第32話 十字架を背負う者


「……くだらんな、実にくだらない! 何がミラだ! 守るべき国だ!」


 グレンは叫びと共に抜刀した。


「何かの庇護に寄り掛かり、自覚もないまま酔い痴れる。その安寧がどれだけの犠牲の上に成り立っているのかを気にも留めぬまま、当たり前のように生き延びる。これぞ愚鈍の極みというものだ。

 ああ、そうとも、それはも同様だ。オマエは、ただの一度でも、己が斬り捨ててきた者たちをかえりみたことがあるのかクルースニク!」


 それは問いではなく糾弾だった。張り上げた激情のままに、黒衣の大騎士は剣を振りかざす。

 彼は剣礼などしない。

 決闘の口上など吐かない。

 この国で最も偉大なる騎士は、騎士道など知ったことかとばかりに、眼前の悪魔に斬り掛かった。


 剣刃が打ち合い、火花を散らす。至近に睨み合う深紅と琥珀。


「騎士は守りし者。ならばアガト、オマエは何を守ってきた!? それは、オマエが守りたかったものなのか? 斬り捨ててきた全てに見合う価値があったのかッ!?」


 鍔迫り合いはすぐに弾け、刃は交錯し、切り返した斬光が立て続けに閃き走る。


 騎士は守りし者。


 だから、この国を守りたいのだと、あの日、蒼天の下で少年は笑った。

 その笑顔がまぶしくて、その騎士道が輝かしくて、だからアガトは少年の手を取った。


 共に騎士として、ミラを守ろうと約束した。


 あの時、アガトが差し伸べられた手を取ったのは、ただの成り行きだったのだと言われば、そうなのかもしれない。

 まぶしかった……輝かしく見えた……そんな雰囲気に流されただけのことなのかもしれない。


 それでも、その時から何かが変わったのだ。


 それまではうつろに繰り返してきた〝お役目〟が、その日から確かに変わったのだ。守れと言われたから守り続けていたものが、もっと輝かしい何かに変わった気がしたのだ。


 あの澄み渡る蒼い空の下で、晴れやかに笑った少年が夢見たものを、アガトも追いかけたいと思った。共に目指したいと願ったのだ。


「グレン、オマエは……!」

「どうしたクルースニク! 裏切り者ひとり薙ぎ払えずに、何を守れるものかよォッ!」


 激情に濁った声。

 いつも冷静に厳格に律されていたグレンの声音とは思えない。

 何がそんなに腹立たしいのか?

 何がそんなに気に入らないのか?

 いったい何が、そんなにも赦し難いのか?


 わからない。アガトにはわからない。


 けれど、何がそんなに悲しいのかだけは、承知していた。


 二十年前のあの日、マゼンタの骸を前に泣き叫んでいたグレンの姿を、アガトは憶えている。

 父の死。愛する家族の死。

 例えミラに仇為す害悪であっても、愛する者にとっては堪え難い凶事である。だから、それを悲しむのは道理なのだ。


「……グレン、オマエは、あの時のことを……あの時、オレがマゼンタを斬り捨てたことが、今でもずっと……!」


 ビキリと、グレンの頬が引き攣った。


「何を言っている? さすがだな英雄殿、勘違いもはなはだしく、履き違えるにも度が過ぎるぞ。……だが、そうだな、確かにあの時のことは忘れ難い。今でも思い返すだに後悔する。なぜ、私はあの時、自分の手であの外道を斬り捨てなかったのかとなぁッ!」


 憤怒を乗せた斬撃!

