お醤油を貸してください

 七月に入ったある日、私が仕事から帰宅すると集合ポストに手紙が入っていた。

 宛名は私。差出人は「二〇五号室」とだけ書かれている。切手は貼っていない。

 隣人なのになぜわざわざ?

 部屋に帰って開けてみたら、一枚の便箋にこんなことが書いてあった。

「お醤油を貸してくださいませんか? 買い物で忘れてしまって、今日の夕食の肉じゃがに必要なのです。玄関ポストに入れていただけませんでしょうか」

 罫線が引いてあるだけの質素な紙に、直線が印象的な字でそう書かれていた。

 腕時計に目を落とす。午後十一時だ。

 私のような半ブラック企業勤めの四十歳にもなる独身男には無縁だが、一般人の夕食の時間はだいたい午後六時とか七時だろう。

 まず間に合わない。

 徒歩五分のところに二十四時間営業のスーパーもあるし、買いに行った方が早い。

 仮に行けない事情があったとしても、醤油のような食品を玄関ポストに入れるのは如何なものか。

 一言で言うなら──非常識極まるお願いだ。

 隣人はどんな人だったか思い出そうとしたものの、イメージすら出てこなかった。

 どうやら会ったことはないらしい。しかし誰かが住んでいるのは知っている。

 音楽を大音量でかけていたり、ドタバタみたいな足音も立てたりしない、周りに迷惑をかけない程度の常識は持ち合わせている人物なのも分かっていた。

 夜中に物音もしなかったから、昼間に活動しているタイプの住人なのも知っている。

 なのに何故? そんな言葉が私の頭を駆け巡っていた。

 疑問、困惑、訝しさ。そういう気持ちが深まっていく。

 しかし私には別の感情が高まっていくのを感じ取っていた。

 予想不能、好奇心、楽しさ。

 社会の片隅で時おり給料という潤滑油を入れてメンテナンスされながら生きる歯車のような生活。

 上司からのせっつきで気持ちをすり減らし、部下の面倒を見てフォローをしながら、年々痩せていく体を引きずって何とか生きている。

 平均的な風貌と平凡な能力、その限界を日々感じながら新しいことへの挑戦すらできなくなっていた四十歳の独身男の惨めな毎日という部屋の窓がふっと開けられ、そこから爽やかな風が入り込んできた気持ちになったからだ。

 冷蔵庫を開ける。あった。手のひらほどの小さな醤油のペットボトル。

 この前買ったばかりだから賞味期限にも余裕があるし、量もたっぷりある。

 そもそも毎日がスーパーの総菜セットしか食べない私には必要のない調味料だ。

 ウェットティッシュで丁寧に拭くと、私は机からペンと付箋を取ってきて小さく「不要なので差し上げます。ご活用ください」と書いて張り付け、外に出て二〇五号室の前で立ち止まった。

 表札はなく、名前の分かるようなものもない。今の時代なら当たり前だ。

 インターフォンを鳴らそうかとも思ったが、隣の私にすら手紙を送ってくるような奥ゆかしい人だから、きっと応じてくれないだろう。

 言われた通りに玄関ポストへ醤油のボトルを差し込む。小さいものの本当に入るかどうか心配だったが、ギリギリで押し込めた。良かった。

 いいことをした気持ちになった私は部屋に戻り遅い夕食を済ませ、少し仕事をしてからシャワーを浴びて眠りについた。

 翌日は忙しかった。歯車ならキイキイ音を立てて回っているような感じだ。

 そこそこのプロジェクトを率いている私は、各チームとの調整に懸案事項の整理と解消の道筋を立てつつ、現場で起きた問題の対処に頭を悩ませ、のろのろと返事のないクライアントをせっついて、ミスをした部下と一緒に悩んで──気がつけばまた午後十一時の帰宅だった。

 集合ポストを開けて思い出した。

 あの醤油、使ってくれたかな?

