第二話
「
必死で人影に走り寄り、しがみつくように彼の袖をつかむ。「零真!」と顔を上げれば、彼はどこか苦しげに顔をゆがめた。
「莉璃さま……来てしまったんですか」
発した声は、いつもよりずいぶんくたびれているように感じられた。
そして莉璃は、はっとする。
莉璃とともに王宮に上がるため、零真はつねに女装をしていた。
つまり白影は、零真が男であることを知らないのだ。
「白影さま、これは……」
あわてて言い訳を広げようとすれば、ようやく追いついた白影が隣に立った。
「説明は必要ありません。気づいておりましたので」
「え……いつからですの?」
「あなたの部屋に通い始めて、三日目くらいには。美丈夫な顔かたちゆえわかりにくかったですが、さすがに首や手は男のものでしたので」
どうやら彼は、零真が男であることを早々と悟っていたらしい。
なんでもあとで莉璃に問いただそうと考えていたのだとか。
「零真、あなた……妹さんに会うためにここに戻ってきたのね?」
そうに違いないと核心して問えば、彼は無言のまま微笑んだ。
「わたくしたちが作った花嫁衣裳を、妹さんに着せるために?」
「あの状況になってしまえば、莉璃さまの衣裳を
零真の足もとには大きな
中には貴妃のための衣裳が入っているのだろう。彼はそれを一瞥し、「ははっ」と乾いた笑声を漏らす。
「……莉璃さま。私はね、妹がかわいかったんですよ」
彼は曇天色に染まる湖へ視線を向けた。
「私の家は貧乏で……本当に驚くほどに貧乏で。そのくせ父親が、なけなしの金で酒を飲んでは家族に暴力をふるうものだから、家の中は常に地獄のようなありさまでした」
幼少時を思い出しているのか、握った拳が小刻みに震え始める。
「理不尽に殴られては、どうしてこんな家に生まれたのかと運命を恨んで……こんな苦しみを味わうくらいなら、いっそ死んでしまいたいと思いながら毎日を過ごしていましたよ」
そんな彼の、唯一の救いであり癒しであったのが、五つ年下の妹の存在だったという。
「妹はいつだって私に笑いかけてくれました。食べ物を買う金が無くて空腹が続いた時にも、父親に殴られて頬を腫らした時にも。『お兄ちゃん大丈夫? 痛くない?』と、小さな手で私の頬をなでて……自分だって殴られて痛いはずなのに、絶対に大丈夫でないはずなのに……! それでもいつだって、私の前で笑ってくれたんです」
零真の悲痛な声が、雨音に混じる。
気づけば莉璃は、上衣の胸元をきつく握りしめていた。
苦しくて、悲しくて、胸が張り裂けてしまいそうで。震える右手できつく、きつく握りしめなければ、嗚咽がもれてしまいそうだったのだ。
「だから私は決めたんです。この妹のために生きていこう、と」
なぜこんな家に生まれたのだろう? なんのために生きているのだろう?
そう悩み続けてきた零真だったが、やがて悟ったのだとか。
「この妹を守るために、自分は生を受け、この家に生まれてきたのだ、と」
「だったらなぜ……!」
我慢できずに、莉璃は彼の胸元をつかんだ。
「だったらなぜもっと早くに帰ってあげなかったの……!」
今さら責めてもしかたのないことだとわかっている。
だがどうしても、納得することができずにいる。
「たしかにお金は大切だわ。頻繁に帰るくらいなら貯蓄して、それをいつか持ち帰ろうとのあなたの論も正しい。けれどそんなに大切な妹だったら、もっと早くに助けてあげればよかったのに……!」
その日のうちに帰ってこられる距離ならば、なおさら。
すると零真は、困ったように微笑んだ。
「帰りたくても、帰れなかったんですよ」
「それはお金の問題で?」
しかし零真は、ゆるりと首を左右に振る。
「私は十年前、仕立屋の下働きとして、実の父親に口減らしのために売られたのです」
「え……」
口減らし。
つまり生活苦のため、実の子を売る行為。
「だから家に帰ることは、どうしてもできなかったのです」
「そんな……だってあなた、仕立屋を夢みて村を出てきたって……」
口に出してからはっとした。
それも彼が吐いた嘘のうちのひとつだったのだ、と。
だって真実はとても明かせないから。
悲しい過去を、むやみに人に知られたくはないから。
「だからどんなに妹に会いたくても、彼女の身を案じていても、手紙すらやりとりすることは叶わなかったんですよ」
――ああ……なんてことなの。
莉璃はいよいよ返す言葉を失った。
無意識のうちに、隣に立つ白影に視線を向ける。
彼はめずらしく、何も言わずに莉璃と零真のやりとりを見守っている。
「自由を手に入れたのは、つい最近。長らく働いていた仕立屋から
「それで、
「そちらにいらっしゃるお方とどうしても結婚したかった圭蘭さまは、腕のいいお針子である私に目を付けました。私であれば必ず月華館で雇ってもらえるだろう、と」
そして零真を使い、
思い返してみればたしかに、零真が月華館にやってきたのは、莉璃と白影との婚約が決定する直前のことだった。
『腕には自信があります』と自分を売り込んできた彼のことを、圭蘭の思惑通り、莉璃は二つ返事で迎え入れた。
「そのうちに頃合いよく貴妃の衣裳製作の話が舞い込みましたよね? それを圭蘭さまに報告したところ、あの方も急遽、仕立人を集めて参戦されることになったのです」
「ということは、あなたはもちろん知っていたのね?」
王宮に入った初日、柳家が参加していることに驚いていた彼だったが、それは演技だったということになる。
唯一の部下として莉璃を支えてくれようとするひたむきな姿勢も、励ましの言葉の数々も、全部。一つ残らず、すべて嘘だったのだ。
「私は間者として鳳家に入ったことにより、ある程度の自由を得ました。そして今朝、思いがけず素晴らしい土産も手に入れることができました」
土産。つまりそれは、莉璃とともに製作した花嫁衣装のことだろう。
「そうとなったらもう躊躇する必要はありません。どんな手段を使ってでもこの地に戻ってこようと決意し、王宮から逃げ出したのです。――けれど……」
そこで突如、零真は肩を揺らして笑い出した。
「ははっ……けれど……ははははっ……ははっ!」
なんて悲しい笑い声なのだろう。
胸に突き刺さる刃のような笑声に、つい耳を塞いでしまいたくなる。
「けれどまさか……ははははっ! まさか疫病でこの村が壊滅して……ははっ! 妹がすでに死んでしまっているなんて……!!」
彼は握った拳を、そばに立つ柳の木の幹に力いっぱい叩き付けた。
「なぜ……なぜ死んだ! どこへ行ったんだ!? あのろくでなしの父も……病気がちの母も、私の宝物だった妹は、いったいどこに消えた!?」
木肌に繰り返し叩き付けられる彼の拳が、あっという間に真っ赤に染まる。傷から滲み出た血が雨と混じり、またたくまに広がっていく。
「やめなさい!」
反射的に彼の腕にしがみついた。
けれど大の男の力にはとても叶わず、あっけなく振り払われ、彼の足もとに尻をつく。
「莉璃姫!」
「来ないでくださいませ!」
差し出された白影の手を、勢いよく振りはらった。
「これはわたくしと零真の問題です。そこで黙って見ていてください!」
「またそのようにひどいことを……あなたを助けることすら許されないのですか!」
「納得してくださいませ!」
目眩を覚えながら立ち上がり、雨でびしょ濡れになった顔を拭う。
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