第九幕


 第九幕



 元日に食堂で善哉ぜんざいを食ってから、やがて二週間ばかりが経過した。真冬の季節を迎えた極寒のシベリアの大地は岩の様にがちがちに凍りつき、雪混じりの吹き荒ぶ寒風は、野外での重労働に従事する俺ら捕虜達の肌を突き刺すような寒さでもって凍てつかせる。

「ああ、腹が減った」

 飢えと寒さによってすっかり衰弱してしまった身体を引きずりながら、俺は矢三郎や他の多くの捕虜達と共に、収容所ラーゲリの食堂へと足を踏み入れた。そして炊事係の前に列をなして並び、粗末な夕食の配膳を待つ。

「大隊長、未だ立たされてますよ」

 夕食の配膳を待つ列に並んでいると、背後の矢三郎が俺にそっと耳打ちした。彼が指差す先に眼を遣れば、食堂の隅の壁際では、今日も綾瀬大隊長が立たされている。

「酷いな、やっぱり見てられん」

 俺はそう言うと、舌打ち交じりに眼を逸らした。食堂の隅に立たされたままの綾瀬大隊長は以前とは比べ物にならないほどげっそりと痩せ細り、まるで死人の様に土気色のその顔はすっかりやつれ果て、廃人同然の惨めな姿を衆目に晒している。

 二週間前のあの元日の公開処刑からこっち、この収容所ラーゲリにおける日本軍捕虜達の実権は、かつての関東軍の将校達から民主化委員会へと完全に移行してしまっていた。そしてその民主化委員会を統べるのは、委員長を務める加藤一等兵その人である。

「寝るな、この反動分子! 立て!」

 疲労の余り、立ったままうたた寝し掛けていた綾瀬大隊長を、彼の前に置かれた椅子に腰掛けていた民主化委員会の会員の一人が怒鳴りつけた。怒鳴りつけられた綾瀬大隊長はハッと眼を覚ますと、首から『反動』と書かれた看板を提げたまま、再び直立不動の姿勢で立ち続ける。

 ハバロフスク帰りの民主化委員会の会員達は『アクチブ』と呼ばれ、野外での重労働を免除されると同時に、かつての将校室を占拠して収容所ラーゲリ内を我が物顔で闊歩していた。

「綾瀬大隊長は、また飯抜きか」

 小声でそう呟いた俺は、水っぽい高粱のカーシャと屑野菜のバランダ、それに僅かな黒パンによる不味い夕食を胃に流し込むと、早々に席を立つ。しかし食堂の隅に立たされたままの綾瀬大隊長は、そんな粗末な夕食を食べる事すらも許されないのだ。元日に反動分子のレッテルを貼られた彼は就寝時間以外はこうしてずっと立ち続ける事を強要され、疲労によって少しでも体勢を崩せば飯抜き、つまり絶食を余儀無くされているのである。そのため、この二週間ばかり殆ど絶食状態にある綾瀬大隊長は、今にも死んでしまいそうなほど痩せ衰えてしまっていたのだった。

「壮太さん、あんまりじろじろ見ていると、こっちもアクチブに眼をつけられます。さっさと兵舎に帰って、寝ましょう」

「ああ、そうだな」

 一緒に夕食を食い終えた矢三郎の助言に従い、俺ら二人は、そそくさと食堂を後にする。下手に綾瀬大隊長に同情してアクチブの連中に歯向かおうものなら、俺らもまた反動分子として、彼らから吊るし上げられかねない。

「この収容所ラーゲリも、随分と変わっちまったな」

 ねぐらである兵舎に帰り、比較的親しい間柄の数人の捕虜達でペチカを囲みながらマホルカ煙草を吸っていると、中年の捕虜の一人がぼそりと呟いた。他の捕虜達も敢えて明言は避けるが、その表情や雰囲気からは、無言のまま彼に同意している事がうかがい知れる。

「滅多な事を言って吊るし上げられると、帰国ダモイが遅れるって噂だぜ」

「だが逆にアクチブになって民主化運動とやらに協力すれば、帰国ダモイが早まるって噂じゃねえか」

 捕虜達は根拠の無い噂を口々に呟きながら、ぶるぶると震え上がった。マホルカ煙草を吸いながら、彼らは皆、神妙な面持ちである。何故なら綾瀬大隊長の様にファシズムの走狗としてアクチブに吊るし上げられると、死ぬまで内地への帰国ダモイが許されず、一生涯に渡ってシベリアの収容所ラーゲリで野外での強制労働に従事させられると、まことしやかに噂されていたからだ。

「しかし、須田の奴もすっかり大人しくなっちまったな。以前は綾瀬の太鼓持ちだったのによ」

「そりゃそうさ。須田の奴も綾瀬の従卒だった奴らも、ちょっとでもアクチブに逆らう真似を見せたら、たちまち吊るし上げられて綾瀬の二の舞だからな」

 二人の捕虜達の言葉通り、綾瀬大隊長が吊るし上げられた元日の夜以来、須田中隊長や将校らの従卒だった下士官の捕虜達はすっかり鳴りを潜めている。彼らがかつて寝起きしていた将校室は、今では民主化委員会の会員であるアクチブが寝起きする居室として徴収されてしまったので、須田中隊長らは一般の捕虜達が寝起きする兵舎へと移動させられて来たのだ。だがしかし、兵舎に彼ら将校や下士官の居場所は無い。これまで散々捕虜達を侮辱し、暴力を振るって来た彼らが、今更兵卒出身の捕虜達と仲良く暮らせと言われても、どだい無理な注文である。だから須田中隊長達はペチカの火も届かない暗く冷たい兵舎の隅に寄り集まって、出来るだけ目立たないように身体を小さく丸めながら、アクチブに眼をつけられないように静かに暮らしているのだ。

