Drag/Magi

一章 『崩壊』

第1話 『D:プロローグ 1』

 日常が、音を立てて崩れ去っていく。

 抱え込もうと手を伸ばしても指の先から零れ落ち、嘲笑うように、大きな音を立てながら。


 異形の右手を握りしめ、潤む視界で空を仰ぐ。


 青空を覆うのは火を吹く怪物の鳴き声と、それにより生み出される熱の塊。最早、非日常から日常へと変わり果ててしまったその数々だ。


「俺は」


 俺は。一体、どこで踏み間違えてしまったのだろう。当たり前の日常を送りたいだけだったのに。

 当たり前の明日が、欲しいだけだったのに。


 ……だからせめて。その〝当たり前〟に縋り付くように剣を振るう。血を吐きながら唄を紡ぐ。

 俺の足元に転がる、無数の命たちに弔うように。目を、逸らすように。


 ◇◆◇


茅咲かやさき市で行方不明者が相次いでいます。警察は捜査を進めており────』


 テレビの向こう側で、無機質に事実を並べるニュースキャスターに思わず溜息を吐き出した。

 トーストにかぶりつくとバターの香ばしい香りが鼻から抜けていき、そんな途方も無い苦味を押し流していく。

 当たり前の光景。いつもの朝の日常。愛する妹と食卓を囲み、ニュースをぼけっと眺めながら情報収集をする、なんて一幕だ。


「お兄ちゃん、醤油」

「お兄ちゃんは醤油じゃありませんよ」

「うわ、出た……鬱陶しいなあもう」


 向かいに座る妹の結愛ゆめはめんどくさそうに大きな溜息を吐き出すと、その身を乗り出して机の中心を陣取っている醤油差しを手に取り、俺に冷たい視線を送ってきた。


「自分で取れるじゃんか」

「はいはい、そうですね」


 結愛にとっては心底不本意だろうが、こんな会話も俺にとっては心地いい。決して妹に罵倒されるのが心地いい変態だと言うワケではなくて、今日も元気だな、なんて確認ができるからだ、なんて言い訳をここに並べておく。

 結愛はひと通り朝食を胃袋に詰め込むと、足元に転がっていたスクールバッグを肩から提げ、憂鬱そうに足先を玄関に向けて、


「……行ってきます」

「ん、行ってらっしゃい。気をつけてな」


 何度となく繰り返してきた挨拶を交わし、居間から出ていく。朝があまり得意ではなく、起き抜けから殆どぼうっとしているのに、必ず食器だけは洗い場に下げてくれるあたりとても出来た妹だと思う。誇らしい。こんなことを口に出したモンなら、また罵倒が飛んできそうなものだけど。


「……さて」


 誰に聞かせるわけでも無い呟き。なんとか自分のやる気を出させるためのソレを吐き出してから、自分の食器を手に取り結愛に倣うように立ち上がる。

 今日は五月の七日、火曜日。世の中はゴールデンウィークを終えて、憂鬱を何とか押しこらえながら学校なり仕事に向かう頃だ。俺もさっさと洗い物をして、用事を済ませてしまおう。

 今日は確か定期検診の日だったか。病院に行って、だらだら適当に大学に向かえば二限には間に合うだろう。


 ◇◆◇


 家を出て、広い道路を歩いていく。

 すれ違う学生たちは予想通り憂鬱そうな、かったるそうな表情を浮かべていて、思わず苦笑いを漏らしてしまった。

 学生たちに混じって病的なまでに青白い顔をした連中が見えるが、これに限ってはいつものことだ。


 このまま道なりに九分ほど進めば、目的地である茅咲市立病院が顔を出してくれる。


 郵便局とコンビニ、焼肉のチェーン店を横目に過ぎ去り、お世辞にも綺麗とは言えない小川を渡る橋に差し掛かったところに、ソイツは居た。


「……なんだ、あれ」


 鹿。鹿だ。奈良でもないのに。

 しかもそれは普通の鹿ではない。頭部から伸びたツノは水晶のように陽の光を反射して煌き、体毛はよく見る茶色ではなく純白。加えて、行き交う学生たちはソレを視認している様子も無ければ、インスタ映えなんてものを狙ってカメラを向けているわけでもない。

