湯船

 死後に万葉集を唄います。眺めます。わたしのしゅういには何もなく、永遠という空気が、匂いを立てて、雲を揺らす。大きなまるまるとした、あたたかい風が、紙をまわそうとするのを指で押さえて、わたしはその唄にかじりつく。

 古語の香り。

 奥ゆかしいのだろうか。

 青味がかった色々な文字が鮮やかに、美しく整列する。私はまるい私の足を折りたたんで、からだを斜めにして、じっとしていた。長く、ここには他に音はない。にんきのない場所なのだ。いかにも死後っぽい。明るい死後だからいいのだが。

 昼前には神殿で数字のはっぴょうかいがあって、年端もゆかない、幼い少年少女が、帽子をかむって縦横にならんで、研究のはっぴょうをする。私はそれを見にゆきたい。神殿は、白くておそろしいほどあかるくて、私にはそれほど似合わない。それを押してでも、いちどはっぴょうかいは見てみたいとおもっていた。

 ここには、この世界には。

 さまざまな部屋がある。それらは、蜜柑の色や、

 蝉の音、——ヒューィ、ヒューィ、としゃくり上げるように。それとじれったい空気に包まれる。こぽこぽと、気泡がうかんで、空へ消えてゆく。公園のすみにおかれた鯉のぼりの残骸などは、もうすっかりへたっていた。

 雪の国、——ここほど楽しい場所はないかもしれない(少なくとも私は、ここほど楽しい場所をほかに見ていない)分厚い手袋。毛のついたフード帽。琥珀色のお酒。私はお酒はのまないが、ここで甘いお茶をのんだ。熱々の甘いお茶。それと空気がそばからこおってしまう、凍てつく風。シューシューなって耳のよこをとおる。その他もろもろ。

 それから南の風、

 好きなのは、電子映像——近未来ブース。これは未来からとってきたらしいのだが、二十世紀育ちの私は、嫌でもわくわくする。それと、ノスタルジィの昭和の庭の素晴らしい。私は、博覧強記な叔母より聞いた板の話を想い出す。板をもっていたせいで、村八分にされた先祖の話。怖くて怖くて、私は、川を浮べた扉にのってひっしに泳ぐ男の映像だけ記憶して、それいがいの事——ストーリーなど——はちっとも想い出せないのだが。

 万葉集はおもしろい。

 この世界のことは、「ことば」をつかってあらわせる。そのことに、彼らは驚いているのだ。そして、喜んでいるのだ。「ことば」は輪郭のない家である。すぐに液体の如く崩れてしまって、そしてまた構築される。その時にはちがう雰囲気を纏う。けれど、魂だけは、かわらず中心で輝いている。

 もうそろそろはっぴょうかいだろうか。

 小鳥が小枝をくわえて、飛ぶ。

 私は扉をぬけて。

 路をあるいた。

 少年少女のことが気がかりな私は、建物をぐるりとまわりこんで、舞台裏の倉庫をみにいく。私がこれほどこのはっぴょうかいが気になるりゆう。そのりゆうは、とある少女と『約束』をしていたからだ。

 その『約束』は秘密である。

 ——『秘密にする』というのも、『約束』のうちのひとつ。

 からり、と音をたてて、ドアノブを回して、くいい、とならして、ドアをあけた。

 なかは、てんやわんや、といえよう。

 ある男の子が、四人の女の子に囲まれて、なにやら言いたてられていたし、ある女の子は必死に化粧をしていたし、なかでも幼いある男の子は、嫌がって嫌がって、窓枠の木の匂いに噛みついて、おばさんがひっぱっても離れなかった。

 私は目当ての少女と目があう。少女がこっちまでうれしそうに来てくれた。

「がんばってね」

「はい! がんばります」

 はっぴょうかいは、大成功、だったと思う。

 正直にいうと、私には難しすぎて、なんのことやらさっぱりだった。

 私は買ったばかりのあたたかいクッキーを少女に渡して、さよならをした。「昼の終わりに」甘く痺れるレモンティーでも、一杯のみたいものだ。このまままっすぐいくと、水色の町があって、淡いひさしのしたお店があって、そのなかにカフェだってあるだろう(私はその町並みをみたことありさえすれいったことはない)。