「とにかく俺は、こんなシベリアの山ん中で野垂れ死ぬのだけはご免だ」

「俺もだ。こんな所で泥と雪に埋もれて惨めに死ぬくらいなら、民主化委員会だろうがアクチブだろうが知らないが、幾らだって協力してやる。それで内地に帰国ダモイ出来るなら、安いもんだ」

 そう言った捕虜の一人が、吸い終えたマホルカ煙草の吸いカスをペチカの火にくべ、深い溜息を吐く。こうして捕虜達の多くが、障らぬ神に祟り無し、つまり加藤一等兵を頂点とした民主化委員会に協力しようと言う意見でもってほぼ一致していた。誰だってこんな極寒の地を離れて一日も早く帰国ダモイし、内地で待つ家族に会いたくて仕方無いのだから、そう言った無難な意見に民意が集約されてしまうのも当然の帰結と言える。

「だから皆、今週の日曜も、勉強会に参加しようじゃないか」

 中年の捕虜の言う通り、アクチブの連中が台頭し始めてからと言うもの、毎週末の日曜日には民主化委員会が主催する勉強会が食堂で開催されていた。その勉強会が開催される食堂には、野太い楷書でもって「打倒ファシズム!」だとか「ヨシフ・スターリン最高指導者閣下を頂点としたソヴィエト評議会に忠誠を示そう!」だとか言ったスローガンが書かれた横断幕が掲げられ、そのスローガンを仰ぎ見ながら、民主主義やマルクス・レーニン主義について学ぶのである。勿論勉強会で使われる教科書は、マルクスやレーニンやスターリンと言った共産主義思想の先駆者達の著書や自伝であった。

「何にせよ、明日も早い。もう寝よう」

 ペチカの薪係を務める捕虜がそう言ったのを合図に、俺らはそれぞれの寝床である寝台に寝転がると、薄っぺらい毛布に包まって眼を閉じる。

「ねえ、壮太さん」

「何だ、矢三郎」

「僕らも、民主化委員会に入会しますか?」

「さあ、どうするかな。俺は未だ、加藤もアクチブの連中も信用しちゃいない。それに、あいつらにこの収容所ラーゲリの命運を任せていたんじゃ、先行きに不穏なものを感じる。だからそんな得体の知れない奴らの仲間になるなんて、とりあえず今のところは、俺はご免こうむるね」

 隣の寝台で横になる矢三郎の問いに、俺は兵舎の天井を見上げながら答えた。窓の外では雪混じりの風が吹き荒ぶこの夜は特に冷え込みが厳しく、ペチカを焚いて毛布に包まっていても、身体の心まで凍てつきそうなほどの寒さだった事を覚えている。


   ●


 翌日の作業終了後の夕刻、未だ夕食が準備される前に、アクチブの一人の報告を耳にした俺は外套シューバ防寒帽ウシャンカも脱ぐ間も無く食堂に駆け込んだ。勿論駆け込んだのは俺だけでなく、矢三郎も含めた、他の多くの捕虜達もまた一緒である。そして食堂の隅に横たわり、全身を覆い隠すように頭まで毛布が掛けられた綾瀬大隊長の遺体を眼にして、深い絶望感に襲われた。

「ああ、糞」

 俺は悪態を吐くと、手で顔を覆ってかぶりを振る。ある程度予想していた事とは言え、アクチブによる吊るし上げによって、遂に死人が出てしまったのだ。

「死因は何だ?」

「衰弱死か、餓死だってよ。なんでも昼頃に立たされたまま急に倒れて、そのまま眼を覚まさなかったそうだ。まあ、飯も食わせてもらえずにあれだけ立たされ続けたら、いつかは死んじまうと思ってたさ」

 俺の問い掛けに、一足先に食堂に来ていた捕虜の一人が溜息混じりに答えると、綾瀬大隊長の遺体に向かって手を合わせて念仏を唱える。

「そこの貴様! 反動分子に向かって、手など合わせるな! 貴様も反動と見なすぞ!」

 綾瀬大隊長の遺体を検分するポリーナ中尉に付き添っていたアクチブの一人が、手を合わせる捕虜を怒鳴りつけ、警告した。その怒鳴り声を聞いて、手を合わせていた捕虜は慌てて手を引っ込める。どうやら死して尚、綾瀬大隊長を反動分子として吊るし上げ、糾弾しようとするアクチブの姿勢は揺るがないらしい。

「死因は急激な体温低下と栄養失調による衰弱死で、まあ間違いないかしら。それ以外には、遺体に不審な点は見られないようね。とりあえず詳細については解剖してから決定するから、医務室まで運んでおいてちょうだい」

 遺体の検分を終えたソ連赤軍の軍医であるポリーナ中尉はそう言って立ち上がり、野次馬として集まった捕虜達の人垣を掻き分けながら食堂を後にした。そして数人のアクチブ達が綾瀬大隊長の遺体を毛布ごと抱え上げると、それを医務室に運ぶために、食堂を出てポリーナ中尉の後を追う。後に残された俺ら捕虜達は、いくら生前の綾瀬大隊長が部下に暴力を振るう悪党だったからと言って、死者に敬意を払うと言った宗教的観点から諸手を挙げて彼の死を喜ぶ訳にも行かず、複雑な表情をそれぞれの痩せこけた顔に浮かべながら立ち尽くしていた。

「とにかく、こんなやり方は間違っている」

 そう呟いた俺は踵を返し、足早に食堂を後にする。

「どこに行くんですか、壮太さん?」

「所長室だ。マシェフスキー大尉殿に直談判して、こんな事は早くやめさせないと」

 俺と一緒に食堂を後にした矢三郎の問いに、俺は歩きながら答えた。戸外に出てみればとっぷりと陽は暮れ、頬を撫でる冷たい夜風には、はらはらと小雪が舞っている。

「よお、壮太じゃないか。こんな時間に、どこに行くんだ?」

 官舎へと赴くために雪の降り積もった営庭を迂回する途中で、ドイツ軍の捕虜達が寝泊りする兵舎の前を通り掛かると、たまたまそこでマホルカ煙草を吸っていたルッツ兵長が問い掛けて来た。

