第25話 グングニルの女

「静……それお箸じゃなくてストローよ」


「……え?」


四人がけのダイニングテーブル。夕食の準備を手伝っていると、お母さんの不安げな声が聞こえてきた。


その言葉に私は、自分の右手で握っているものを見つめる。……うん、たしかにストローだ。


「……」


どうして自分がこんなものを握りしめているのかわからない。というより、自分が何者なのかわからない。


もしかして記憶喪失? なんて言葉が頭をよぎった瞬間、私は心の中で切に願う。


だったらいっそ今日の記憶は何もかも消してほしい、と。


そんなことを思い、ふっと薄ら笑いを浮かべると、今度はダイニングルームに入ってきたお父さんの声が聞こえてきた。


「何だか顔色が悪いぞ静。体調でも悪いのか?」


「……ううん。大丈夫よ、お父さん」


私はそう言ってお父さんに向かってニコリと…………


微笑めない。


あれ?


表情筋ってどうやって動かすんだっけ?


とりあえず小さく首だけ振って大丈夫だとアピールした私は、再びテーブルの上に家族分のコップとお箸をセットしていく。お父さんとお母さん、そして私と……


「…………」


伸ばした腕が、なぜかピタリと止まった。


あぁ、どうしたことでしょう。


このコップにすっごく毒を塗りたい気分だ。


そんなことを思いながらも、どんな時も冷静沈着な私はまったく同じようにテーブルセットを用意する。


……けれど気のせいだろうか。なんだか一本だけストローが混じっているようにも見えるのだけれど、まあ形状はお箸と一緒なので大した問題はないだろう。


そうして一仕事終えた私はそのまま無表情で自分の席へと静かに座る。すると視界の隅でリビングの扉が開くのが見えた。


「わぁっ、今日は私の好きな唐揚げだ!」


「………………」


その声を聞いた瞬間、胸の奥に感じたことがないほどの殺意が一瞬芽生えたが、どうやら今の私は思考が鈍っているようで、そんな感情はドブ水のように濁って薄れていく。


代わりに私は井戸から這い上がってきた幽霊さながらの目つきで相手の顔を見ると、姉は「ひっ」と小さく叫び声を漏らした。


「あ、あのさシズ……その、さっきのことなんだけど……」


その言葉にさっき見たばかりのおぞましい光景が脳裏に浮かび上がりそうになり、私は思わず呼吸を止めた。そして姉の言葉を遮るように、音もなくすーっと椅子から立ち上がる。


「あら静、ご飯は食べないの?」


心配そうに自分のことを見つめるお母さんに、私は「うん」と小声で返事をする。


「……ちょっと宿題の続きが残ってるから」


私は反射的にそんな言い訳をすると姉が立っているリビングの扉の方へと足を踏み出した。


「…………」


無関心……無関心を貫くのよ、静。


こんなところで取り乱してはダメ。


私はいつだって動じないんだから。不埒で不純でふしだらの姉とは、違う人間なんだから。


私はそんなことを呪文か念仏のように心の中で何度も唱えると、何が言いたげな表情を浮かべている姉の前を素通りした。


そして真っ直ぐに廊下を進んでいくと、今度は心を落ち着かせるようにゆっくりと階段を登っていく。


そう……私はどんな時だってクールビューティな女。だから、いつだって平常心。


自分の部屋の前に辿り着いた私は、一度大きく深呼吸をしてから取っ手を握りしめた。


そしていつものように扉を開けると、凛とした姿勢のまま右足を踏み出して…………



「うぅぅわぁーーんッ! ゆきひろくんのバカぁあッ!!」



魚雷さながらの勢いで、私はベッドに飛び込む。


「バカバカバカっ! あれだけ……あれだけ狼にはならないって私と約束したのにぃッ! 幸宏くんのアンポンタンっ!」


悔しさを拳に代えて、私はポカポカとウサちゃん人形の頭を激しく叩く。


「なんで? なんでなの? なんで勉強会からあんな展開になってるの? もしかして私がいないことを良いことに、そういう勉強会をやってたの??」


そんなことを考えた瞬間、私の脳裏にあの悪夢の映像が再び蘇る。


二人っきりの部屋。 ギシリと軋んでいたベッド。そして、姉の身体を押し倒していたケダモノと化した彼の姿。


どう考えたってよろしくないことが始まる5秒前だった光景を思い出してしまい、私の背中に悪寒が走った。


もしも……もしも私が帰ってくるのがあと10分でも遅かったら……


ベッドの上に脱ぎ捨てられた服と、絡み合う二人の姿が一瞬瞼の裏に浮かびそうになり、私は慌てて首を振る。


だ、だ、ダメよ静ッ! その先を考えたら負けよ! 姉の……あんな不埒な女の毒になんてやられないで! 頭が廃人になるわッ!!


咄嗟に心の中でそう叫んだ私は、両目を瞑り、両手で耳を塞ぎ、そして呼吸を止めると悪魔的な雑念を頭の中から追い払う。


冷静に……冷静に考えるのよ! あの奥手でちょっと挙動不審な幸宏くんがいくらお姉ちゃんと二人っきりになったかといって、突然あんな大胆なことができるとほんとに思う?


きっと少しドジっ子の彼のことだから、何かハプニングがあってあんなことになっただけよ。たとえば、ほら……何かにつまずいたとか??


