DRAGON・KNIGHT 双極の剣

宮 仲太

序章・災厄の鐘

 晩夏にそよぐ冴えた夜風が、長い銀糸の髪を静かに揺らした。清かな月影が、すらりと背の高い青年の輪郭を、宵闇に優しく描き出している。


 長躯に羽織った純白の長外套の翻るさまは、夜空を馳せる鉾星を映したかのようだった。澄み渡る夜の帳の中に、青年の孤影が、光の尾のように軌跡を刻んでいく。


 彼方から響く教会の鐘の音は、名残惜しげに、日の終わりを告げていた。





 城の外へと続く長い回廊を下り、竜騎士長セイン・クロスは、ひとり夜の哨戒へと向かっていた。


 哨戒と言っても、半ば散歩のようなものである。世界を巻き込んだ大戦から、十八年の歳月を経た今、ここハーネスト王国は、平和の裡にまどろんでいた。


 城下では、今頃、人々がありふれた日常を終え、安らぎの時を迎えている頃だろうか。


 セインは、幸せに満ちた人々の暮らしに想いを馳せながら、静かな回廊に、跫音を響かせた。


 この先を曲がれば、あとは真っ直ぐ下るだけだ。


 セインは、和やかな幻想を抱いたまま、角を曲がろうと、身体を傾けた。


「……けよ。……朽ちる、……に。」


 ふと、風の音に混ざる微かな人の声に気付き、セインはぴたりと足を止めた。


 角の向こうに、誰かいるのだろうか。


 セインは、反射的に、腰に佩いた剣に手を伸ばした。


 ここに、誰かがいるなんてことは、そうあることではない。


 セインは身構えたまま、気取られぬよう、じっと、何者かの声に耳を澄ました。


「……軛を……、銀……。……沈むは、黒の……。」


 この角の向こうから、それはたしかに響いてくる。しかし、その声は吹き抜ける風の音に紛れて、上手く聞き取れなかった。


「そこに、誰かいるのですか?」


 セインは、警戒を解かぬまま、平静そのものの声で、何者かに問いかけた。


 しかし、誰何の声に、応じるものはない。ただ、繰言のように何事かを囁く人の声だけが、静謐を、不気味に揺らし続けている。


 セインは、剣の柄に手を添えたまま、そろりと角を曲がった。


「……駆けよ、駆けよ、疾く駆けよ。刃が朽ちる、その前に……。」


 声の主と思しき人影は、ぶつぶつと何かを口ずさみながら、暗がりにじっとうずくまっていた。月の光に照らされて、白いローブが、どこか幽世のもののように、ぼんやりと浮かび上がって見える。


 目深に下ろされたフードに隠れて、その顔を、伺い見ることは出来ない。わずかに覗く肌は抜けるように白く、年若いようにも、老人のようにも感じられた。


「軛を解くは、銀の指。澱みに沈むは、黒の鍵……。」


 不可解な客人は、セインに目もくれず、機械仕掛けの人形のように、同じ言葉を繰り返した。


「……駆けよ、駆けよ、疾く駆けよ。刃が朽ちる、その前に。軛を解くは、銀の指。澱みに沈むは、黒の鍵。駆けよ、駆けよ、疾く駆けよ……。」


 呪文のように紡がれるざらついた声は、蝕むようにゆっくりとセインの思考をかき乱していく。


 セインは、誘われるように、一歩、足を踏み出した。


 その動きに呼応するように、不可解な客人は、朽木のような腕を擡げた。


「……門は今、開かれる。」


 しゃがれた残響を残して、人影は、吹き消された蝋燭の火のように、ふっと姿をくらませた。


「あの人はいったい……。」


 ひとり取り残されたセインは、茫然と、あたりを見回した。


 どんなに目を凝らしても、その人の痕跡は、なにひとつ残ってはいない。まるで、最初から、存在しなかったかのようでさえある。


 なにかが、起きようとしているのだろうか。


 まるで啓示のような奇妙な言葉の螺旋が、セインの胸に、ぽつりと暗い影を落とす。まるでインクの染みが広がるように、じわじわと、内奥が不吉な予感に塗りつぶされていった。