「ああ、ルッツか。ちょっと所長室まで、マシェフスキー大尉殿に直談判しに行くところだ」

 俺が答えると、ルッツ兵長は再度問う。

「直談判? 何を?」

「ハバロフスクから帰って来たアクチブの奴らのせいで、とうとう日本軍の捕虜に死人が出た。死んだのはいけ好かない将校だが、それでも同じ釜の飯を食った同僚を死に追いやるようなアクチブのやり方は、見過ごす訳には行かない」

「アクチブ? ああ、アンティファみたいなもんか。俺らドイツ軍の捕虜の中でも『自由ドイツ国民委員会』とか『ドイツ将校連盟』とかの反ファシズム組織が結成されて、収容所ラーゲリの思想と治安を引っ掻き回したもんさ。まあ、どっちももう解散させられたがね」

 ルッツ兵長はそう言い終えると、マホルカ煙草の吸い殻を雪の中に投げ捨ててから、俺と矢三郎と共に歩き出した。そしてにやりとほくそ笑みながら、決して恩着せがましくはない口調でもって言う。

「俺も一緒に行ってやるよ。アンティファの活動を間近で見て来たから、何か協力出来る事があるかもしれないからな。それに所長室に乗り込んで直談判するってんなら、頭数が多い方が何かと有利だろう?」

「ありがとうルッツ、助かる」

 礼を言った俺と矢三郎、そしてルッツ兵長の三人は、やがて営庭をぐるりと迂回して官舎の前に辿り着いた。すると官舎の前では、いつものようにマンドリン短機関銃を肩から吊るしたアントン二等兵が歩哨の任に就いており、彼の許可無しには中に入れてくれそうにない。

「やあ、アントン」

「よう、日本人ヤポンスキーとドイツニェーメツと……お前はあまり見ない顔だな、若い日本人ヤポンスキー。それでお前ら、一体何の用でここに来た?」

「マシェフスキー大尉殿に用があって来た。中に入れてくれないか?」

 俺がそう言うと、アントン二等兵は眉間に深い皺を寄せて渋い顔をする。

「悪いが、それだけの理由で捕虜を官舎の中に入れる訳には行かない。大尉殿の方がお前を呼んでいるってんなら、話は別だがな」

「ああ、そうだ。実はマシェフスキー大尉殿から、以前のドストエフスキーの件で所長室まで来るように言われたんだ」

 俺は、咄嗟に嘘を吐いた。こんな安易で見え透いた嘘を信じるのはよほどの馬鹿か、聖人君子の様なお人好しだけに違いない。しかし仲間内から「のろまのアントン」と呼ばれるアントン二等兵は、やはり少々おつむが足りないらしく、そんな俺の嘘をあっさりと信じてしまったから少し驚く。

「そうか、俺にはその『どすとえふすきー』とやらが何なのかさっぱり分からんが、大尉殿がお呼びだってんなら入っても構わんぞ」

 アントン二等兵が官舎の扉を指差しながらそう言ったので、俺ら三人は彼の脇を通ってその扉を開けると、官舎の中に足を踏み入れた。そして薄暗い廊下を渡り、官舎の最奥に位置する所長室の前まで辿り着くと、扉をノックして返事を待つ。

「誰かね?」

「後藤壮太一等兵です。是非とも大尉殿にお願いしたい事があって、参りました」

「……よろしい、入りたまえ」

 扉越しに許可を得た俺ら三人は意を決し、所長室に入室した。以前にも何度か訪れた事がある所長室はやはりさほど広くはなく、壁際の文机の前に置かれた木製の椅子に、細身のヤサ男であるマシェフスキー大尉が腰掛けているのが眼に留まる。

 しかし所長室内には、この部屋の主であるマシェフスキー大尉以上に俺の眼を引く人物が居た。この収容所ラーゲリの日本軍捕虜を事実上牛耳っている民主化委員会の委員長、つまりアクチブのリーダーである加藤一等兵が、何故か部屋の中央に置かれたソファに腰を下ろしていたのである。

「それで、私にお願いしたい事とは何かね、後藤壮太一等兵?」

 加藤一等兵を警戒する俺と矢三郎の反応を楽しむかのようにほくそ笑みつつ、マシェフスキー大尉が尋ねた。そして当の加藤一等兵もまた、ソファに腰掛けたまま意味深にほくそ笑んでいる。ただ唯一、彼とは初対面なので状況が良く分かっていないルッツ兵長だけが、首を傾げながら困惑していた。

「あ、えっと、その……何故ここに我が軍の加藤が居るのでしょうか、大尉殿?」

 俺が尋ね返すと、マシェフスキー大尉は脚を組み、椅子の背もたれに体重を預けながら答える。

「それはキミが知らなくてもいい事だ、後藤壮太一等兵。さあ、気にせずに用件を述べたまえ」

「そうとも、私の事は気にせずに大尉殿に意見具申するといい、同志後藤」

 加藤一等兵もカタコトのロシア語でそう言って顎をしゃくり、マシェフスキー大尉と共に俺に発言を促した。

「それでは発言させていただきます、大尉殿」

 一度咳払いをして呼吸を整えてから、俺は改めて嘆願する。

「既にご存知でしょうが、今日の午後、昨年末まで作業大隊の最高司令官を務めていた綾瀬中尉殿が亡くなられました。衰弱死です。元日の人民裁判で民主化委員会が下した判決に従い、満足に食事も与えられないまま凍てつく食堂の片隅で立たされ続けた事が原因なのは、疑いようもありません。正直な事を言わせていただければ、俺は生前の綾瀬中尉殿が嫌いでした。彼の理不尽な命令によって何度も迷惑を被りましたし、時には暴力を振るわれた事も、一度や二度ではありません。しかし、だからと言って、こんな卑劣なやり方でもってかつての上官を死に追い遣るような蛮行が許されるでしょうか? いいえ、許される筈がありません。ですから大尉殿、今すぐにでも民主化委員会を解散させ、この収容所ラーゲリでの民主化運動を中止すべきです。どうか、賢明なご判断をお願いいたします」

