ドラえもん
ぼくが小学生のとき、藤子.F.不二雄先生は死んだ。
当時、コンビニで毎月のように刊行されるドラえもんを蒐集していた。同じ話を幾度となく読み返した。
友だちとの会話の中で「ひみつ道具がひとつだけ貰えるなら」というお題が出たとき、ほかの人間が「タイムマシン」や「もしもボックス」と答えるのに対して、ぼくは「人生やりなおし機」と答え、場の空気を冷ましてしまうのだった。
藤子.F.不二雄先生の訃報を観たときの情景を未だに憶えている。
ぼくは二階の、両親の寝室でテレビアニメのドラえもんを観ながら、オリジナルのひみつ道具をノートに描いていた。すぐ側で母が、ワイシャツにアイロンをかけていた。ドラえもんが終わり、画面が切り替わって、しかしクレヨンしんちゃんは始まらず、藤子.F.不二雄先生ご本人の映像が流れた。
「こんにちは。藤子.F.不二雄です」
それは訃報特番であった。
人間の死ぬということは、漠然と分かっていた。けれど当時のぼくは、現実世界のどこかに本物のドラえもんが存在していて、それは勿論、藤子.F.不二雄先生の家にもいるのだから、彼が死に瀕するとき、ドラえもんが必ず助けてくれるのだと盲信していた。ひみつ道具を駆使すれば、人間ひとりを不死身にすることなど容易だと知っていたからだった。
つまり藤子.F.不二雄先生の死とは、同時に、現実世界のドラえもんの不在を裏付けるものだった。そんなことは、世の中の誰もが知っていたのだが、ぼくの人生における最も大きな希望が、まったく失われた、虚、そのものと言うべき時間が、まさにそのときだった。
それから一年くらいはギャグ漫画家を目指していた。
トマトを模したキャスケットを被った、「トマティーナ」という名のヒーローが、トマトとは無関係のギャグを展開し、最終的に、敵にトマトを投げつけて撃退するという、訳の分からない話だった。
ドラえもんを読んで得た想像力が活かされていたか、定かではない。
大学三年次、ドラえもん全巻セットを買った。ぼくは昔よりずっと孤独だったけれど、本棚にドラえもんが並ぶと嬉しかった。
それらを読んでいくと、ぼくの中の童心が独り、話しだすのだった。
「大きくなったら、ドラえもんに会いたいな」
了
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