ヨミジムカイ・ライン



  仲良くしてくれたみんなを私の同窓会に招待します


                            相原 瑠璃



 西麻布のイタリアン・レストランでカズハを待ちながら、遠野は昨日の同窓会の名簿に残されていた、この世に存在し得ない者からのメッセージを思い返していた。というよりも、目にした時からメッセージが脳裡のうりに焼きついて離れないでいる。


 どうして今さら、と遠野は苦々しい思いに顔をゆがめた。瑠璃の事件はまわしい過去の記憶として心の奥底に封印してきたことだ。二度と開けられることのないよう、厳重に幾重いくえにも鍵をかけて。遠野があまり中学時代のことを覚えていないのは、ひとえにそのことが強く影響しているせいかもしれない。


「ごめんね。遅れちゃって。わたしから呼び出したのに」


 その声に遠野が顔を上げると、はにかんだような表情をしたカズハが立っていた。


「どうしたの? 怖い顔して。もしかして怒ってる?」


「そんなことないよ。ちょっと考え事しててさ。えっと、何飲む?」


 遠野はカズハに動揺を悟られないように必死で取りつくろった。こんな時に考えることじゃないな、と遠野は最前までの考えを振り払った。今日こそカズハをホテルに連れ込もうと、遠野は勝負を仕掛けるつもりでいた。ここ数週間で嫌なことが二度も起きたのだ。しかも最悪の部類の。女でも抱かなければやってられない、と遠野は心のうちでドス黒い炎を燃えたぎらせていた。


「そうだなぁ。お祝いしたいことがあるから、シャンパン頼んでもいいかな?」


「もちろん」


 遠野が軽く片手を挙げるとウェイターがすぐに気付いた。右へ二席離れたテーブルでは遠野たちくらいの若いカップル、左前の角に位置するテーブルでは夫婦と思われる年配の外国人が、それぞれ食事を楽しんでいた。


「お決まりでしょうか」


「シャンパンを二つ」


「どちらのシャンパンをお持ち致しましょう?」


 シャンパンはシャンパンだとばかり思っていた遠野は、ウェイターの質問にたじろいだ。急いでテーブルのワイン・リストに視線をわす。


「キュべ・デ・モワンのブロン・ド・ブロンをお願いします」


 すかさずカズハがリストも見ずに注文を告げた。


「かしこまりました」


 遠野は去って行くウェイターの後姿を呆然と見つめた後、今度は尊敬のまなざしでカズハの顔を覗き込んだ。


「詳しいんだ? ワインとか」


「ぜ~んぜん。どこかで飲んだのを覚えていただけなの」


 出だしをスマートに決められなかった遠野は、いつもの落ち着きを失いつつあった。態勢を立て直す必要がありそうだ。


「ごめん、おれ、ちょっとトイレ」


「ごゆっくりどーぞ」


 おどけた調子でカズハが言う。たけるのことや瑠璃のせいだけでなく、がらにもなく緊張しているのだろうか、と遠野は自分の調子の悪さを疑った。


 遠野がトイレから戻ってくると、黄金色の液体が注がれた二つのフルート・グラスが、すでにテーブルの上に置かれていた。グラスの底からは細やかな気泡が絶え間なく立ち昇っている。


「おかえり。じゃ、乾杯しよっか」


「そうしよう」


 何に対する乾杯だろうと疑問を抱きながらも遠野はグラスを掲げた。


「サルーテ!」


「乾……サルー、テ?」


 カズハにつられるままに言ったものの、遠野には意味がわからなかった。一口で濃厚な味わいが遠野の口中に広がった。フルーツのような心地良い香りが鼻から抜ける。


「おいしい」


「さっきのサル何とかって?」


「サルーテ?」


 クスッとカズハが笑みを漏らす。


「イタリア語で乾杯って意味なの」


「あぁ、ここがイタリアンのレストランだから?」


「うん。それもあるけどね」


 そういえばトイレに立つ前、お祝いがどうとかとカズハが言っていたのを遠野は思い出す。


「ところで何のお祝い?」


「そう、実はね。イタリアに行くことに決めたの」


「えっ、イタリア?」


 遠野はこれまでにもカズハとはこうして何度か会っているが、イタリアへ旅行に行く話など一度も出てはいなかった。


「どのくらい?」


「ううん。旅行じゃないの。イタリアに住もうと思って」


「イタリアに住むって……いつから? まだ先だろ?」


「……明日のフライト、なんだ」


「そんな、急に」


 つまり、遠野がカズハと寝るチャンスは今夜をおいて他には無いことになる。遠野は急に焦りを感じ始めていた。どうする? まずは何から始める? 彼女の門出かどでを祝うためのプレゼントか?