 俺は自分の胸の内を率直に吐露し終え、マシェフスキー大尉に判断を仰いだ。しかし残念ながら、大尉からの返答は、俺の期待に添うものではない。

「後藤壮太一等兵、キミには悪いが、その願いを聞き届ける事は私には出来ない。収容所ラーゲリの民主化は、中央の党の方針だ。かつてスターリングラードでドイツ軍の捕虜となり、解放後は懲罰人事でもってこんなシベリアの僻地に赴任させられた私には、党の方針に逆らうような権力もコネも無いのだよ。だからいくらロシア語が堪能な通訳ペレボーチクとは言え、一介の捕虜に過ぎないキミもまた自分の身の丈を知り、付和雷同と言う言葉の意味を理解したまえ」

 椅子に腰掛けたままのマシェフスキー大尉は眼を瞑って首を横に振りながら、にべも無くそう言った。すると彼に代わって加藤一等兵がソファから腰を上げ、今度は日本語でもって俺を恫喝する。

「そう言う事だ、同志後藤。我らが民主化委員会による収容所ラーゲリの民主化は党の方針であり、何であればその委員長を務める私の権限は、ここに居られる同志マシェフスキー大尉殿の決定をも覆す。それを理解したならば、キミも口を慎み、行動を自制したまえ。それに同志後藤、確かキミは内地に居た頃は高等教育を甘受し、ロシア語を学んでいた身だった筈だ。もしも私や同志マシェフスキー大尉殿の決定に不服だと言うのならば、キミを当局のスパイとして養成されたブルジョアの嫌疑で人民裁判に掛け、無様な死に様を晒した綾瀬中尉と同じように吊るし上げてもいいんだぞ?」

 加藤一等兵はそう言い終えると、不敵な面構えでもってほくそ笑んだ。そして彼に恫喝された俺は、反論する。

「馬鹿な! そんな事が許されるものか! 第一、俺は学校でロシア文学を専攻していただけで、当局のスパイなんかじゃない!」

 俺は怒鳴りつけるが、加藤一等兵はその顔に張り付いた笑みを崩さない。

「そんな証言を、誰が信じると言うのかな? いいかね、同志後藤。この収容所ラーゲリの捕虜達は今、スケープゴート、つまり生贄としての山羊を求めているのだよ。つまり誰でもいいから前歴者かそれに類する反動分子を探し出して人民裁判で吊るし上げ、厳罰に処し、これまでの過酷な収容所ラーゲリ生活で溜め込んだ鬱憤を晴らす事を渇望している。そして新たなスケープゴートが吊るし上げられれば上げられるほど捕虜達の結束は強固なものとなり、その結束をもたらした我ら民主化委員会に従属すると同時に共産主義思想を学び、反ファシストを掲げるソヴィエト評議会の忠実な下僕となるのだ」

「そんな事に、何の意味があるって言うんだ? どうせ俺達は日本に帰って、そんな共産主義思想やソヴィエト評議会なんかとは無関係になるんだぞ?」

 呆れ果てた俺がそう言うも、饒舌な加藤一等兵の話には続きがあった。

「ああ、そうだ。我々大日本帝国陸軍の捕虜達はやがて、故郷である日本に帰る。そしてその時、可能な限り多くの帰還兵が共産主義思想に傾倒している事こそが、何よりも重要なのだよ」

「それはつまり……」

「そうとも、我々民主化委員会の最終的な目的は、日本全土にばら撒かれた帰還兵による草の根活動の結果としての、日本の赤化だ。だから収容所ラーゲリの民主化が終わるまで、貴重な活動家の卵である捕虜達を、安易に帰国ダモイさせる事は出来ない」

「日本の赤化なんて、そんな馬鹿な事が本当に出来ると思っているのか?」

 俺は抗弁するが、加藤一等兵はまるで意に介さない。

「だが実際に、戦後のドイツでは、この共産主義活動家による草の根活動が成果を上げつつある。現在は米・英・仏・ソの四カ国の占領下に置かれているドイツだが、おそらく近い内に、共産主義国家と資本主義国家によって分割統治される事になるだろう。そしてやがては、労働者独裁を謳う共産主義思想が世界を席巻する筈だ。だからこそ来たるべきその時に、ソヴィエト連邦の十六番目の構成国として大日本ソヴィエト社会主義共和国を逸早く名乗るためにも、日本の赤化が急務なのである!」

 そう謳い上げた加藤一等兵は、まるで自分の言葉に酔いしれる独裁者か新しい玩具を与えられた幼児の様に、高らかな笑い声でもって自らを賞賛してみせた。戦後のドイツがどんな状況に陥っているのかは俺は知らないが、ハバロフスクで講習会を受講して来た加藤一等兵が言うのだから、そのドイツが分割統治され掛けていると言うのは事実なのだろう。

「ふざけるな!」

 そして加藤一等兵の主張に対して最初に怒りを露にしたのは、意外にも、俺の隣に立

っていた矢三郎だった。

「捕虜達を活動家に仕立て上げるために無実の人間を吊るし上げて、従わない捕虜を帰国ダモイさせないなんて事が許される筈がない!」

 血気盛んな若者である矢三郎は顔面を真っ赤に紅潮させながらそう叫ぶと、一歩前に出て拳を振り上げる。

「だが、事実だ。ええと、キミの名は何と言ったかな、少年? まあ、今は名前なぞどうでもいい事だ。とにかく活動家にならなければ、いつまでも帰国ダモイは出来ないものと思いたまえ。それに、仮に活動家にならなければ、キミもまた同志後藤と共に反動分子として吊るし上げられるまでだ」

