第28話 審判の時

身の毛がよだつ、という言葉がある。


まさに今の僕のことを言うのだろう。いや、よだっているのは全身のうぶ毛どころではない。きっと、心の中もだ。


そんなことを一人思いつめながら、僕は机に両肘をつき、頭を抱えてガクガクと小刻みに震えていた。


時刻はすでに12時30分。つまり、もう間もなく4時間目が終わろうとしている。


「……」


何をそんなに怯えているのかと聞かれれば、『何も起こっていない』ことに怯えていると即答するだろう。


そう。僕は今、無事に今日という学校生活を過ごしてしまっているのだ。


それどころか、あの静さんがずっと優しく微笑みかけてくれているのだ。


これはもう……確実に『死』の前兆だ。


僕はそう思うとゴクリと唾を飲み込むと、一切動かしていなかったシャーペンを机の上にそっと置く。そして、チラッと窓側の方を見た。視線が真っ先に捉えるのは、もちろん僕の初恋の人だ。


「……」


窓から差し込む陽光を浴びて美しく黒髪を輝かせながら授業を受けている静さん。


その姿はいつもと同じ、あまりにも絵画的でずっと眺めていられる。なのに……なぜこんなにも恐怖で心が震える?


ふと静さんの頭が動き、ビクリと僕は肩を震わせた。慌てて視線を手元に戻そうとしたが一足遅く、偶然なのかそれとも何か感じとったのか、静さんが僕の方をチラリと見てきた。


交差する二つの視線。


そして、硬直する一人の男。


ピクリとも動くことはなく怯えきった僕の視線の先で、静さんは柔らかく目を細めると、その唇で蠱惑的とさえ思えるほどの微笑みを浮かべた。


一瞬の出来事だった。けれど僕には、まるで永遠だと感じてしまうほど意識が吸い込まれていた。いや、吸い取られていた。


わからない……どうして静さんは一昨日のことについて何も言ってこないんだ? もしかして、実は見ていなかったとか?


僕が莉緒さんに覆い被さっていたから、あの時静さんの目には僕の身体しか見えていなかったとか?


いやいやいや、それでも「え? なんでテメーがここにいるんだよ?」って普通なるよね。きっとそうなるよね??


ほんとこの状況もう勘弁してぇえッ! と心の中で盛大に叫んだ時、そんな叫びに合わせるかのようにチャイムの音が教室の空気を震わせた。


同時に解放感に満ちていく生徒たち。


そして絶望感に苛まれる僕。


もはやみんなと同じ教室に一緒にいるとは思えないほどの得体の知れない孤独感と恐怖心が僕の心を飲み込んでいく。


何か起こる……何か起こるはずだ……


チャイムが鳴ったにも関わらず、僕は授業中と同じ姿勢のまま机に肘をついて頭を抱えていた。すると、僕の心境など何も知らない高砂が前方から声をかけてきた。


「おい岩本、今日の静様のご様子を見たか?」


「…………」


君に言われなくてもずっと見てるよ。いや、どちらかというと見られている。なぜか今日はいつもの数十倍静さんに見られているような気がする。


もちろん好きな人に見られることは嬉しいことには変わりないが、今の心境的には呑気に喜んでいられない。


何もかも僕の勘違いならばいいのだけれど、なんて淡い期待を胸に抱こうとしたら、別の勘違いをした相手が再び言った。


「やはり静様は俺の落ち葉拾いにかなり喜んでくれたご様子だッ! この調子だとこの辺り一帯の落ち葉を拾い切った暁には、きっと俺が誰よりも先に静様と莉緒様のお屋敷に呼ばれれることも間違いない!」


「……」


ああ、そうかい良かったね。と言うことすらもはや億劫だった。


というより、落ち葉拾いでご機嫌になるってどういうこと? 君の落ち葉拾いには、画家がミレーの落ち穂拾いを見るのと同じような効果があるの?


そんな疑問を感じながら黙って高砂の顔を見ていると、彼はドヤ顔のまま話しを続ける。


「何たって今日の静様は授業中にチラチラと俺のことを見てずっと微笑んでくれているからな! あの瞳はもう誘われている目だ。間違いない。俺は静様に呼ばれている!」


勘違いもここまできたらギネス記録だ。僕は思わずそんなことを思った。


いやでももしかしたら……もしかしたら明日地球が滅ぶ可能性と同じくらいの低確率で、静さんは僕ではなくて高砂を見ていた可能性もあるかもしれない。それだったらたしかに、今のところ僕に何もお咎めがないのも頷ける話しだ。


どうにかしてでも静さんの恐怖から逃げ出したい僕は、普段なら絶対に考えないような可能性にまですがろうとする。


実際にもしも静さんが高砂を見て微笑んでいたら、僕は焼きもちと嫉妬心でこの身を焼き尽くすだろう。……だが、今日だけは許す。


そんなことを考えて少しでも現実逃避を計ろうとしたら、まるで僕をこの世界から逃すまいとするかのように、高砂が突然肩を掴んで激しく揺らしてきた。


「岩本、きたぞッ」


「え?」


やたらと興奮した口調で窓際の方をチラチラと見る彼に、「まさか……」と僕はゴクリと唾を飲み込む。


賑やかな音が混じり合う昼休みの教室で、誰かがゆっくりと近づいてくる足音が僕の鼓膜に届く。


このテンポ、そして足音だけでも品の良さが伝わってくる人物といえば……


硬直状態の僕は、ぎぎぎと音が鳴りそうなほどのぎこちない動きで首だけを動かす。


すると、視界の中では莉緒さんと並ぶほどのお美しい方の姿。さざ波のように黒髪を靡かせて、凛とした姿勢で優雅に近づいてくる静さんがいた。


「…………」


背中にダラダラと流れ始めた汗が止まらない。あの静さんがわざわざ席を立ってこの方向に向かってくる理由なんて一つしかない。


僕は判決が下されるのを待つ被告人のような心境で、顔を伏せて黙っていた。隣では、「俺だ、きっと俺に用があるんだ」と高砂が相変わらずギネスレベルの勘違いを起こしている。


……が、もしも叶うのであればそうであってほしい。以前の静さんのように、僕のことなど、僕の存在など一切無視してこの場を通り過ぎてほしい。


身体を小刻みに震わせながらそんなことを切に願っていると、さっきまで聞こえていたはずの上品な足音がピタリと止まった。そして……


「岩本くん、ちょっといいかしら?」


「…………」


ですよね。

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