感謝状
これは感謝状です。
冒頭の部分からはそう受け取られないと思いますが、結果的にはあなたへの感謝の言葉を綴っており、全体的には賛辞に近い内容となっております。
五十年前にあなたが起こしたのは、まさに革命でした。
あなたはペンとノートで世界を覆したのです。いえ、一度滅ぼしたと言っても過言ではありません。
あなたはスーパーコンピューターや量子コンピューターでも解読に数億年はかかると言われていた暗号の復号を、独自の手法で数十時間で行える方法を発見しました。
当時は高校生だったあなたにとって、それは趣味の一環であり、数学というゲームを楽しんだ結果生まれただけの、いわば副産物に過ぎないものだと仰っていましたね。
でもそれで世界は大きく変わりました。
何をするにもネットワークを使っていたその時代において、お互いがお互いであることの証明や通信の秘匿化には暗号が使われており、「第三者に知られることのないやりとり」が保証される前提がある上で様々な基盤が構築された社会が営まれていたのです。
すぐにオンラインバンキングでの振り込みや送金、クレジットカードの使用ができなくなりました。
傍受された暗号化通信が解読されてしまうと、口座番号に暗証番号、クレジットカードの番号が分かってしまうからです。
これでインターネットでのショッピングができなくなりました。
次に待っていたのはメールです。電子メール、チャット、メッセンジャー──呼び方は様々ですが、これも自分と相手のみが見られるはずの内容を第三者が閲覧可能になってしまったため、すぐに利用されなくなりました。
そうして経済が止まってしまったのです。
世界中の数学者や科学者は代わりとなる暗号をいくつも提案しました。しかしあなたが発見した方法は汎用的なものだったので、いかなる暗号であっても解読されてしまいました。
次に問題となったのはインフラです。
電子制御されているありとあらゆる機器が外部からのアクセスでハッキング可能になってしまったので、全てのシステムがネットワークから外されました。
原子力発電所が悪用されてしまえばメルトダウンを引き起こしますし、浄水場が悪戯されたらあっというまに生活が破綻してしまいます。
人手をなくすために組み込まれたシステムを人力で動かすための人手が足りなくなり、インフラに従事する人々は寝る間も惜しんでの労働となって過労や職務中の事故で何人もが亡くなりました。
それは一般企業も大企業も同じです。全てのシステムが手作業に戻っていきました。
データベースが帳簿に戻ってシステムが担っていた業務を人が代行し、メールが電話やファクスになって、重要書類は郵便でやりとりするように時代が逆行していったのです。
世界中のありとあらゆる人々があなたを恨みました。どうして生まれてきたんだとも言われていましたね。
欲しいものがネットですぐに買えていた時代。家からでも仕事ができていた時代。そういうものが全てなくなったからです。
実際、暗号化がなくなってかなりの事件が起きました。
ヨーロッパでは発電所がハッキングされ電力供給が止まって数百万人が凍死したと言われています。自動車の制御装置も細工されておかしな交通事故が多発しました。
管制塔が乗っ取られて起きたジャンボジェット同士の衝突事故では、亡くなった乗客の何倍もの地上の住民が命を落としました。
そんなことが世界の至る所で起きたのです。
インフラが立ち行かなくなり飢えや乾きで大勢の命が失われ、適切な医療も受けられず寿命よりはるか前に亡くなる人が急増したのです。
その後の十年間で世界の人口は半減したとも言われていました。
あちこちから立ち上る遺体を焼く火葬場の黒い煙と、勝手墓と呼ばれる盛り土に戒名のない板が突き立った光景が世界各国で見られました。
あなたは、世界各地に伝わるありとあらゆる悪者の名で呼ばれましたね。
代表的な代名詞となったのは、全てを破壊するというインドの神様になぞらえたシヴァという名前でした。
世界の誰もが絶望に陥っていました。しかし、その頃から小さな変化が現れたのです。
次々と閉店していく大手の小売店やコンビニに代わって、地元の小さな商店が雨後の筍のようにたくさん誕生しました。
システムがいらない人力だけの小規模な店が多数生まれて、業種ごとに連携しあい、商店街が復活してにわかに地域が活性化を始めました。
それは都市への一極集中も解消しました。
全てが都市で完結できていたのは、地方から物資や食料を集める物流システムがあったからこそです。そのロジスティクスが失われたことで人口の多い都市部では食糧難が発生してしまい、人々は物資と食料のある地方へ移住していきました。
空き家をリフォームし農家を始めたりしながら地域のコミュニティに溶け込んでいき、必要であれば商店を起こしたりして地元の人々のために貢献する。
モノで豊かになるのではなく、ヒトで豊かになる暮らしが始まりました。