 受け止めたアガトは、その気迫に圧されるように吹き飛んだ。

 背後の壁面、這い巡る根に叩きつけられたところに、グレンが大上段から斬り込んでくる。


 重い斬撃、崩れた体勢では剣で受けるのは無理だ。


 そう刹那に判じたアガトの左手がひるがえり、一瞬で納刀。流れるように振り上げられた盾が、迫る白刃を斜めに打ち払った。


 大きく仰け反って体勢を崩したグレン。そのガラ空きの腹部に、返した盾の一撃が直撃する。


 今度はグレンが後ろに吹き飛んだ。

 血反吐をまき散らしながら床に這いつくばった大騎士は、それでも強い敵意に満ち満ちた眼光でアガトを睨み上げてきた。


「マゼンタ・ルゥ・ブランシェネージュ……我が父にして、国防の長たる騎士団長。さにありながら、ミラを裏切った見下げ果てた外道よ。ああ、ああ! 私は、あの男の何を見ていたのだ……私は、あんな外道を父と仰ぎ、騎士の鑑と憧れた! 父のように輝かしく正しい騎士になりたいと願っていた。ずっと、ずっと、そう願い続けて騎士道を駆けてきたのだ!」


 だが、マゼンタは騎士にあるまじき外道だった。

 ならば、外道の血を引き、外道に憧れ、外道に倣い続けてきたグレンの騎士道は?


 誇るべきその胸の輝きは、穢れて堕ちた。


 それでもグレンはこの国を守り続けた。

 守りし者として、守り続けようとした。

 だが、守ろうと奔走するほどに、グレンは思い知ってきたのだろう。この国がうたう平和のうつろさを、今にもゆらぎ崩れ落ちそうな砂上の平穏を、痛感し続けてきたのだろう。


 グレンはゆるせなくなった。


 自覚なき者たちを、戦わぬ者たちを、赦せなくなった。

 赦せなくて、守りたいと思えなくなって、そうして、あの外道の父と同様になっていく自分が、何よりも赦せなくなったのだ。


 正しく騎士であろうとするほどに、グレンの誠は外道に堕ちていく。


「この狂気の沙汰、心を持たぬオマエには、決して理解できまいなクルースニク! 千年前にオマエを選んだ者が何者であれ、よう心得ていたようだ。人の心を持つ者に、守護者など務まるわけがない……!」


 それを為せるのは、あらゆる犠牲にも苦痛にも決してゆるぎない。心なき虚ろな悪魔だけなのだと、グレンは吼えた。


「もういい! もう知らん! 私はもう何も守りたくない! この国も、騎士道も、クソ食らえだ!

 こんなくだらないものを千年も背負い続けてきたオマエもだ! いかなる困難にも怯まず、どんな理不尽にもゆるがず、平然と剣を振るい、災厄を薙ぎ払う英雄殿よ!