「仕事がひと段落したし……それに、自分の気持ちが変わらないうちがいいかなって」


「そう、か。いや、うん。そうだ! また俳句を作ったんだ」


 遠野は突拍子もない発想で、自作の俳句をプレゼントとして送ることにした。自分が意識しているよりも、遠野はかなり混乱しているらしい。


「もう、だから、俳句じゃなくて川柳でしょ?」


「あ、そうだった」


 前にもカズハに指摘されたのを遠野は忘れていた。


「同じ五七五だから俳句みたいにも思えるけどね」


 俳句と川柳の違いもカズハから教えてもらった気がするが、そこまで遠野は覚えていなかった。


「だからさ、一見するとそれっぽく見えても、実はそうじゃないものって意外と多いんだよね」


 遠野はカズハの意味深とも取れる言葉に引っ掛かりを覚えた。遠野が見つめたカズハの瞳は、わずかに潤んでいるように見えた。


「メイク、なおしてくる」


 カズハはサッと立ち上がるとバッグをつかんで化粧室の方へ消えた。一見するとそれっぽく見えるとはどういう意味だろう、と遠野は思案を巡らせ始めた。騙し絵などのことだろうか。それとも、人によって見え方が違ってくるロールシャッハ・テストのようなものか。


 あれこれと考えているうちに、カズハが席を離れてからずいぶんと時間が経っていることに遠野は気付いた。メイクをなおすということが、その言葉通りの意味で無いとしても遅すぎる。何だか頭がぼんやりしてきたところで遠野の携帯が鳴り出した。反射的に電話に出る。


「はい?」


「ごめんね。遠野君」


 受話口から聞こえてきたのは、さっきまで目の前に座っていたカズハの声だった。


「あれ……カズハ?」


 電話の向こうからはざわざわとした雑音が聞こえている。


「うるさいトイレ……だな」


 遠野は頭のぼんやりが次第に強くなっているのを感じた。


「本当にごめん。ごめんなさい、遠野君……」


「何でぇぇ……ご、めん? かずぅぅぅ、はっ」


 今や遠野の頭はぐわんぐわんと振り子のように揺れている。意識を保って喋ることに遠野は困難を感じていた。


「わたし、カズハなんて名前じゃないよ。……チエ。きっと遠野君は覚えてないよね? それに顔も変わっちゃってるから」


「ちえぇぇぇ?」


「猛のこと……あれ、わたしなんだ。でも、わたしがやったんじゃないの。って、意味わかんないよね? そうだよね、わたしがやったようなものだもんね」


「たげるぅぅ。じんだぁぁぁ……」


 遠野はすでに会話を理解できておらず、単語から連想される言葉を口に出しているにすぎない。


「もう謝っても遅いよね。ケメ子や義久のことも。それから、瑠璃のことも」


「んっ、ひゅっ!」


 テーブルすれすれに揺れている遠野の頭が当たってグラスが倒れ、それを手で払ったために床へ落ちて粉々に砕けた。


「わたし、いっぱい悪いことしちゃった。だからもう遠野君には会えないよ」


 カズハの声の背後には、雑音混じりでよくわからないアナウンスが流れている。


「あの、それでね、遠野君。わたし──」


 その刹那せつな、ゴォッという轟音に重なって人々の悲鳴が聞こえ、出し抜けに通話が途絶えた。遠野はそのままテーブルとともに前のめりに倒れ、床の上に派手な音をたてて転がり、携帯電話を握りしめたまま意識を失った。

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