 ――駆けよ、駆けよ、疾く駆けよ。


 耳に残る声に気圧されるように、セインは堪らず駆け出した。


 闇の中を転がるように、セインは、ただ、ひたすらに駆けた。


 一つに束ねた銀髪が、暗がりに放物線を描く。


 息は上がり、体中の血が沸騰するような痛みにさえ構わず、セインは、こみ上げる不安を踏み砕くように、城下の門までひた走った。


 走って、走って、走って、長く続いた回廊を抜けてもなお、セインは足を止めなかった。


 息を吐く間もなく、セインは、城門を勢いのままに押し開けた。





 開かれた門の先は、幼い日に見た地獄に繋がっていた。


 静かなはずのノルヴァニールの街は、人々の呻きと叫びで満ちていた。


 まるで天地がひっくり返ったかのように、住人たちは、他者を押しのけ、我先にと逃げ惑っている。息絶えた人群は踏みにじられ、ひしゃげるような湿った異音が、無念の声のように響いていた。


 慣れ親しんだ家並みは燃え上がり、黒煙が、喉を締め上げる。ひび割れた石畳には、深い血だまりが広がっていた。


 むせ返るような死の馨りが、嘲笑うかのごとく、セインの鼻先に惨状を突きつける。


「あ、ああ……。」


 セインは、声にならない叫びをあげると、力なくその場に頽れた。


 竜騎士となって尚、自分は、誰も救えなかった。


 吐き気を催すほどの無力感に、セインは地面に拳を叩きつけた。そのたびに跳ねあがる血が、セインの白手袋を、べっとりと赤く染め上げる。


 打ちひしがれたセインを嘲るように、一条の影が、セインの上に覆いかぶさった。

 にわかに落ちた影に、セインは弾かれたように顔を上げた。


 背の高い黒衣の男が、じっと、セインを見下ろしていた。


 その顔は、闇に紛れて分からない。それなのに、無言の視線は、セインを責めさいなむかのようだった。


 ――心臓の音が、やけにうるさい。


 セインは、魅入られるように、闇の奥にある、彼の瞳を探した。


 深い闇が、悲鳴が、纏わりつく死の馨りが、くらくらと回って、セインの努力を無に帰す。やがて、常闇の底に、セインの意識は溶けていった。




 冥暗に、強い光が射した。水底から引き上げられるように、識閾下から急浮上する。


 セインは、脅かされた猫のように勢いよく跳ね起きた。


 どくどくと脈打つ鼓動が、褪めやらぬ頭の奥に響き渡る。現実を確かめるように、セインは、おそるおそる辺りを見回した。


 小鳥のさえずりが、穏やかな朝の訪いを告げる。カーテンの隙間から降り注ぐ清らかな光に照らし出されているのは、慣れ親しんだ自分の居室だった。


 机の上に積まれた読みかけの本も、お気に入りの安楽椅子も、きちんと壁に掛けられた士官服も、いつもとなにひとつ変わらない。


 そこに、先程まで見ていたはずの惨劇の影は、微塵も感じられなかった。


 セインは、塞き上げる嗚咽を堪えながら、ゆっくりとベッドから這い出した。


 悪夢の欠片を漱ぐように、洗面器に汲み置いた水で荒っぽく顔を洗うと、セインは、問いかけるように、鏡の中の己を見た。


「あれは、ただの夢です。……なんの意味もない、ただの悪い夢です。」


 鏡像の自分は、薄紫の瞳に不安の色を滲ませている。


「あんなこと、起こりようがないじゃないですか。」


 セインは、自分に言い聞かせるように、低く呟いた。


 戦乱の時代は、もう終わったのだ。人々は平安を勝ち取り、穏やかな暮らしを謳歌している。悪夢の中で覗いた惨劇など、とうに過ぎ去ったはずだ。


 セインは、己を説き伏せるように、何度も何度も否定を繰り返した。


 それでも尚、吐き気を催すほどに、心臓は、早鐘を打つのをやめてはくれない。


 響く悲鳴が、腥風が、常闇の目が、啓示めいた言葉と混じり合って、掬いきれない澱のように、セインの胸に拭えぬ染みを残していった。