 私は……私はなぁ、そんなオマエがぁ、ずぅっと気に入らなかったのだよぉ、アガト!!」


 グレンが張り上げた叫び。

 内に抱いた何かを引き裂いて上げられた叫び。

 曇りない琥珀の瞳がアガトを睨みつけ、怒号のままに剣を振り上げる。


 鋭くも野太い轟音が、空気を引き裂いて響いた。

 アガトの投げ放った黒鉄の盾が、グレンの剣を打ち砕いていた。


 木っ端に飛び散る剣刃の破片が、綺羅星の如く舞い落ちる。


 その煌めきを真っ直ぐに貫いた刺突の流星。


 身体ごと飛び込んだアガトの剣が、その切っ先が、グレンの胸をひと息に穿うがち貫いた。

 至近に交錯する二色の眼光。

 そのまま、ふたりは折り重なって床に倒れ込んだ。


「ぐ……ッガ……ふぐぅ……ぅぷッ!」


 グレンの口から血塊があふれ出る。

 白銀の刀身が胸を貫き、床まで突き立っていた。その黒い柄を、アガトは力み震える手で握り締めたまま。


「グレン……」


 何かを堪えるようにゆっくりと、悪魔の仮面が呼び掛ける。


「オレは……オレはあんたに初めて会った時の、あの蒼い空を忘れない」


 雲ひとつなく晴れ渡る、どこまでも広いあの蒼天の色彩を、アガトはずっと憶えている。

 あの蒼空の下で交わした約束を、ずっと追いかけてきたのだ。


「……くだらんな……晴れていようが……曇っていようが……空は、空だ……」


 心底からくだらないと、どうでも良いことだと、血泡と共に吐き捨てて、グレンは息絶えた。

 両眼を見開き、歯を食い縛り、激しく引き攣った形相。

 それはかつての日、晴れやかに輝いていた笑顔からは掛け離れた、憤怒と辛苦に歪み果てた苦悶の死に顔。


 そうか……と、アガトは思った。


 二十年前にグレンが抱いた絶望は、こういう感覚だったのかと、今さらになって理解した。


「……つ……つるぎの……ぶれ…………ぃ……いざ……ァ……」


 なお今さらに告げた決闘の口上。

 それは本当に今さらで、だからだろうか? 声音はかすれて濁り、上手く言葉になってくれなかった。


 アガトは吐息を震わせ、立ち上がる。

 ズルリと引き抜いた剣を血払いし、鞘に収めた。


 黒棺の方を見やる。

 そこに座した黒髪の少女。

 こちらを見つめてくる蒼い瞳は綺麗で、美しくて、いつまでも見つめていたい蒼天の色。


 だけど、その瞳は、アガトを映すと曇ってしまうから────。


 だからアガトは顔を伏せ、できるだけ彼女と眼を合わせないように心掛けながら、近づいて拘束を解いた。


「……怪我は、ない?」

「ええ、幸いにも」

「そうか……」


 それは良かったと、アガトは安堵した。


「怪我がないなら、良かった……」


 本当に────。


「良かったよ……」


 そう頷いて、後は、一刻も早くこの場を去らねばと思った。


 アガトは、ユラのそばに居てはいけない。


 ミラに仇為す者を、黒い太陽は赦さない。

 存在することに赦しが必要であるならば、アガトはユラにとって、間違いなく赦し難き者だ。


 だからきびすを返し、外に向かって足を踏み出した。

 早く立ち去るために駆け出そうとしたのに、なぜだか、上手く足に力が入らなかった。


(……何だろう……?)


 あれしきの戦闘でそんなに消耗したのだろうか?

 それとも昨日からの蓄積か? あるいはやはり根本的に、アガトという存在自体が疲弊ひへいしているのか?


 そろそろ、アガトはどこかそこらでうずくまり、そのまま動かず死に絶えるのだろうか?


(だったら最後は、ユラさんに殺されるのはどうだろう……)


 憎い相手を殺せるのなら、少しは彼女の気も晴れるのではないか?


(……いやダメだ。やっぱりダメだな……)


 だってアガトは今、殺されたいと望んでいる。彼女に殺して欲しいと思っている。憎い相手の望みを叶えてやるなんて、それこそ業腹だろう。


 霊廟を出る。

 まばゆい陽光に眼がくらんだ。

 見上げれば、晴れ渡る蒼い空が広がっていた。

 雲ひとつない蒼天。あの日に見上げたのと同じくらい、どこまでも澄み渡る空の蒼色が、視界を染め上げていた。


 それは、アガトが大好きなはずの蒼なのに────。


「……ハハ……あぁ……なるほどなあ……ハハハ……」


 笑いが込み上げた。もう、笑うしかなかった。

 楽しくなんかない。嬉しくなんかない。

 心がないカラッぽの悪魔が、そんな感情に駆られるわけがない。それなのに、笑いが込み上げてきて抑えられない。


「……ハハハ……フッ……アハハハ! アハハハハハハッ!」


 笑う、笑う、とにかく笑わずにはいられない。

 楽しくないのに笑う。

 嬉しくないのに笑う。

 ユラの言う通りだった。そんなこともあるのだなと思った。なら、今のこの感覚が、苦しいという感覚なのだろうか?


 だが、アガトは何で自分が苦しんでいるのかがわからなかった。

 何か苦しいことがあっただろうか?

