キョドウフシン・ミーティング

 遠野が病院のベッドにいたのは一日にも満たなかった。目が覚めるなり嘔吐おうとした遠野を見た同室の患者が、異変に気づいてナース・コールをしてくれたのだ。駆けつけた女性看護師は遠野の血圧を測ると、まだ途中の点滴を外して遠野に服を着替えさせた。受付で料金の支払い方法を事務的に説明された後、遠野はさっさと病院から追い出されてしまったのだ。


 受付の看護師に誰か面会に来なかったかと遠野が訊ねると、母親が来ていたようだという答えが返ってきた。遠野がさらに訊ねようとする前に、「他には誰も見えてません。お気をつけてお帰りください。お大事にどうぞ」という見事なセリフ回しによって退却を余儀なくされてしまった。


 遠野はしかし、と考える。携帯を買ってからずいぶんと長い間、まったくと言っていいほど連絡を取っていなかった母親が、いきなり見舞いになど来るものだろうか? たとえ来てくれていたとしても、あの茶封筒は母親が置いていったものでは絶対にありえない。


 そんなことを考えながらふらふらと駅に向かって歩いているところへ、遠野の携帯が着信の振動を伝えてきた。見ると、さっきも一度かかってきていたらしい、未登録の番号からだった。


「もしもし、どちら様?」


「クジョウだけど」


「クジョウ、さん?」


「遠野護。アンタに訊きたいことがある」


 クジョウと名乗る威圧的な女性の声に遠野は少しひるんだ。クジョウ……クジョウ、アサミ?


「アサミ、か?」


 電話の相手からため息が漏れる。


「さっきもそう言ったでしょ?」


「えあぁ、その」


 病み上がりのせいなのか、それともアサミに対してだけなのか、遠野はいつもの調子が出せないでいる。


「今から会える?」


「今から?」


 この前の同窓会ではウザいと冷たくあしらわれたかと思ったら、今度はアサミの方から急に会えないかと誘われている。あまりの急展開ぶりに遠野は狼狽ろうばいを隠せない。


「いつならいいわけ?」


「いつならって、今日がダメってことはないけど」


「ハッキリしてくんない?」


 こんな強気な女のどこに惹かれているんだろう? と遠野は自分自身の気持ちを疑わしく思った。


「わかった。それじゃあ、午後から会おう」


「午後の何時?」


 遠野は腕時計を見た。もうすぐで正午になろうとしている。頭もまだぼんやりしているし汗もかいたので、部屋へ戻ってシャワーを浴びたいと遠野は考えていた。


「午後五時、場所は新百合ヶ丘のカフェ。じゃ、後で」


「ちょっ──」


 遠野が呼びかける前にアサミからの電話は一方的に切れてしまった。電話ではダメなのかと訊くつもりだったが、会合場所が自分のアパートがある新百合ヶ丘に指定されたので、遠野にとってはむしろ好都合だといえる。うまくやればアサミを部屋へ連れ込むこともできるだろう、と遠野は抜け目なく考えを巡らせていた。



 まだ頭はスッキリしていないが、遠野は部屋でシャワーを浴びて新しいシャツに着替えてから、待ち合わせに指定されたカフェへと向かった。上着として着用しているのはいつものスーツだ。アサミと会えるというのに、遠野の気分は鉛のように重く沈んでいる。


「いらっしゃいませぇ。こんばんわぁ」


 三週間以上前、そうとは気づかずにアサミを見かけたのも、このカフェであったのを遠野は覚えていた。店内は学生や買い物帰りらしい主婦たちで賑わっている。カウンターの向こうには三人の女性店員がおり、ホールでは一人の男性店員がテーブルを拭いて回っている。


 遠野はアイス・コーヒーを受取ってから、アサミが来ているか店内を見渡してみた。うるさくつきまとうハエを手で払いながら、遠野は一人で座っている女性客はいないかと、キョロキョロと目を左右に泳がせる。しばらくして遠野は、窓際の席でこちらをジッと見ているアサミの姿を見つけた。


「合図くらいしてくれてもいいだろ?」


 遠野は冗談のつもりで言ったのだが、向かい側に座るアサミはニコリともしない。


「訊きたいことがあるの」


「あぁ、そう言ってたよな」


 訊きたいことなら遠野にも山ほどあった。同窓会の出席者名簿に残されていた瑠璃からのメッセージ、病室に置かれていた自分宛ての茶封筒、そこから出てきた義久と思われる男の脳ミソがはみ出した写真、もう一枚の写真には原型を留めていない肉片と、おびただしい量の血液でできた血溜まりが線路とともに写っていた。ただ、それらの答えを誰に求めればいいのか、遠野には見当のつけようもなかった。


 遠野にもっとも戦慄を走らせたのは、メッセージや写真などではなかった。あの手紙、いや、あれは手紙なんてものじゃなくて――。


「アンタ、どこ見てんの」


「どこって」


 遠野が考え込んでいる間、視線が自然と下がっていたようで、ちょうどアサミの胸の辺りを見ているかたちになっていたらしい。


「勘違いするなよ! おれは別に」


 そんなつもりで見ていたんじゃない、と続けようとした遠野は、再び周りをぶんぶんと飛び回り始めたハエに気を奪われた。追い払っても追い払っても、ハエはしつこく遠野の近くへ戻ってくる。


「どうでもいいけど。何やってんの?」


「ハエが」


 遠野がいくら手を振り回してもハエには一向に当たらない。


「シャワーくらい浴びたら」


「浴びてきたばかりだ。スーツかな? もしかしたらまだ病院臭が」


「ビョウインシュウ?」


「そうなんだ。目が覚めたら病院のベッ」


 そういえばどうして自分は病院にいたのだろう、と遠野は何か大事なことを失念していることに気づいて言葉を切った。昨夜の記憶がなぜか曖昧あいまいで思い出せない。


「私が訊きたいことは二つ」


 遠野が我を失っているうちにアサミが話し出した。


「まず、同窓会でハヤシが言っていた『あの事』とは何なのか。それから、ケメ子はどこに行ってしまったのか」


「あの事?」


「そう。ハヤシが血相変えて戻ってきた時に言ってたでしょ? 『あの事を知っているのはおれとお前』がどうとか。それにケメ子とチエって子の名前も出てた。もしケメ子がいなくなったこ――」


 チエ? その名前をきっかけに、遠野の頭の中にかかっていたかすみが急速に晴れていくようだった。昨日の夜はカズハと西麻布のイタリアン・レストランで会ったのだ。カズハがいなくなった頃に眠くなってきて、そしてカズハから電話がかかってきた。電話のカズハは自分が本当はチエという名前だと言っていた。その後のことはよく覚えていないが、猛の名を聞いた気もする。


「って、聞いてんの? おい、遠野護。アンタ、様子がおかしすぎるよ」


「え? あ、わりぃ。何だか、色んなことが起きてて……」


「それはこっちの話」


 遠野は頭を軽く振ってから、ガム・シロップもミルクも入れていないアイス・コーヒーに口をつけた。


「いらっしゃいませぇ。こんばんわぁ」


 その声を聞いて遠野は反射的に入り口を見た。


「あっ。あのおばさん」


「今度はなに」


「いや、何でもない……」


 遠野はアサミの怒気を含んだ声と鋭い眼差まなざしにすくめられて言いよどんだ。ついさっき店に入ってきた中年女性に遠野は見覚えがあった。記憶力の悪い遠野であっても、あの白粉おしろいを塗りたくったような妙に白い顔は忘れようがなかった。

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