全てが第二次世界大戦後のような、躍動を始めるその直前のような時代へと変わっていったのです。
全てが人力に戻ったことによってシステム化で失われた職が復活したため職にあぶれる人がいなくなり、それこそ失業という言葉はなくなりました。
なぜそんなことが起きたのでしょうか。それはひとえに「機械不信」が挙げられます。
暗号化技術が破綻すると、人々は傍受されてしまうネットワーク技術を使わなくなりました。そしてそれはシステムに組み込まれているセキュリティーが突破されてしまうことを意味し、ほとんどの人々はシステムを使わなくなりました。
そこからが大事です。様々な機器に組み込まれている制御装置にも単純なシステムが入っていることを知った人々は、それらですらもハッカーに悪用されると思いました。
ドライヤーの制御装置が悪意のあるハッカーにアップデートされてしまえば、髪が焼け焦げてしまいます。病院で使われる医療器具に仕掛けられてしまえば、命を落としてしまうのです。
実際にはそんな手間暇をかける意味もないのですが、それでも世界には多くの暇を持て余す悪いハッカーがいて、彼らが改造した機器で命を落としたニュースが報じられると、さらに人々は機械を信じなくなっていきました。
そうして家庭における電子機器の使用が減っていくと、企業は安心安全のアナログな道具や単純な機械を売り出していき、それが結果的に時代を遡及させていったのです。
パソコンやスマホが消えた代わりに、ノートとペン、電話が復権を果たしました。動画サイトやゲームを映していたスマートテレビは、放送局が電波塔から流す映像をただ受信し映すだけのテレビになり、乾燥機付きの全自動洗濯機は二漕式の洗濯機になっていったのです。
所々で最新式のテクノロジーが組み込まれた家電を使いながらも、人々は電話や手紙で連絡を取り合い、それぞれが生まれた土地で仲間たちとともに過ごしながら、農業や漁業、林業等の一次産業で地域社会に貢献しつつのんびりと暮らす生活が世界で同時多発的に始まりました。
それは何をもたらしたのでしょう?
まず出生率が増えました。子供の数が回復していったのです。コミュニティが活性化されたことにより助け合いの精神が生まれ、核家族はが集まった互助会的な集落が多数生まれたことが背景にあります。
他方で寿命が縮まっていきました。地域では中程度の医療しか提供されず、高度な医療を受けるにはかなりのコストがかかるようになったためです。
しかしそれは高齢者福祉へ回すコストが減らせたという意味にもなり、結果的に人口ピラミッドがいわゆる正常な形へと戻っていき、正しい福祉が行われるようになりました。
二十四時間開いているようなお店もなくなり、人々は必要な物を必要な時に得られなくなった反面、場当たり的に行動せず暮らしのサイクルを意識するようになりました。
制限や制約はアイデアを生みます。想像力が鍛えられるということは、自分の人生や将来像をを見据えて考えるようになる人本来の賢さを取り戻すことに繋がりました。
人々が生まれた場所からほとんど動かなくなって地域色が豊かになる反面、都市部にあるようなスマートさが消えて、村八分のような陰湿なケースも増えました。
しかしコミュニティで生きなければならないという制約から、悪事を犯すとその場所にいられなくなるデメリットの比重が増えて、犯罪が抑止されるようにもなりました。
不便が豊かさを取り戻させたのです。
大局的に見ると、これまでの便利で生きやすい社会で培われた新しいテクノロジーや考え方を持ったまま、昔のような堅実な暮らしができるようになりました。
あれから五十年が過ぎ、平均寿命は六十歳程度と大幅に下がりましたが、子供の数は多く、健康的な社会が営まれています。
船での航海が必要なため諸外国との交流も減り、全てが国内に回帰していって、各国とも他国と争ったりすることのない平和を享受できるようになりました。
以前の世界は進化を続けるテクノロジーから得られる利便さを追求してそれを享受することにより、さらに自由になるはずだった未来、そんなイメージを誰もが考えていたと思います。
しかし現実はそうではありませんでした。
利便は欲望と同義です。悪事もやりやすくなり、歪んだ感情も容易に発散できることを意味します。悪いニュースは瞬く間に広まって人々の心を弱らせ、悪意のある企ては人々の心を殺しました。
インターネットがなくなって人々はそれらから解放されたのです。
誰もが本来の心を取り戻し、皆が一次産業に携わって地に足をつけた仕事で社会貢献をしながら、土の上で生き土の上で死ぬという、当たり前の暮らしを得られるようになりました。
それもこれも、全てを破壊するという荒療治をしてくれたあなたのお陰でした。
だからこその感謝状なのです。
世界を壊してくださってありがとうございました。
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