 けれど、自然とその鹿を避けて歩いている。そこに何かがある、ということを感じ取っているわけでもなく。


「────、────」


 目があった。ガッチリと。謎の鹿と視線が絡み合い、一度首をかしげるなり俺に背中を向けて、何処かへと駆け去って行く。


 瞬間。

 視界が、暗転する。


 目の前が黒く塗り潰されていき、足裏の感覚が消え失せ、どうしようもない程に、頭が、重い。


 吐き気がする。おそらくガードレールがあったであろうそこに手をつき、闇をやり過ごそうと足掻く。足掻く。


 必死な俺を嘲笑うように、耳鳴りによく似た雑音が鼓膜を揺さぶり、目の前にフラッシュバックするのは首を吊る俺の母親。


 それを待っていたかのように、無数の真っ白い手が俺の足、腕、首をひっ掴み、何処かへ連れ去ろうと引き寄せてくる。


 耳鳴りに代わって聞こえてくるのは無数の、生気が宿らぬ冷たい声。

 妬ましい、怨めしい、と。呪詛が込められた声達だ。


 ……嗚呼、死にたい。無数に流れ込む〝死〟の概念に、思想が、思考が、何もかもが飲み込まれていく。


 ────これも、いつものこと。けれど、何度味わっても慣れるものではない。


 耳元で囁くような、老若男女問わない無数の声。聞き慣れたその呪詛の中に、


「かか。面白いコトになっておるのぅ、お主」


 初めて聞く声があった。

 若々しいよく通る声。俺を揶揄うようなその声は、呪詛に比べれば遠いところから聞こえてくる。

 その声を聞き届けると、同時に闇しかなかった視界に、暖かい炎が走った。

 紅蓮の炎。ソレが、俺の身体に絡みついた無数の腕を焼き払って行く。


「死者に取り憑かれる程に空っぽ。しかし、その中にはしかと曲げられぬ意思があると来た。うむ、面白い面白い」


 声の主の姿は見えない。炎が消えると、視界に広がるのは依然として黒だけで、何も捉えることはない。


「して、お主。余と契約してみる気はないか?」


 ────契約?


 思考は声として形を成さない。それでも声の主は俺の意思を汲み取ってくれたようで、現れた時と同じく「かかか、」なんて笑い飛ばしてみせた。


「良い、理解できぬのも仕方なきコト。近い将来、理解できる刻が来るであろう」


 視界が晴れていく。足裏の感覚が舞い戻る。

 その言葉に問いを返す暇もなく、俺は。現実に舞い戻った。


「……何だってんだよ、もう」


 囁き声も、幼い声ももう聞こえない。辺りに広がるのは紛れもなくいつもの風景で、その温度差に思わずため息が漏れだす。

 先生に相談しなくちゃいけないことがまた増えてしまった。憂鬱で仕方がない。


 ◇◆◇


 茅咲市立病院。この市内で一番大きな病院の、診察室が並ぶ廊下の一番奥。そこが俺の目的地だ。

 その診断室は魔改造という言葉すらも生温なまぬるい程に作り変えられており、最早原型なんてものは留めていない。

 扉を背中にして左側の壁では背の高い本棚が無言で、威圧感を放ちながら佇み、おまけに向かいの壁には真っ黒な趣味の悪い遮光カーテン。その右上には換気扇まで完備されており、部屋には凄まじいタバコの臭いが染み付いていて、病院独特の薬物の臭いなんて微塵も感じない。

 ……あとは挙げられる特徴とすれば、黒い。部屋全体が黒いんだ。壁から何から何まで。

 その黒い部屋の中で、真っ赤なカーペットが存在感を放っている。


「五年遅れの厨二病か?」


 ……その部屋の主────俺の主治医である神崎かんざき 麻央まお先生は、爪が整えられた左の指の間に火のついたタバコを挟みつつ、腹を抱えながら笑ってやがる。目尻に浮かべている涙は、決してタバコの煙が染みているわけではない。