「そう……そうに違いない」と呟いた私は、ベッドからのっそりと降りて立ち上がると、部屋の中を見渡す。趣味も好みもこだわりもまったく違う私たち姉妹だけれども、何の皮肉か、部屋の大きさと家具の配置はまったく同じなのだ。


互いに無意識に選んだはずなのに、逃れられない双子の呪いを感じてしまう。


私はそんなことを思って再びブルリと肩を震わせながら、ローテーブルの方へとゆっくりと近づいていく。


「たぶん……あの二人も最初はここで大人しく勉強していたはず……」


それともいきなりハレンチパーティ? なんて余計なことが勝手に頭に浮かび、私は慌てて首を振る。どうやら姉の猛毒は思った以上に私の思考を犯しているようだ。


「おそらく奥手な幸宏くんは始めは微動だにせずこのテーブルに教科書を広げて見つめていたはずだ……たぶん、正座で」


まるで殺人現場で犯人の行動を再現する探偵のように、私は幸宏くんのマネをして正座で座る。


「そこに自分の部屋だからといってすぐに集中力が切れてしまったあの女が、いやらしくもベッドへと向かった……」


私はそう呟くと、ベッドの上で蠱惑的に座る姉の姿を想像する。……うん、殴りたい。


「だからといっていきなり幸宏くんの男の子のスイッチが入ったとは考えにくいわ。たぶん、あの女が適当な理由をつけて呼んだのよ。それで幸宏くんは立ち上がって……」


私は彼になったつもりでゆっくりと立ち上がると、そのままベッドへと向かおうとした。が、踏み出した足を咄嗟に止める。


「でもここでハプニング発生! たぶん彼のことだからこうやってテーブルに足をぶつけて、そのままバランスを崩してこけてしまったの。きっとそうよ!」


そう。その先にたまたまあの女がいただけ。


幸宏くんはたまたまあの女のところに向かって転んでしまい、たまたまあの女をベッドに押し倒してしまい、たまたま両手が重なって、そしてたまたま二人の指先がぎゅっと絡み合ってしまって…………



って、んなことあるかボケェええッ!!



私は発狂したように心の中で叫んだ。


「たまたま転んであんな体勢になることある⁉︎ ラブコメの鉄板ネタじゃあるまいし、偶然転んだだけで指先が絡むかっつーのッ! 何あの密着感? 私への当てつけ? 手も繋いだことのない私へのあてつけのつもりだったの⁉︎」


再び思い出したくもない光景を思い出してしまい、私は逃げるようにベッドへと飛び込んだ。


「うわぁぁーんッ! やっぱりゆきひろくんのバカぁーーっ! なんでお姉ちゃんなんかに誘惑されてるのよ! 黒髪美人の清楚系女子が好きじゃなかったの!?」


胸がズキズキと痛み始めた私は、今度は「うぅ……」と半泣きで声を漏らして枕に顔を埋める。


「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だッ! 私の幸宏くんとお姉ちゃんが……あの二人が身も心も結ばれてしまうなんて……」


グスンと弱音な声を漏らしてしまうと、私は無意識に枕の下へと右手を入れる。そして指先で掴んだものをゆっくりと引き出す。


「…………」


枕の下から出てきたのは、私の想いと気持ちを詰め込み過ぎてヨレヨレになってしまったあのポスター。そう、この世界に現存する中で、最も幸宏くんのことをそっくりに表現している一枚。


「幸宏くん……」


情熱的で真っ直ぐに、そして優しく自分のことを見つめてくる彼の姿。


お前のことずっと待ってるからな、と今にも言ってくれそうなその唇を、私は指先でそっと触れてみた。


そうだ……私は……


あまりに衝撃的過ぎる光景を見てしまったせいで心の奥底に引っ込んでしまっていた彼への想いに、再び火が灯る。こんな形で……こんな形で私の初恋が終わってしまっていいはずがない。


私は自分への誓いと幸宏くんへの想いを確かめるように、ポスターをゆっくりと口元へと近づけると、そっと目を閉じる。


今の私なら、きっと彼だって……


かつて彼の一言によって傷つき臆病になってしまった幼き頃の乙女心。


けれど私はそこから諦めず、不屈の精神で今日まで数々の努力と試練を乗り越えてきた。


そんな自分が……


一途で純粋で純情な私の想いが……


「いきなりしゃしゃり出てきたあの女なんかに負けるわけがないッ!!」


私はそう言ってパチっと目を開けると、枕から頭を起こした。


そして、ウサちゃん人形を胸元でぎゅっと抱きしめながら、息を吹き返したヒーローのごとく、ゆっくりと立ち上がる。


そうだ……私は負けない。負けるはずがない。だって私はこんなにも彼のことが、幸宏くんのことが……


私はベッドの上に立ち上がると、大きく深呼吸をする。肺に入ってくる新鮮な空気が毒されていた思考をクリアにしていき、自分の信念を心に映す。手当たり次第に手を出す姉とは違う、私の誇り高き信念を。


「向こうがその気でくるなら……わたしにも考えがあるわ」


そう言って私はキリッとした目で扉の方を睨みつける。


これは同じ血と遺伝子を持つ者同士の宿命の対決。


『恋』という、乙女にとっては絶対に譲れないものを賭けた聖戦だ。


だからたとえいかなる犠牲を払おうとも、私の心は折れない、ブレない、負けられないッ!


私は胸元で抱きしめているウサちゃん人形の両耳を右手で強く握りしめると、まるで矛先を向けるかのように姉の部屋に向かって振りかざした。


姿形は見えないけれど、私のこの想いは岩をも貫くほど固く、そして狙ったものは何があろうとはずさない。


だって……だって私の信念は……



「……グングニルだッ!」

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