 加藤一等兵がそう言い終えるのとほぼ同時に、矢三郎は駆け出し、一瞬にして彼との距離を詰めた。そして所長室の飾り棚の上に飾られていたマシェフスキー大尉の蒐集品である大日本帝国陸軍の軍刀を手に取ると、その鞘をすらりと抜き、素早く脇構えの体勢を取る。

「ひっ!」

 突然眼の前で軍刀を構えられた加藤一等兵は狼狽し、ただでさえ小柄なその身体を更に小さく萎縮させながら、咄嗟に急所である頭部を両腕で庇った。しかし矢三郎は狡猾にも、頭部を庇った事によってがら空きになった彼の胴を狙う。

「壮太さんを吊るし上げたりさせるものか!」

 そう叫びながら、軍刀を手にした矢三郎は加藤一等兵の腹部を横薙ぎに切り払った。軍刀の鋭い切っ先によって軍衣ごと切り払われた加藤一等兵の腹部がぱっくりと裂け、その裂け目から赤黒い鮮血にまみれた灰色のはらわたが、ぶりゅぶりゅと音を立てながらまろび出る。

「ああ! ああああ! あああああああああ!」

 はらわたをまろび出させた加藤一等兵は膝の力が抜けたのか、困惑混じりの悲鳴を上げながらその場に跪くと、再び腹腔の中に納めようとまろび出たはらわたを必死で掻き集め始めた。だがしかし、強烈な腹圧によって次からへと溢れ出て来るはらわたを、一人の人間の力だけで押し留める事は出来ない。

「天誅!」

 時代掛かった掛け声と共に、今度は返す刀でもって、矢三郎の二撃目が加藤一等兵の頭部を上下真っ二つに頭蓋骨ごと切断する。すると薄い桃色掛かった灰色の脳髄と脊髄、そして半透明の眼球の切断面を極寒のシベリアの大気に晒しながら、加藤一等兵はその場に崩れ落ちて絶命した。切断されて床に転がった頭部の上半分から、まるで新鮮な鮟鱇あんこうの肝の様な脳髄がぽろりと零れ落ちる。

 その見事な腕前から推測するに、シベリアに抑留されて来る以前の矢三郎の過去は俺の与り知らぬ事だが、少なくとも彼に何かしらの剣術の心得があったであろう事は疑問を差し挟まない。

「ききき、貴様、わわ、私の所長室で何をするか! その軍刀を捨てたまえ!」

 思いも掛けぬ矢三郎の凶行に、どもりながらロシア語でそう叫んだのは、誰あろうマシェフスキー大尉だった。そして彼は狼狽しつつも、文机の上に置かれていたルガー拳銃を手に取ると、かつてドイツ軍将校から収奪したと言うその拳銃の銃口を矢三郎に向けて構える。

「申し訳ありません、大尉殿。しかし、僕はこの男の、兄同然の身である壮太さんや死者である綾瀬大隊長を冒涜する暴言が許せなかったまでです。それ以外に、他意はありません」

 神妙な面持ちでもって日本語でそう言うと、矢三郎は手にした軍刀の切っ先を、床に向けてすっと下ろした。彼の日本語による弁解はマシェフスキー大尉には理解出来なかったであろうから、これ以上抵抗する気は無いと言うその意思を、態度でもって示した格好である。しかしその意思の疎通に齟齬が生じたのか、それとも引き金に掛けた指に力が入り過ぎてしまったのか、マシェフスキー大尉は矢三郎に向けて構えたルガー拳銃の引き金を引いてしまった。

 パンと言う乾いた銃声と共に銃口から射出された9㎜ルガー拳銃弾が宙を舞い、矢三郎の無防備な喉を撃ち抜く。

「あ……」

「矢三郎!」

 喉を撃ち抜かれた矢三郎が所長室の板張りの床に力無く崩れ落ち、俺は彼の名を叫びながら、その場に跪いてその身体を支えた。

「矢三郎! しっかりしろ、矢三郎!」

 俺は矢三郎を抱きかかえながら介抱しようとするが、頚動脈ごと喉仏を撃ち抜かれている彼の傷は深く、手の施しようがない。

「糞、血が止まらない! 矢三郎! 息をしろ、矢三郎!」

 傷口を手で押さえた俺がそう叫んでいる間にも、膝の上に抱きかかえた矢三郎の喉と口からは、心臓の鼓動に応えるかのようにごぼごぼと鮮血が溢れ出し続ける。しかも穴が開いた気管からはひゅうひゅうと呼気が漏れ出し、これではまともに呼吸も出来ない。

「矢三郎!」

「……壮太兄さん……」

 最後に一言、大量の血を吐きながら視線を交差させた俺を兄と呼んだ矢三郎は、呆気無く息絶えた。虚空を掴むかのように何も無い空中を漂っていた彼の右手から力が抜け、床の上にどさりと落下する。

「……マシェフスキー!」

 怒り狂った俺は、たとえ故意にしろ事故にしろ、自分を実の兄同然に慕ってくれていた矢三郎を撃ち殺した仇敵の名を怒号でもって叫んだ。そして矢三郎の遺体の左手から、彼が死して尚しっかと握り締めたままの大日本帝国陸軍の軍刀を奪い取り、それをマシェフスキー大尉に向かって大上段に構える。

「待つがいい、後藤壮太一等兵! これは故意ではない! 事故だ! だから、その軍刀を今すぐ捨てたまえ!」

 狼狽し、首を激しく横に振りながらそう叫んだマシェフスキー大尉だったが、その言葉とは裏腹に彼が構えたルガー拳銃の銃口はこちらに向けられたままだった。

「だったら、貴様がまず銃を捨てろ!」

「いいや、キミの方が先に軍刀を捨てたまえ!」

 軍刀を構えた俺と、ルガー拳銃を構えたマシェフスキー大尉との互いに一歩も引かない睨み合いは続き、所長室の中の空気はぴんと張り詰める。勿論、客観的に見れば睨み合っていたのはほんの数秒間に過ぎなかったのだが、その数秒間が俺の主観では、まるで数時間にも感じられた。