 でも手紙が入っていないということは、やはり昨日の夕食に間に合わなかったのだろう。

 そんなことを考えながら部屋に帰ってドアの玄関ポストを開けると──そこには醤油のペットボトルと薄っぺらいタッパーが入っていた。

 手紙がテープで貼られている。

 部屋に戻って広げた。

「昨日は突然のご無理にもかかわらずお醤油を貸していただいてありがとうございました。作りすぎてしまったのでお礼にぜひどうぞ」

 タッパーの蓋を開けると、そこには肉じゃがが入っていた。

 割と肉が多めで、型くずれしていないジャガイモがいい艶を出しており、タマネギとニンジンにインゲンの色合いがとても食欲をそそる。

 今日は忙しすぎて食事すら忘れていた。

 帰りに立ち寄ったスーパーにはおにぎりしか残っておらず、空腹も限界に来ていたところだった。

 そこではたと立ち止まる。まさか毒なんて入っていないだろうな? いや、まさか。

 社会の歯車を壊したところで何になる? 意味がない。ただのお返し以上の何でもない。

 結局食欲に負けた私はキッチンから割り箸を持ってきて「いただきます」と声にしてから肉じゃがを食べた。

 美味しい。手料理の味だ。身に染みるとはこのことを言うのだなと思った。

 美味しかった。既製品ではない味わいがあった。食べるという行為は腹を満たすだけではないと考えさせられる。

 もうそろそろ八月だ。夏期休暇と有休を使って実家に帰ろうか。

 ふう。一日の疲れが吹き飛んでしまった気がする。

 人が聞けば笑うだろう。いいさ、笑えばいい。私はこういう性格なのだ。

 食べ終わってタッパーを洗おうとして気づいた。下に手紙が張ってあったのだ。

「お醤油ありがとうございました。そこで……また不躾なお願いで申し訳ないのですが、コンソメをお持ちでしたら貸していただけませんでしょうか。お礼はさせていただきます」

 コンソメ? スープとかに使われる出汁のことか。

早速探してみる。すると──あった。

 一カ月前に梅雨で体調を崩した時、野菜を食べるといいと部下の女の子に教えてもらってミネストローネを作った時の残りだった。

 何に使うのだろう? でもまた何か作ってくれるらしい。

 楽しみな自分がいた。

 洗ったタッパーにコンソメをつけて袋に入れ外へ持ち出す。そして二〇五号室の前で立ち止まった。

 どんな人なのだろう。男性なのか、女性なのか。年齢はいくつで、どんな仕事をしているのだろう。

 働き始めて二十年、定年への道が見え始めてきた私。

 プロジェクトをいくつも経験するうちに時間の足りなさから人付き合いを避けるようになって、メンバーや部下との会話も上辺だけのものになってしまった。

 それでも人としての優しさや誠意は失わないようにしよう。そう思っていたのに。

 他人に興味がなくなったのはどうしてか。仕事漬けだったからかな? それとも……。

「ごちそうさまでした」

 そう呟いて玄関ポストに返す。何だか満足してしまい、その日は部屋に戻るなり何も手につかずそのまま寝てしまった。

 翌日も多忙で様々なトラブルが起きたものの、それほど疲れることなく帰ることができた。

 それはきっと、誰かが帰ってくる私を知っている──そんな単純な理由だったのかもしれない。

 その日も十一時に帰宅すると、玄関ポストにタッパーと手紙が入っていた。

 楽しみにして中を開けると、そこにはベーコンとキャベツのスープパスタが入っていた。

 ほどよく茹でられた麺の食感も良く、お礼の手紙を読みながらぺろりと食べてしまう。

 そしてまたしても調味料を貸してほしいという手紙。今度はウスターソースだった。

 そうして私と二〇五号室の人との、他から見たらおかしなやりとりが続いていった。

 ウスターソースのお礼はトンカツ。カラっと揚げられていて、なおかつジューシーな豚肉は久しぶりにご飯をお代わりするほどだった。

 ケチャップのお礼はオムライス。ふわっとした卵に味のしっかりついたチキンライスが本当に美味しく、一緒に入れてくれたミートボールが子供心を思い出させてくれた。

 塩のお礼はアジの塩焼き。手紙に書かれていたアジの旬が夏だという豆知識に驚いたのと、十年ぶり以上の焼き魚ということに私は少し涙を浮かべてしまった。

 砂糖のお礼はまさかのプリンだった。前の日の手紙には「お菓子でお礼をするので、お総菜は買ってきてください」と書かれていたのだ。程良い甘さとカラメルの味が心に染み渡った。

