雨の日の車

 その日は雨だった。

 玄関の扉を開くと同時に耳障りな音が聞こえる。

 既に家の前の道路は水浸し。

 あちこちに水溜りがあった。

 風もそこそこ強く、横殴りの雨が体に吹き付け、生地の薄い夏服は一瞬で変色する。


「雨、か……」


 そう言えばあの日も雨だった。

 玲音が学校に来た日。

 確かあの時も凄い大雨だった気がする。


 あれからもう一ヶ月以上の時が過ぎた。

 だが、まるで一瞬のような一ヶ月だった。


 一瞬で目を奪われる程の美人と付き合うことになって。

 喧嘩別れした親が帰ってきて。

 かつて好きだった幼馴染みと再開して。

 そして何故か元親友と険悪な雰囲気になっていて。


 目が回るような日々だった。



「何してんの? 濡れるよ?」


 玄関から出てきた梓にそう言われて現実に戻る。

 自分の服を見返すとびしょ濡れだった。


「凄い雨」

「本当な」

「そんな格好で行ったら風邪ひくよ?」

「心配してくれるのか?」

「うつされたら嫌なの」


 相変わらず一言余計だが、梓は心なしかいつもより優しい顔で俺を見つめる。


「なんか、変なの」

「はぁ?」


 優しい台詞でもあるのかと思ったら、なんだよ。

 しかし、梓は扉の内に半身を隠して雨から身を庇いながら言う。


「今日は珍しく目が生きてる」

「おい。俺はまだ高校生だぞ? 夢と希望に満ち溢れた少年なんだぞ? 当たり前だろ」

「うーん、キモい」


 梓はそう言うと、何やらバッグからタオルを取り出すと俺に渡してきた。


「これ、貸してあげる」

「え、なんで」


 いつも悪態しかつかないこの妹が、俺にタオルだと……?

 どうなってるんだこの世界は。

 今日は雪でも降るかもしれない。まだ7月だが。


 俺がそんな事を思っていると、梓は俺の問いに答えることもなく、何やら駐車スペースに停まっている見覚えのない車に向かっていった。

 外車だ。

 それも高そうなヤツ。

 何となく見当がついた俺は、車の運転手に目をやる。

 すると案の定の人が雨の中だと言うのに、爽やかな笑みで降りてきた。


「やぁ依織くん。君も乗せて行こうか?」


 青波晶馬さんは今日もかっこよかった。



 ---



「どうして今日に限って梓ちゃんを送ったのか? とでも聞きたそうだね」

「……はい」


 相変わらず心を読んでくる晶馬さんに、いい加減俺も慣れてきた。

 流石に突っ込むのももういいだろう。


 取り敢えず梓を女子校に送り、コンビニエンスストアの駐車場で何故か車を停めた晶馬さん。

 俺が怪訝に思っていると晶馬さんは口を開いた。


「今日は少し話があってね。時間はいいかな?」

「まぁ」


 現在時刻は七字三十五分。

 後二十分以内に登校すればいい。

 すると晶馬さんは運転席から後部座席に座った俺にグッと身を乗り出してくる。

 そしていつにも増して真面目な顔で言った。


「大丈夫なのかな?」

「……えーっと?」

「君、無理してないかい? 玲音に言われたまま、今日伏山くんと話をつけるそうじゃないか」

「……」


 玲音が話したのだろうか。

 それともお得意の推測なのだろうか。

 まぁこの際どちらでもいいだろう。

 俺は晶馬さんの瞳を真っ直ぐ見て、そして笑った。


「大丈夫ですよ。俺が決めた事です」

「自分に嘘ついてないかい?」

「……」


 確かめるように、俺の本心を覗き見るように聞いてくる晶馬さんに俺は黙る。


「例の彼はまた殴ってくるかもしれないよ」

「……富川ですか」

「屋上で君をそんなにした彼だよ」


 つい三日前のことを思い出す。

 頭に血が上って手がつけられなくなった富川。

 ボコボコに殴られて、かなり痛かったし怖かった。

 自分の頬を今一度触る。

 未だに痺れるような痛みもあるし、口の中も切れて痛い。


「次はもっと酷いかもしれない」


 晶馬さんはそう言うと、寂しい笑みを浮かべる。


「無理してまで玲音と付き合わなくてもいいんだ。君が限界を感じるなら別れるのも手だと思う。実際、今回の件は僕は反対だからね。

 そもそも仲直りする必要があるのかい? お互いもう違うグループの人間だろう。

 わざわざ現在の人間関係を拗らせてまで過去の関係に拘る必要性なんてどこにある?

 確かに僕としては玲音と仲良くやってくれているのは嬉しいし微笑ましい。

 だが、だからと言って君が傷つくのは違うと思う」


 真剣そのものの晶馬さんに俺は昨日の玲音を思い出す。

 屋上で、真面目な話をしてくれた玲音のことを。

 すると、急に頰が緩んだ。


「なんで笑ってるのかな?」


 不思議そうな顔をする晶馬さんに俺はニヤけたままの顔で言った。


「本当、兄妹だなって思っただけですよ。調子狂っちゃいます」

「えっと?」

「もっと明るいテンションでお願いしますよ。俺、玲音にも晶馬さんにもそんな暗いテンション見せて欲しくないですから。もっと明るく、馬鹿っぽい振る舞いの方が好きです」


 俺は大きく息を吸う。

 締め切った車内の少し淀んだ、芳香剤のいい香りのする空気。


「俺、玲音のこと好きなんです」

「は? えっと、急に何かな? 僕に結婚の申し出でもする気かな?」


 珍しく戸惑った様子の晶馬さんに俺は笑いかける。


「違いますよ。ただ、ようやく理解したんです」


 俺は確信を持って言った。


「俺は玲音と同じ考えです。このまま逃げてても何も変わらないし、始まらないから」


 俺は、努力が苦手だった。

 前にも言った通り、人間としてどうかと思うが根本的に苦労をするのが本当に嫌いだった。

 勉強にしろ、なんにしろ。

 対人関係、親子関係……人との関わり方に関してもそうだ。

 考えたり、悩んだりするのも苦手だった。

 そして、そんな俺自身のことも苦手だった。


 だが少なくとも今はちょっと違う。

 いや、実感はないが違うのだと思う。

 何故なら俺には、俺も知らないような俺のことを教えてくれる人がいるから。

 そしてその人が言ったんだ。

 俺には勇気があると。


「そうか、わかった」


 特に何を言ったわけでもなかったが、晶馬さんがうなづく。

 どうやら俺の意志は伝わったようだ。


「それじゃあ、今日一日頑張って」

「はい!」


 俺はそう言うと、車のドアを開く。


「じゃあ、行ってきます」

「送るよ?」

「いや、自分で行きます」


 雨は相変わらずだ。

 でも、なんだか嫌な気分はしなかった。

 雨に濡れることに不快感を感じない。

 むしろ爽快感すら感じる。

 すると晶馬さんはフッと笑った。

 そして、


「僕の玲音はまだまだ渡せないな」


 一言、そう言った。

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