「壮太、ここは一旦、軍刀を下ろせ。お前が意地を張ったところで、事態は好転しない」

 背後に立つルッツ兵長がそっと耳打ちしながら俺の肩を軽く叩き、暗に自制を促す。確かに彼の言う通り、ここで俺が意固地になっても、一介の捕虜に過ぎない自らの首を絞める結果に終わるのは火を見るよりも明らかだ。何であれば、民主化委員会の委員長を務める加藤一等兵の死に関しても、矢三郎の監督者としての俺の責任が問われかねない。

「分かった。今はお前に従おう、ルッツ」

 俺はルッツ兵長にそう言うと、興奮する心身を深呼吸によって落ち着かせながら、大上段に構えていた軍刀の切っ先をゆっくりと下ろし始めた。ここで俺が身を引けば、この場は一応、丸く収まる。しかし切っ先を腰の高さまで下ろしたところで、それが突きの構えだと誤解されたのか、それとも単に俺が油断する瞬間を故意に狙っていたのか、マシェフスキー大尉が構えたルガー拳銃が再び火を吹いた。矢三郎を射殺した時と同様のパンと言う乾いた銃声が、さほど広くはない所長室に反響し、俺に狙いを定めた9㎜ルガー拳銃弾が飛んで来る。

 だがしかし、銃弾は狙いをたがえ、俺には命中しなかった。ルガー拳銃の銃口から射出された銃弾は俺の頬と耳たぶを掠めながら空を切り、背後の板張りの壁に深くめり込んだ後に、ようやくその動きを止める。

「マシェフスキー! 貴様!」

 不意打ち同然のタイミングで撃たれた事により、一度は沈静化し掛けていた俺の怒りは、まるでぐらぐらと沸騰する熱湯の様に一瞬にして頂点に達した。そして手にしていた軍刀を大上段で構え直すと、仇敵との距離を一気に詰め、マシェフスキー大尉に切り掛かる。

「ひぃっ! 来るな!」

 切り掛かって来る俺の姿に怯みながらも、マシェフスキー大尉もまたルガー拳銃を構え直した。俺が振り下ろす軍刀が大尉に届くのが先か、大尉がルガー拳銃の引き金を引くのが先か、その勝敗は一瞬で決するであろう事は疑いようもない。そして気まぐれな勝利の女神はほんの紙一重の差でもって、ソ連赤軍の大尉ではなく、一介の捕虜に過ぎない俺に微笑んだ。つまり振り下ろされた軍刀の切っ先は発砲寸前のルガー拳銃の銃身を掠めながら、マシェフスキー大尉の右手の、親指を除く残り四本の指を骨や腱ごと切断したのである。切断された四本の指がぽろぽろと虚空に零れ落ち、支えを失ったルガー拳銃もまたマシェフスキー大尉の手から取り落とされて、からからと床の上を転がった。

ブリャーチ! ブリャーチ! 畜生サバーカ! 私の指が!」

 口汚い悪態を吐き、親指一本だけが残された右手の傷口を押さえながら、その場に蹲るマシェフスキー大尉。細面な彼の顔は見る見る内に青褪め、その広い額には、一瞬にして脂汗が浮かぶ。そして一時の激情に任せて彼の指を切り落とした俺自身もまた、この収容所ラーゲリの最高責任者に文字通りの意味でもって刃を向けてしまった事に気が動転し、何をどうしていいのか分からずおろおろするばかりで、埒が明かない。

「ああ、シャイセ!」

 その場に居合わせた者達の中で最初に平静を取り戻したのは、母国語であるドイツ語でもって忌々しげに悪態を吐いたルッツ兵長だった。彼は素早く文机に駆け寄ると、その文机の陰に転がり落ちていたルガー拳銃を拾い上げ、蹲ったままのマシェフスキー大尉に銃口を向ける。

「立て、マシェフスキー! さもなくば撃つぞ!」

 そう警告されたマシェフスキー大尉は眉間に深い皺を寄せて不快感を露にしながらも、観念するようにゆっくりと立ち上がった。そしてルッツ兵長は彼の襟首を掴み上げて自由を奪うと、その喉元にルガー拳銃の銃口を押し付ける。

「壮太! こうなったらもう後には引けないぞ! お前も覚悟を決めろ!」

 ルッツ兵長が俺に向かってそう叫んだ直後、官舎の廊下から何者かが駆け寄って来るばたばたと言う音が聞こえて来たかと思えば、所長室の出入り口の扉が勢いよく開け放たれた。開け放たれた扉が壁に激突した衝撃でもって、文机の上に置かれたカンテラがかたかたと揺れる。

「大尉殿! 今の銃声は何ですか!」

 所長室に駆け込んで来るなり大声でもってそう叫んだのは、官舎の出入り口の前で歩哨の任に就いていたソ連赤軍の警戒兵カンボーイである、アントン二等兵だった。彼が着込んだ羊革の外套シューバの肩口や防寒帽ウシャンカの天辺には、真っ白な雪が数㎝ばかりの層を成して降り積もっている。