 燦々と注ぐ柔らかな朝日が、一日の始まりを清々しく照らしている。城内の大食堂は、食欲をそそる馨りが満ちていた。


「陛下、おはようございます。」


「うむ、おはよう。」


 すでに食卓に着いている群臣たちと挨拶を交わしながら、城の主は悠然と歩を進める。


 朝臣たちとの交流のために、こうして朝食を共にするのが、ハーネスト国王レオンⅦ世の日課となっていた。


「あー、腹減った。今日も美味そうな匂いがするなあ、レオン?」


 隣を歩く友は、人並み外れた巨躯を揺すりながら、豪快な腹の虫を披露する。


「まったく、朝から元気なことよな、リクター。」


 レオンは、頭一つ上にある友の顔を見上げると、朗らかな笑い声を上げた。


 リクター・アゲンストとは、幼少期よりの付き合いである。年を重ね、王と騎士長という主従関係になっても、彼のレオンへの態度は、なにひとつ変わらない。


「どこか空いてる席あるか?」


「そうさな……。」


 リクターの問いに、レオンは改めて大食堂を見渡した。


 いつもよりすこし遅い時間にやって来たせいもあってか、席のほとんどは、和気あいあいと食事を楽しむ群臣たちであふれている。


 そんな中、隅の方に、一角だけ空席の多いテーブルがあった。六人掛けのテーブルであるのに、その席に着いているのは、たったひとりだった。


 遠目にも目立つ長い銀髪をひとつに束ねた青年は、周囲の賑々しさに反するように、静かに紅茶を啜っている。


 レオンは、あえて人を避けているようにさえ見える青年に、つかつかと歩み寄った。


「おはよう、セイン。」


「おはようございます、陛下、リクター殿。」


 レオンが声を掛けると、セインは立ち上がり、深々と頭を垂れた。


「ここの席は、空いておるか?」


「はい。宜しければ、どうぞお掛け下さい。」


 セインは、音も立てずに椅子を引くと、優美な所作で席を勧めた。


 レオンは、笑みで答えると、招かれるままに腰を下ろした。


 リクターも、待ちきれないと言わんばかりに、どっかりと巨躯を下ろす。人並み外れた巨体に耐えきれず、椅子が、ぎしりと悲鳴を上げた。


 二人が席に着いたのを見届けてから、礼儀正しい青年は、静かに長躯を椅子に委ねた。


「お、今日の飯も美味そうだな。」


 リクターは、翠眼を少年のように輝かせると、机に並んだ料理を、手元の皿に次から次へと取り上げていく。


 皿の上に山を築いた料理を前に、リクターは、祈るように手を合わせた。たった一秒に満たない食前の祈りを済ませるや、勢いよく胃袋へと詰め込んでいく。


 咀嚼しているのかさえ疑わしい速度で、料理の山は、あっというまになだらかな丘へと姿を変えた。


「相変わらず健啖家ですねえ、リクター殿は。」


 今や、丘はすっかり更地となっている。


 セインは、新たに築いた山を崩しにかかったリクターを見やると、すこし呆れたように、眼鏡のブリッジを押し上げた。


 リクターは、リスのように頬袋を膨らませたまま、セインの方をちらと見返した。


「ふぉのふはひ……」


「リクター、せめて飲み込んでから話すがよい。」


 レオンは、窘めるように苦笑を漏らした。


 食べる手を休めず、喋ることも諦めないのはなんともリクターらしいが、一国の騎士の長としては、褒められたものではない。


 王の掣肘に、リクターは眉を上げると、喉を鳴らして口の中の物を胃に押し流した。


「このくらい食わねえと、昼まで持たねえよ。……どうした、セイン? お前、どっか具合でも悪いのか? 朝っぱらから、しけた面して。」


 リクターは、改めて言葉の続きを述べると、心配そうにセインの顔を覗き込んだ。


 彼の言うとおり、抜けるように白いセインの顔は、いつにもまして血の気が薄い。まるで、死者のそれと見紛うほどに、蒼ざめていた。


「いえ、なんともありませんよ。」


 セインは、涼しい顔で、小首を傾げている。まるで、自分がそのように見えることに、心底驚いているとでも言うような素振りだった。