 そんなやりとりが半月も続いた頃、上司からこんなことを言われた。

「お前、最近顔色がいいな。やっと肉もついてきたし。いい食事をしているようだな」

 そう言えばこの頃は朝起きるのが辛くないし、体重は適正に戻りつつあるのに体は軽く感じていた。

 きっと二〇五号室の方の料理が美味しいからだろう。

 それからもやりとりは続いた。

 相変わらず送られてくる手紙は短く簡素で、それへの返信も簡単なものだったが、私はその方に抱いている感謝の気持ちは徐々に好意へと変化しているのを感じていた。

 そのうち、違う気持ちも芽生えてくる。

 それは申し訳ないというものだった。

 思い返してみれば、私は調味料を提供しているだけで、二〇五号室の方からは料理をいただいてしまっている。

 本来、お礼とは同価値のもののはずだ。

 私が貰っているのはその何倍、何十倍のものだから釣り合っていない。

 感謝の気持ちと共に謝罪をし、きちんとしたお礼をしたい。

 そう思って玄関ポストに調味料を入れる時に何度もインターフォンを押して直接話したいという欲求に見舞われた。

 しかし突然すぎる。

 手紙でのやりとりに終始している関係なのは顔を合わせたくないという理由もあるはずだ。

 その前提で、相手が男性であっても困惑するだろうし、女性ならなおさら身構えてしまうはず。

 何よりこの関係を壊したくない。

 私は切に願っていた。

 他人からしたらおかしな関係であったとしても、私は大切に思っている相手なのだ。

 その日もインターフォンは押さずに小声でお礼を述べて帰った。

 しかし一度火のついた感情は燃え尽きてくれない。そればかりか募って勢いを増すばかりだった。

 その日もお礼の食事をいただき、タッパーと次の調味料を返す時になって──昔良く聞いていた歌の歌詞を思い出した。

 人生は一度しかない。嘘なんていらない。

 そうだ。私は迷いに迷ってこの歯車生活を選び、新しい挑戦から目を背けて生きてきた。

 今が最後のチャンスなのだ。

 私は手紙をしたためた。

 あなたに作っていただいた料理で健康になり、気持ちも晴れやかに社会生活を送ることができるようになりました。

 しかし私は少量の調味料をお渡ししているだけで、いただくお礼のほうが多くて申し訳ない気持ちで一杯です。

 きちんとお礼をさせてください。食事をおごらせてください。

 宜しければ都合のいい日時と好きな料理を教えてもらえませんでしょうか。

 その手紙を玄関ポストに入れる時。私はこの四十年を生きてきて一番緊張したと思う。

 翌日は仕事が手につかなかった。

 上司からの命令をこなし部下のマネージメントをしながらも、二〇五号室の方からの返事があるのか、その内容はイエスかノーなのかが気になって仕方なかったからだ。

 まるで恋だな。そう自嘲しても気持ちは安らがない。

 らしくないミスを連発した私は上司からも心配され、部下も仕事を引き取ると言ってくれたので早々に帰宅させてもらった。

 そうして九時に帰宅した私は期待に胸を膨らませながら集合ポストを開けた。

 すると、そこには──タッパーも手紙も入っていなかった。

 まさか。何度見ても何も入っていない。

 玄関ポストはどうだろう? 部屋に入って開けてみたが何もなかった。

 しまった。後悔の念が全身に爆発する。

 やはり悪手だったのだ。彼か彼女かは分からないが、二〇五号室の方は実際に顔を合わせることがタブーだった。

 くそっ。私は頭を抱える。

 失敗した。失敗した!

 二〇五号室の方に嫌な思いをさせた。迷惑をかけた。

 合わせる顔がない。いや、もう会えない。

 私は大切にしていたものを失ったのだ。

 いや? かぶりを振る。

 ──本当にそうなのか?

 違う。私は決めたではないか。人生は一度しかない。嘘なんていらない。

 私はあの方に会って謝罪したい。お礼をしたい。それがただの押しつけであっても構わない。

 私は外に出て二〇五号室の前に立ち、震える気持ちを深呼吸して抑えながら──インターフォンを押した。

 一秒、五秒。十秒、三十秒。

 応答はなかった。

 無視されている? いや、まだ帰っていないだけではないか?

