噂の赤マント

平中なごん

一 追いかけっこ

 昭和15(1940)年、晩秋。


 女学校の制服である紺のセーラー服に身を包んだ江戸川花子は、三つ編みのおさげ髪を忙しなく左右に揺らしながら、夕暮れの日に赤く染まる街を早足に歩いていた……。


 家路を急ぐ彼女の後には不気味なほど長い影が橙色の街路の上に伸び、忙しなく脚を動かす彼女について、一緒に淋しい街を進んでゆく。


 他に人影もなく、どういうわけか鳥の鳴き声や風の音も何も聞こえず、赤い街は無音の、まるで超現実シュルレアリスムの世界にでも迷い込んだかのようである。


 ……否。彼女の他にも人影はあった。


 花子の後についてゆく長い影のさらにその後を、また違う人影が一つ、やはり不気味なほど長い尾を夕暮れの街に引き、同じ歩調で追っている。


 その影の正体は、夕陽のように真っ赤な色の、膝下までもある長いマントを羽織った長身の男である。


 頭には、やはり夕陽の色をした軍隊のような制帽を目深にかぶり、その骨ばった細面の表情を覗い知ることはできない。


 花子が足を早めれば、その男も同じように歩速を上げ、付かず離れず、ずっと変わらぬ距離を保ってついて来ている。


 明らかに、花子を対象として尾行しているのだ。


「………………」


 その事実に気づいた時から、彼女の顔は周りの赤い景色に比して、すっかり血の気の失せた蒼白の色をしている。


 そんな強張った顔を前に向けたまま、花子はよりいっそう足の動きを速め、尾行者と必死に距離をとろうとしながら自分の行いを後悔する。


 〝赤マント〟が出るというのに、いつもと違う人気ひとけのない裏道を選んでしまったことを……。


 いや、帰る道の選択を誤るもっと前から、運命はこの危機的状況へ向けて転がり始めていたのかもしれない。


 この日、花子は池袋にある女学校からの帰り道、親に頼まれたお遣いのため、駅近くにある親戚の家を訪れた。


 まあ、お遣い自体はたいして手間の取れるものでもなかったのだが、その親戚というのが探偵小説を書いているような作家であり、家に上がってお茶をいただくとその作家の話がとてもおもしろく、気づけば長居をして帰りが遅くなってしまったのだった。


 花子の家は、池袋からはだいぶ離れた谷中にある。


 故に、山手線で最寄りの日暮里駅へ向かい、電車を降りた頃にはもうすっかり日が傾いており、通勤通学時は賑やかな駅前もずいぶんと静かで淋しいものに変わっていた。


変な噂・・・もあるし、暗くなる前に早く帰らなくっちゃ……」


 人通りの少なくなった駅前の景色に、花子は不安そうな面持ちでぽそりと呟くと、普段使っている大通りではなく、近道になる裏路地の方へと足を進める。


 無論、夜道は物騒だということもあるが、彼女がそうまでして急ぐのにはそうした一般論とはまた別の理由がある。


 最近、この辺りに〝赤マント〟という怪人が出るともっぱらの噂なのだ。


 その怪人は名前の通りに真っ赤なマントを纏っており、女子供をさらっては暴行して殺す猟奇殺人鬼なのだと云われている……。


 もちろん、そんないかにも・・・・な話、ただの噂にすぎないのかもしれないが、か弱く非力な女学生の花子にしてみれば、そうとわかっていてもやっぱり怖い。


 だからこそ、少しでも早く家に着けるようにと近道を選んだのであったが……それが裏目に出てしまった。


 しかも、どうやら赤マントの噂は本当のことだったようである。


「――はぁ……はぁ……はぁ……はぁ…」


 両脇に長い土塀の続く淋しい裏路地を、いつになく速い歩調に息を荒くしながら、追いかけて来る赤い影より逃れようと花子はなおも急ぐ。


 今まさに、噂で語られているような赤いマントを羽織った怪人物が、現実に彼女の後を追いかけて来ているのだ。


 このまま追いつかれ、捕まったらどうなってしまうのだろう?


 考えたくはないのだが、思わず最悪の結末を想像して花子は背筋に冷たいものを感じる。


 やはり噂通り凌辱されてから殺されるのか、それとも、もっと猟奇的なやり方で惨殺され、殺すことそのものによる快楽の対象とされるのか……いずれにしろ、ろくな未来は思い浮かばない。


 その耐え難い不安から、ずっと怖くて後を見れずにいた花子も思わず振り返って赤い影を確認してしまう。


「…………!」


 すると、てっきり同じ距離を保っていると思い込んでいた赤マントの男が、前よりもずっと近くに迫っているではないか!


「……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ…」


 大きく見開いた瞳にその不気味な怪人を映した花子は、再び前を向き直ると、もう無我夢中になって限界まで歩調を速める。最早、小走りに近い状態である。


 しかし、その焦りがさらに彼女を窮地へと追い詰める。


「……え? ……ここ……どこ……?」


 ふと気づけば、花子はどちらへ進めばいいのかわからなくなっていた。


 橙色に染まった土壁がどこまでも続き、まるで碁盤の目のように狭い路地が交差する閑静な裏通りの町……ただでさえ迷路のようなのに、彼女は普段、家の近所でもこちら側の道は滅多に使うことがない。


 その上、極度の恐怖に混乱した花子の頭からは正常な方向感覚が失われてしまっている。


「……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ…」


 迷子になったことがますます彼女を焦燥に駆りたて、花子は黒い目を潤ませると半べそをかいたような顔でついに走り出した。


「……はぁ……はぁ……っ! …グスン……はぁ……はぁ…」


 ちらと顔を背後に向けて見れば、赤マントも同様に駆け出し、さらに彼女との距離を縮めて来ている……どちらへ行けばいいのかもわからないまま、花子は涙の溢れ出すのを我慢して鼻をすすると、なおも懸命に足を動かして赤く染まる無音の町を走る。


「…………あっ!」


 だが、非情にも運命はさらなる不運をか弱き少女に与えたもうた。


 すぐそこまで迫った赤マントの手を逃れるため、咄嗟に四つ辻の角を曲がった花子であったが、ああろうことか、その道の奥には左右に伸びる橙色の土壁と同じものがそそり立っていたのだった。


 つまり、行き止まりである……。


「……はぁ……はぁ……グスン……はぁ……はぁ……グスン…」


 それでも足を止めるわけにはいかず、また、引き返すこともできない彼女は、そのままどん詰まりまで虚しく走り続け、壁が近づいて来るにつれて徐々に速度を落としてゆくとついには立ち止まる。


「……はぁ……はぁ……はぁ……はぁ…………ひぃ…!」


 そして、引き攣った顔で恐る恐る背後を振り返ると、そこには予想の裏切られることはなく、赤いマントを羽織った制帽の男が立っていた。

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