「アントン、動くな! 銃を捨てて壁際に移動し、眼を瞑って床に伏せ、手を頭の後ろで組め! さもなくば、大尉が死ぬ事になるぞ!」

 マシェフスキー大尉を人質として拘束したルッツ兵長にそう警告されたアントン二等兵は、突然の事態に面食らい、おろおろとその場で慌てふためくばかりだ。

「早くしろ、アントン! 大尉が死んでもいいのか!」

 再びルッツ兵長が警告すると、彼に捕らえられた状態のマシェフスキー大尉が、忌々しげな口調でもってアントン二等兵に命令する。

「フルマノフ二等兵、今はこの男の言う事に従え。銃を捨てて、床に伏せるんだ」

「しかし大尉殿……」

「いいから早くしろ、フルマノフ二等兵! これは命令だ!」

 上官であるマシェフスキー大尉から怒号でもって命令されたアントン二等兵は、その巨体を竦めながら、肩から吊るしていたマンドリン短機関銃をその場に投げ捨てた。そしてルッツ兵長の言葉に従って所長室の壁際に寄ると、眼を瞑って床に伏せ、手を頭の後ろで組む。

「よし、今だ! 壮太、機関銃を拾え!」

「あ、ああ」

 ルッツ兵長に言われた通り、俺は軍刀を捨てると、アントン二等兵が投げ捨てたマンドリン短機関銃を床から拾い上げた。そしてこの短機関銃が『マンドリン』の異名を持つ所以となったドラム型弾倉を引き抜いてみれば、その中にはぎっしりとトカレフ弾が詰め込まれているのが確認出来る。

「さあ、逃げるぞ!」

 そう言ったルッツ兵長は、文机の上に置かれていたカンテラを、ルガー拳銃を握った手の甲でもって素早く突き飛ばした。突き飛ばされたカンテラは宙を舞い、所長室の出入り口とは逆側の壁に激突してガラスの部分が割れると、周囲に飛び散った油に引火して小火ぼやとなる。

「これで、少しは時間が稼げる! 急げ!」

 人質に取ったマシェフスキー大尉の喉元にルガー拳銃の銃口を突き付け、彼を強引に引き連れながら、ルッツ兵長が歩き始めた。そこで仕方無く、俺もまたアントン二等兵から奪い取ったマンドリン短機関銃を手にしたまま、彼の後について歩き始める。

「ルッツ、逃げるって言ったって、どこに逃げるんだ?」

「これだけの事件を起こしてしまったからには、もうこれ以上、ここには居られない。この収容所ラーゲリから脱走し、故郷に帰るんだ」

 俺の問いに、所長室から官舎の廊下に出たルッツ兵長が答えた。

「脱走だと? そんな事が出来るものか! 逃げ出したところで、どうせ森の中で凍死するのが関の山だ! それを理解したらとっとと私を解放し、投降しろ!」

 襟首を掴まれたマシェフスキー大尉が警告したが、ルッツ兵長は「黙れ!」と叫びながら彼の背中に膝蹴りを食らわせ、官舎の廊下を強引に歩かせ続ける。そして出入り口の扉を開けて官舎を出ると、そこには既に、十数人ばかりのソ連赤軍兵がマンドリン短機関銃を手にしながら待ち構えていた。

「お前ら、その場に銃を捨てて、手を上げながら後ろに下がれ! さもないと、大尉の頭が吹き飛ぶ事になるぞ! 早くしろ!」

 そう言ったルッツ兵長の言葉に従ったものかどうか決めかねたソ連赤軍兵達は、互いの顔を見合わせながら戸惑い、埒が明かない。

「大尉! お前からも命令しろ! さあ!」

 ルガー拳銃の銃口を、更に強い力でもって喉元に押し付けられながらルッツ兵長にそう言われたマシェフスキー大尉は、不本意そうな口調でもって部下達に命令する。

「お前達、今はこの男の言う事に従え! 銃を捨てるんだ!」

 上官から命令されたソ連赤軍兵達は、その命令に渋々従ってマンドリン短機関銃を地面に投げ捨てると、両手を頭上に掲げながら後退って俺ら三人から距離を取った。

「壮太、銃を拾え。拾ったら撃鉄か撃針を抜いて、撃てなくするんだ」

「ああ、分かった」

 俺はルッツ兵長に言われた通り、十数挺のマンドリン短機関銃を拾い上げると、それらを分解して次々と撃鉄を取り外す。そして取り外した撃鉄を、常に肩から提げている雑嚢の中に放り込むと、撃てなくなったマンドリン短機関銃は雪が降り積もった地面の上に無造作に投げ捨てた。撃鉄を失った短機関銃など、只の鉄パイプに等しい。

「よし、次は車だ! お前らの内の誰か、車庫に有るGAZ-67のイグニッションキーを取って来い! 早くしろ! 急げ!」

 ルッツ兵長に命令されたソ連赤軍兵達の内の一人が、急いでその場から立ち去った。そして暫くしてからGAZ-67のイグニッションキーを持って戻って来たので、俺はマンドリン短機関銃の銃口を彼に向けながら、奪い取るようにしてそれを受け取る。

「壮太、イグニッションキーは受け取ったな? それじゃあ次は、車庫に移動するぞ!」

 マシェフスキー大尉を人質に取ったまま、俺とルッツ兵長は収容所ラーゲリの敷地の一角に建つ車庫へと移動し始めた。移動している最中も、俺ら三人から一定の距離を保ちつつ、マンドリン短機関銃を失ったソ連赤軍兵達がぞろぞろとついて来る。そして車庫に辿り着くと、俺は『ソ連版ジープ』とも呼ばれるGAZ-67を見付け出し、その運転席に乗り込んだ。

「マシェフスキー! お前も乗れ!」

 人質であるマシェフスキー大尉に命令しながら、ルッツ兵長はGAZ-67の後部座席に二人揃って乗り込むと、運転席の俺に指示する。

「早くエンジンを掛けろ、壮太! 営門を開けさせて、収容所ラーゲリから出来るだけ遠くまで逃げるんだ!」

「分かった!」

 俺がソ連赤軍兵から奪い取ったイグニッションキーを鍵穴に差し込んで時計回りに九十度回すと、数回ばかり電気モーターが空回りした後に、ぶるぶると車体を震動させながらエンジンが回転し始めた。