 ……腹が立つ。だから相談したくなかったんだ。というか、厨二病だというのなら先生の方だろう。こんな部屋の内装をしながら、本棚には『メメントモリ』やらそれらしい、、、、、本がいくつもある。完璧に厨二病じゃないか。まあ、そんなことは口が裂けても言えないけど。俺みたいなふざけた症状を真面目に扱ってくれるのは先生だけだし。


 母親が首を吊り、部屋の天井にぶら下がっているのを見てから。異様なまでに俺は良くないものが見える体質になってしまった。


 俗に言うのであれば霊感がある、とかそんなところ。道行く青白い顔をした、腕が欠けていたり足がなかったり、半身が吹き飛んでいる連中を見るのはなかなか気味が悪いところだが。俺の体質の問題はそこではない。


 ……死にたくなる。無性に。その幽霊たちの気持ちに、引っ張られるように。


 そんな症状をいろんな医師に相談したものだけど、決まって有耶無耶にして流されてしまって。たらい回しにされた挙句、たどり着いたのはこの先生のところ。

 病院の中でもかなり変人扱いされているらしいこの人は、俺の症状を何も言わずに聞いた挙句、仮説ではあるものの解説までしてくれた。


 曰く、俺は生きていながら、死というものに近い人間になってしまったらしい。


 毎晩母親の夢を見る。こびりついて離れない地獄。ソレを繰り返し見る度に、俺の身体は死の概念を身近に感じてしまったのだと。


 先生が俺につけた病名は、突発性死にたがり症候群、なんてふざけたモノだったけど。


「いやあ、キミの病気もよくわからない粋に達してしまったものだな。幻獣を見ただけでなく、男の子が好きそうな謎の声まで聞くだなんて」

「俺からしてみりゃ笑い事じゃないぞ、本当に。たまったもんじゃない」


 本当に溜まったもんじゃない。常日頃謎の発作に悩まされてるってのに、解決に向かうどころか悪化までしてる始末だ。俺は一体どこに向かってるんだろうか。完治まで先は長そうだ。


「にしても克己かつきくん、本当に謎の鹿を見たのかね?」

「見た。バッチリ見た。目もあった。こう、ツノが水晶みたいなやつで……」


 色は青に近い感じで半透明だったと記憶してる。

 先生は俺の言葉を聞くなり、「ふぅん」なんて心底興味なさそうに薄い笑みを浮かべた後、何やら机の引き出しを漁り始める。

 その中から出てきたのはペンダントだった。白く濁った、これもまた半透明な石のペンダント。石の大きさは親指の爪くらいで、球体の。


「まあ用心するに越したことはないだろう。これを首からぶら下げてるといい」

「……これは?」

「これは御守りだ。キミを守ってくれる………………たぶん」


 たぶんて。というかそんなマジックアイテムどっから持ってきたんだって話だけど、この際そんなのはどうでもいい。助けてくれるってんなら、なんでも。

 ペンダントを受け取り、言われるがままに首からぶら下げるなり、先生は俺の目の前に指を三本立てて見せつけてきた。


「良いか? 三回だ。三回だけ、コレはキミのことを守ってくれる。それ以上のことはできない」

「三回も守ってくれんのか。すげえな」

「バカ言え。キミの発作、起きる頻度が疎らなんだから。少ないくらいだ」


 信憑性はこの際横に置いといて。あのしんどい思いを三度も防いでくれるなら、ありがたい話だ。


「……だからって、無理はしないようにな」


 ……なんて横道に逸れた思考を、先生の静かな、咎めるような声が現実に引き戻す。

 無理をするな。その言葉には、何故か裏があるように聞こえて。


 その言葉の真意を聞くこともできず、無慈悲に時間はやってきて。他愛のない会話を数度繰り返した後、俺は診察室を後にした。

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