「なにかあったのであろう、セイン。」


 レオンは、じっと、セインの薄紫の瞳を覗き込んだ。


 幼い頃から、セインはなんでも我慢して、腹の底にしまってしまうきらいがある。


 セインが七つの頃から、自分は何度、強がる必要はないと言い聞かせたことだろうか。それでも生来の彼の気質なのか、この癖だけは、ついに抜けなかった。


「食も進んでおらんではないか。……話してみよ。」


 見れば、セインの皿には、一口だけかじられたパンが、所在なさげに置かれている。


 レオンは、とんとんと指で皿を差すと、宥めるように優しく問いかけた。


「いえ、お恥ずかしい話、ちょっと嫌な夢を見ましてね。……ただの、寝不足なんです。」


「なあんだ、相変わらず繊細だなあ、お前。」


 リクターは、そんなことかと言わんばかりに大笑した。


「お気を遣わせてしまって、申し訳ありませんね。」


 リクターの朗らかな笑い声に、セインも、おどけたようにわざとらしくお辞儀をしてみせる。


 レオンは、どこか釈然としない思いで、二人を見守っていた。


 セインは、些末な嘘をつくような青年ではない。


 たしかに、悪夢にうなされたのだろう。そのせいで、睡眠が足りなかったのかも知れない。だが、本当にそれだけなのだろうか。


 セインとて、いまや竜騎士の長として、ハーネストの軍権を預かる身なのだ。レオンが彼を戦場のはずれで拾ったときのように、弱々しい幼子ではない。十八年の歳月は、彼を心身ともに鍛え上げ、一角の騎士として成長させた。


 いかに繊細な青年とはいえ、セインをここまで憔悴させる夢とは、どのようなものであったのだろう。


「……セイン、その夢の話、聞かせてはくれまいか?」


 レオンは、考えた末、答えを求めるようにセインに問いかけた。


「では、お話しいたしますね。あれは……」


 セインは、観念したように、静かに語り始めた。


 穏やかな夜に訪いた奇妙な客人。静謐から一変、地獄へと転がり出る絶望。破壊と死に包まれた街。闇に紛れた黒衣の男――。


 訥々と紡がれるセインの夢物語が進むにつれ、レオンの隣で耳を傾けていたリクターの顔から、引き波のように笑顔が剥がれていく。


「――と、まあ、このような夢でした。」


 語り終えたセインは、深い溜息を零すと、かすかに震える手で、新しい紅茶をカップに注いだ。


「……いや、それはさすがに堪えるわ。」


 十八年前に起きた大戦の惨状と重ねたのか、リクターは、眉根を寄せて低い唸り声を上げた。腕組みして頷くその顔は、わずかに蒼ざめている。


 あの当時、前線で敵軍と矛を交えたリクターさえ、顔色を変じるのだ。


 七つの頃に見た地獄を、現実と紛う生々しさで味わったセインの心中は、如何ばかりのものだっただろうか。


「まあ、所詮は夢、ですよ。……そうお気になさらないでください。」


 セインは、力なく微笑むと、謝辞を残して席を立った。


 光の軌跡のようにゆらゆらと弧を描く長い銀髪が人ごみに飲まれるまで、レオンは彼の背を黙然と見送った。


「所詮は夢、か。」


 セインの語った地獄は、つまるところ泡沫の夢路の話に過ぎないのだ。


 それでも、彼の投じた一石は、レオンの胸に、波紋のようなさざめきを残した。


「……そうであると良いのだが。」


 白衣の客人の言葉が、レオンの脳裡に、繰り返す鐘の音のように谺する。その人は、夢を通して災厄の訪いを、告げようとしていたのではあるまいか。


 レオンは、深い嘆息を零すと、問うように天を仰いだ。


 ステンドグラスの聖母は、なにも答えてはくれない。


 清らかな旭光に照らし出される慈しみ深い笑みは、今のレオンには、どこか嘆きの色を帯びているように見えた。

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