 ああ、そうか……と頷いた。

 斬られた腕が痛いのだと思った。そうに違いないと思った。


「アガトさん」


 ユラの声。

 背後から聞こえたそれに、アガトは思わず振り向いてしまった。

 振り向くつもりなんかなかったのに、振り向いてしまった。だって呼び掛けてきたその声が、あまりにも優しかったから。


 アガトを見上げてくる蒼い瞳。

 広がる空よりも、ずっとずっと綺麗に澄んだ瞳。真っ直ぐに見つめてくれる彼女は、でも、微笑んではいなかった。

 冷ややかに引き結ばれた表情で、ゆるりと両手を差し伸ばしてきた。


 思わず身を退こうとしたアガトだが────。


「逃げないでください。それでも騎士ですか?」


 鋭い叱責に硬直する。

 その間にも、ユラのしなやかな双手がアガトの顔を、顔を覆う白い仮面をそっと左右から挟んで、取り外してしまった。


 あらわになったアガトの顔。

 しばし、見上げていたユラは、小首を傾け微笑んだ。


「何だ。心、ちゃんとあるじゃないですか」


「え……?」


「何を呆けているんです? あなた、泣いていますよ。悪魔のクセに、子供のように、くしゃくしゃに泣いちゃってます」


 アガトが、泣いている?

 そう指摘されて初めて、アガトは自分の頬を濡らす涙に気がついた。

 泣いている。確かに、今、アガトは涙を流して泣いている。


「ねえ、わかったでしょう? 死は恐ろしいんです。死は苦しいんです。辛くて、痛くて、耐え難いものなんです。その罪悪を、あなたはようやく思い知ってくれた……」


「……ぁ……ぁ……」


 ガクリと、アガトの膝から力が抜けた。

 なぜだかわからない。わからないが、立っていることができなかった。そのまま前のめりに崩れ落ちそうになった彼を、ふわりと温もりが受け止めた。


 ユラが、アガトを抱き留めてくれていた。


「ダメですよ、アガトさん。ここで倒れてはダメです。あなたは、もっと苦しまなくてはいけません。今日、殺してしまったあの人の分だけじゃダメです。あなたはこれまで、もっと多くを殺してきたでしょう? その人たちの分も、苦しまなければいけません」


 優しい声音が、幼子をあやす母のように穏やかに、断罪を告げる。


「心を持ったあなたは、苦しむんです。そして、これからもあなたは殺すんです。ミラに仇為す者を殺し続けるんです。悲しくなったから途中でやめるなんて赦しません。あなたは、わたしの宝物を斬り捨てて、この国を守ったんです。それを途中で放り出されたら、わたしの兄は無駄死にです。そんなのは、絶対に赦しません」


 柔らかに甘やかに、耳元に囁き掛けてくるユラの声。

 殺意を促してくる彼女は、それなのにどこまでも、どこまでも優しくアガトを抱き締め、包み込んでくれる。


「泣いてもいいです。叫んでもいいです。でも、狂うのは赦さない。あなたは正気を抱いて、犯した罪を背負い続けるんです。どんなに苦しくても、どんなに辛くても、わたしがずっとそばにいます。あなたに寄り添い見ています。あなたの心が、いつまでも正しく罪に苦しみ続けられるように、わたしが、決してあなたを狂わせはしない」


 ユラの手がアガトの頬に触れる。

 先ほど仮面にそうしたように、両の手でそっと挟み込んで上向けてくる。間近に見下ろしてくるユラの微笑み。


 澄み渡る蒼い瞳が、真っ直ぐにアガトを見つめて────。


「アガト・ルゥ・ヴェスパーダ……わたしは、あなたを憎みます。誰よりも深く、強く、あなただけを憎み続けます。何があっても、絶対に赦すものですか」


 憎しみを告げる蒼い瞳が、ドス黒い濁りにゆらいだ。


(……ああ、やっぱりキミは、嘘つきだ……)


 アガトの指摘は、彼女の唇にやわくふさがれて、言葉にすることは叶わなかった。



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