「営門を開けろ! 早く開けないと、お前らの上官の頭が、腐ったトマトの様に吹き飛ぶ羽目になるぞ!」

 俺らを遠巻きに取り囲むソ連赤軍兵達に向かってルッツ兵長が叫ぶと、暫しの間を置いた後にぎいぎいと鈍い音を立てながら営門が開けられ、俺はアクセルとクラッチを慎重に踏み込む。すると俺とルッツ兵長とマシェフスキー大尉の三人が乗ったGAZ-67はゆっくりと発車し、次第に速度を上げ、やがて営門を潜って収容所ラーゲリの外への脱走に成功した。そして真っ暗な宵闇に包まれた雪道を全速力でもって駆け抜けるに連れ、俺らが収監されていた収容所ラーゲリは、見る間に遠ざかる。

「こんな事をして、一体何になると言うのだ! 今すぐにでも私を解放し、大人しく投降したまえ!」

 闇夜を走り続けるGAZ-67の後部座席に無理矢理乗せられ、喉元にルガー拳銃の銃口を突き付けられた状態のマシェフスキー大尉が、まるで最後通牒の様にそう言った。彼の顔色は相変わらず蒼白で、その額には玉の様な脂汗が浮かんでいるが、口元にだけは不敵な笑みが見え隠れしている。

「ああ、そうだな。もうお前は解放してやるか」

 するとルッツ兵長はそう言うなり、GAZ-67の後部座席の扉を開けたかと思うと、人質であるマシェフスキー大尉を走行する車内から寒風吹き荒ぶ車外へと蹴り出してしまった。蹴り出されたマシェフスキー大尉は沿道に積み上げられた雪の塊の中へと頭から突っ込むと、あっと言う間に視界の彼方へと姿を消し、彼の安否を確かめる事は出来ない。まあ、降り積もった雪が緩衝材代わりになっていればたいした怪我もせずに済むだろうし、たとえ外套シューバを着ていなくとも、この距離ならば凍死する前に歩いて収容所ラーゲリまで帰還出来るだろう。

「逃がしていいのか、ルッツ? 大事な人質なんだろう?」

「構わんさ。どうせ収容所ラーゲリの外に出られれば、後は邪魔なだけだからな」

 ハンドルを握る俺の問いに、後部座席のルッツ兵長が答えた。

「そうか。それで、お前に言われるままつい勢いで飛び出しちまったけど、これからこの車は一体どこに向かえばいいんだ?」

「そうだな、とりあえず、最寄りの鉄道の駅に向かおう。ここからだと、ブラーツクの街の駅が一番近い。そこから貨車か何かに乗り換えて、西を目指すんだ」

「分かった」

 俺が了承すると、ルッツ兵長は少しばかり口篭ってから、照れ臭そうに付言する。

「それとついでだが、駅に向かう前に、ちょっと立ち寄ってほしい場所があるんだ」

「立ち寄ってほしい場所? どこだ?」

「えっと……実は……立ち寄ってほしい場所と言うのは、イエヴァの別荘ダーチャなんだ。俺達二人だけでなく、囚われの身であるイエヴァも、このシベリアの大地から何としても解放してやりたい。彼女もまた、いや、俺らみたいな元軍人ですらない何の罪も無い彼女こそ、真っ先に自由になるべき存在である事は、お前だって気付いている筈だ。だから、イエヴァを連れ出すために別荘ダーチャに向かう」

「なるほど、理解した。それじゃあルッツ、これからイエヴァの別荘ダーチャに向かうから、例の導笛しるべぶえを吹いてくれ」

「ああ」

 ルッツ兵長は外套シューバのポケットから導笛しるべぶえを取り出し、吹き口を口に咥えると、それをGAZ-67の車上でぴいと吹き鳴らした。すると俺らが乗るGAZ-67の進行方向、つまり車の前照灯が明るく照らし出す雪道の続く先が青白く輝いて、イエヴァが住む別荘ダーチャの所在を教えてくれる。どうやらこの導笛しるべぶえと言う奴は思っていた以上に便利な代物で、車輌に乗っている時は、その車輌が走行出来る道かどうかを自動的に選別しながら照らし出してくれるらしい。

「なあ、ルッツ」

「何だ?」

「お前が言うイエヴァを解放して自由にする事に、俺個人としては、何の異論も無い。だが果たして、それはイエヴァ自身が本当に望んでいる事なのだろうか。彼女の意思を事前に確認せずに無理矢理連れ出す事になってしまったら、それでは只の、幼女誘拐略取でしかない。 だいたい、未だ俺らとイエヴァとは、出会ってから二回しか一緒に居た事が無いだろう?」

 ハンドルを握ってアクセルを踏みながら、俺はルッツ兵長に尋ねた。

「えっと、壮太、実はだな……」

「うん?」

 またしても少しばかり口篭りながら、ルッツ兵長は照れ臭そうに白状する。

「実はお前に黙ったまま、これまでにも何度かイエヴァと示し合わせて森で出会って、こう言った事態が発生した時の対処方法を話し合っておいていたんだ。だから既に、彼女の意思は確認してある。彼女は、イエヴァは、この呪われた森と魔女の束縛から逃れたがっている」

「なんだよ、俺が大変な眼に遭っている時に、お前ら二人は外で逢引きしていたって訳かよ。妬けるねえ。そんなにイエヴァの事が気に入ったのかい?」

「そう冷やかすな。俺は彼女の人生に降り掛かった不運の連続に、一人のドイツ軍人として、またナチ党員として、重い責任を感じているだけだ」

「ふうん、なるほどね。まあ、俺だって、イエヴァは助け出してあげたい気持ちに変わりは無い。だからお前の提案に、異論は無いさ」

 俺はそう言うと、ギアを一段上げ、アクセルをより深く踏み込んだ。導笛しるべぶえの笛の音が青白く照らし出す雪道を、俺とルッツ兵長の二人を乗せたGAZ-67は疾走し続ける。

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