 そうだ、私は十一時の男なのだ。

 ここで待とう。私はスーツ姿で仁王立ちしながら待った。

 何分でも何時間でも待つ。それが私の誠意だ。

 待つ。待つ。待つ。

 どれぐらい経ったか分からない。

 誰かの走る音が聞こえてきた。集合ポストを開ける音。閉めた音。そして階段を上る靴音。

 このフロアに向かって来ている。

 来た。

 廊下に現れたのは──。


   *


「こらっ、お前たち! お店の中で走ったらダメだろう!」

 スーパーに入るなりお菓子コーナーに駆け出した子供たちを私は叱った。

 しかし小学校低学年と幼稚園年長の二人には届かない。

「全くもう……」

 ため息をつく私を見て妻がくすっと笑った。

「いいじゃないの、お菓子ぐらい。それより買い物を済ませちゃいましょ。まずはお醤油」

「ああ、あの醤油か」

 結婚して以来、十年に渡って使い続けている醤油だ。

 特別な意味がある。二人を結びつけた醤油。

 そう。あの時、階段を上ってきて二〇五号室にやってきたのが今の妻だった。

「在庫はあったんだよな? 一ヶ月前に来た時は三本しかなかったが──発注はしたかな」

 するとまた妻が笑う。

「まるで仕事ね」

「え? あ、ああ……すまん」

「元部下が一緒だと職場みたいになっちゃう癖、十年も直らないのね。もう慣れたけど」またやってしまった。「お醤油は一年ぐらい保つから本数は少ないのよ」

「……そうだな。だから君に貸せたんだ」

「うふふ。昔の話ですよ」

 まさかなあ。あの時を思い出して妻を横目に私はくすっと笑った。

 弱っていた私にコンソメスープで栄養をつけるように教えてくれたのがかつての部下であり、今は妻となっている彼女だった。

 最初はただの部下と上司という関係だった。しかし彼女がたまたま引っ越してきたのが私の隣の部屋で、出勤の時に見かけてそれから気にかけるようになったらしい。

 そして──自分で言うのも恥ずかしいが、部下のフォローと一緒に問題解決をするその姿勢と優しさを見て、好きになってくれたそうだ。

 だが接点もないまま過ごしていたあの夏、忙しさで私が弱っているのを見てアドバイスをくれたものの、一向に改善しないのを見かねて──あのような方法で私に栄養をつけてくれたのだという。

 私はあの頃からターゲットだったのだ。

 今は幸せだし昔も幸せだったが、そこまで妻が私のことを思ってくれていたのだと思うと、面白くもあり、また彼女の一途さを感じさせる。

 私たちにとって大切なエピソードだ。

「そうそう。コンソメも切れそうなの。買わないと」

「ああ、コンソメ……」

 コンソメスープの話で気づいていたら、彼女にあんな真似をさせずに普通の馴れ初めができていたのかと思うと、私のいたらなさを思い知らされる。

 でもこれで良かったのだ。

 あの日、私が待っていた日。

 私が早めに退勤するというイレギュラーを受けて、初めて会ってネタバレをし正式に気持ちを伝えるというプランが残業で崩れ、またすれ違いになってしまう──それだけは避けなければならないと、顔を真っ赤にさせて階段を駆け昇ってきた妻の、あの表情はきっと一生忘れないだろう。

「……コンソメと言えば、あの時作ってくれたベーコンとキャベツのスープパスタはおいしかったな。麺もほどよい固さで」

 妻がうふっと微笑む。

「そうでしょ? 同じ職場の部下ならではよね。帰る時間が分かるから、それに合わせて茹でたのよ?」

「ありがとう。そう言えばあの時初めて知ったんだ。コンソメの賞味期限が短いって」

 あの時に貸したコンソメと同じ商品をずっと今でも使い続けている。

「そうなの。意外に短いの。コンソメって」

「君に言われなかったら私もコンソメなんて買わなかったな」

「そうよね。仕事が急がしい管理職の独身男性が持つ調味料じゃないしね。普通はすぐに賞味期限切れちゃうものだし」

 あの時は偶然賞味期限切れ前のものを貸せて良かった。

 調味料だしそこまで変にはならないはずだが、下手をしたら二人して食あたりしていたかもしれない。

「それにしてもコンソメがあるなんて良く分かったな」

「あなたは真面目だからきっと買ってくれたんだろうって思ってたの」

「それはそうか。でも……ケチャップとかウスターソースとか、なかったりしたらどうしてたんだ?」

「それは大丈夫よ。ないはずないもの」

 妻がにっこり微笑んだ。

「だってこの目で見てたんだから」

 その言葉を聞いて鳥肌が立った。

 ──マジか。

 隣に引っ越してきたのは偶然だと言っていたが、それも偶然ではないということか。

 あの頃からターゲットだったわけじゃない。

 最初からターゲットだったのだ。

 そして次に思ったのは──妻と結婚して本当に良かったということだった。

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