り巻きたち。僕を取り囲んでいた彼らは教室のどこにもいなかった。その代わり五体の化け物が僕の前に並んでいた。

 教室には他に誰もいなかった。もともと放課後で、人がまばらだった。それにしても、気配がなさすぎる。窓の外からも部活動の声などが聞こえないし、そもそも景色に違和感がある。青いはずの空が、今ではただれた赤い空をしている。

 地獄に来たのかな。

 望んでいたことなのに、歯が無意識のうちに震えていた。舌を噛みそうなほどだ。まだ五月の連休が明けたばかりの時期なのに、空気はひんやりとしていた。

 それらの触手の先で、更に別のものが伸び始めていた。蛍光灯を反射するそれは、伸びながら壁に触れて、傷痕をつけていく。刃のようなものらしい。触手の先に一本ずつ。刃渡りが十センチほどになったところで、それらは伸びるのをやめた。

 無駄な揺らぎがなくなった触手は、首をもたげるようにして僕を見下ろしていた。刃のそばにある切れ込みにも瞳があった。赤い瞳が僕を真っ直ぐ見つめていた。


 足の震えが消えた。

 先ほどまで感じていた忌避感が、薄れていく。

 もうここまできたら逃げようがない。絶対に死ぬ。理由も状況もわからないけれど、死んでしまえば全て終わる。それはとても楽なことのように思えた。やるなら早くしてほしかった。

「ただの化け物だよ」

 澄んだ声がした。吐息さえ感じた。右肩に触れるほどの近さで、その声の主は僕に声を掛けていた。声質からして、少女だった。聞き覚えのある声色だった。

「簡単だよ。やってごらん。ほら」

 指先に冷たい感触がある。全く気がつかないうちに、僕は諸刃の柄を握っていた。

 ダガー。それは凶器だ。人に刺せば血が迸る。殴り合いの喧嘩や腹いせのいじめなど比べ物にならないくらいの暴力だ。出血多量で人は死ぬ。死んだ人はモノになる。これがあれば奴らをモノにすることができる。

「うん」

 鼓動が止まない頭の中で、僕は自分の声を聞いた。

 対峙した化け物は、赤黒い皮膚に口が三つはあった。一際大きいものが上部に一つ。顎と右耳の当たりに小さいものが一つずつ。それらは不揃いな歯並びをしていて、奥にはピンクの舌がちらついていた。それらが震えて一斉に声が鳴る。いつかテレビの映像で見たクジラの声のように聞こえた。音程の違うそれらの声が不協和音を奏でている。

 触手の眼球がまぶたを向いた。敵意がある。僕にそれが向けられている。

 駆け出すには十分な理由だった。


 背後に彼女の笑い声がしていたけれど、全てが終わってから振り返りたかった。途中で化け物の刃に刺されたら、そのときは諦める。しかし、負ける気はしなかった。

 触手を掻い潜ってダガーを突き刺し、一体目を切り伏せる。痛みにうめく化け物の声が聞こえる。切りつけるたびに音量が増す。そのたびに血が噴き出た。粘性のあるその血は、赤い色をしていた。だからまあ、それらはきっとヒトなのだろう。

 一回では終わらなかった。ダガーを持ち直して、何度も切り裂いた。何度もやっていると鉄の味にも匂いにも麻痺してくる。どうしてか体が軽い。余計な力が抜けていく。力なんて入れなくても、いくらでも腕を振ることができた。このダガーはまるで僕と同化しているようだった。

 一体目が細切れになったところで、怒号を聞いた。他の化け物の触手が迫ってきていた。とてものろくて、醜かった。だから躊躇いはなかった。伸びてきた触手を切り裂くと、慣性で黒板まで飛んでいく。

 教室にはそこらに赤いしぶきがあがっていた。化け物のくせにそれなのに血の色だけが赤い。ヒトの色をしている。

 彼らを切り刻んでいる僕は、果たしてヒトなのだろうかと、一瞬思い、すぐに忘れた。

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