 果たしてあった。

 甘く痺れるレモンティーを口にながす。口にはいると、じつにほのやかに広がった、香りが。口が一気に午後になる、香りによって。

 空砲がなったらしい。テーブルの上の、砂時計がかたかたゆれた。音までは届いてこない。私はこの店をでたら、次は、田舎の風景でも経験しにゆきたい。

 未完成の交響曲が鳴り響く。ほんかくてきに午後の時間のはじまりである。

 まず、《電車》に【乗る】ことにした。

 《電車》は木の駅で待ってるとやってくる。私は:初めて【乗る】訳ではなく、もう何度も乗ったが、その度に:心が:入れ替わってしまうような、そんな気分がするのである。

 駅も古けりゃ、電車も古い。

 技術、という感じ。文明、という感じかもしれない。あるいは、石炭(それは違う)。

 赤いシートで覆われた、ぺったんこになった綿のうえをすわる。少ない土のうえに奇跡的に育ったひょろひょろの植物になった気分。窓を押しあげて、風をいれる。木の窓枠に肘をつく。すぐに到着、ゆっくりできないのが玉に瑕、挙げろといわれてすぐに挙げる難点である。

 田んぼが広々とよこたわる。その景色を見下ろして、山から一足ひとあし降りてゆく。空気中に、透明の糸がうかんでる。風にふうわりふわりとただよう。おもしろい。

 山のちょうじょうから吹き下ろす風がある。

 強烈な嵐の前触れのような風が一閃。いかにもげんきな勢いのある風に、硬い葉っぱがじゃんじゃんじゃらじゃら、じゃんじゃんじゃらじゃら。

 もう麓のところまでやってきた。案外すぐとたどり着くのか。ありがたや、ありがたや。

 坂になった地面に生えた草が水みたいにぴかぴか光っていた。風が吹くとみんなきらきら顔をふった。遠い処に目をよせて、頭のおくがしいんとするくらい見つめる。

 ゆるやかに曲がる路は小川と合流する……琴のような音のなる波……耳を澄ますと、綺麗に聞こえる。

 茅葺きの、大きな家にとうちゃく。茶色と薄茶色と白色。背景は、水色の空。風の音とは、こういう音なのだ。久しぶりにきがついた。

 また、空気中に、透明の糸が浮かんでる……。

 ふと指先を繊細にして、糸の正体をつまんでみる。

 親指と、人差し指。(指世界の双頭をなす大御所)

 糸の中心を掴むと、そのままゆっくりゆっくりひっぱってみた。……やや。

 ……やや。意外に重い。

 たぐり寄せる糸……銅の重み。これが、空気の重み。

 私はそういえば、今日の午後は演劇を観に行こうと予定していたのだ。忘れていた。

 ……『実際的美学の方法論』……とか、『石化する現代』……や、『よき光を求めて』など。

 ——死後のみんなは生に憧れて、そんなせかせかしいものを見たがる。心に余裕のない主人公が大好きである。そして、我々は、なにも考えないのである。

 もうすっかり、そういうものを観たい心ではない。不思議だ。そんなにかんたんに心が動くのならば、そんなものはもうとっくにどこかへ行ってしまっていそうなものだ。それなのに、いま以て、まだ、ここにある。はてな、あるのであろうか。

 私はお婆にあがらせてもらい、今夜はここに泊まる事にした。

 裏手にあるお風呂に入りたい

 そういうと、お婆はすぐさま用意してくれた。

〈とぽん〉

 足からぐわあっと温度が流れ込む。

〈ぴちゃぴちゃ〉

 肌が開く。次々に早送りのように花が咲いてゆく。痒くてならぬ。

〈ら〉

 私は夕陽のしたでお湯に浸かる。

 今日は特別たくさんの事をした。

 あんまりに疲れた体には、……湯がかぶりつく、……湯が通り過ぎる、……心臓まで洗濯してしまうのだ。

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