孤独な英雄より
あなたはどこの誰でしょう?
性別はどちらで、どんな顔をしているのでしょうか?
政府から不作為に選んでもらった人にこの手紙を送っているので、私には分からないのです。
でもこの二つだけは知っています。
一つは、日本人であること。
日本語で書かれたこの手紙を、政府関係者が外国人に届けるはずもないでしょうから。
そしてもう一つは、あなたが私より年下だということ。
こうしてあなたが私の手紙を読めていることを、大変嬉しく思っています。
だって、あなたは生きているのですから。
歴史に興味がおありなら「イカロス症」をご存じでしょう。そうでなくとも、名前ぐらいは聞いたことがあると思います。
空気感染する恐ろしい伝染病で、罹患した人は百パーセント亡くなるというものでした。
この病気にかかると、ずっと天を見上げたままになり、最終的には羽ばたこうとして崖から飛んだり、歩道橋の上から飛び降りたりして死んでしまうのです。
最初に発見されたのは日本で、当初はおかしな自殺が流行っている、いわゆる集団ヒステリーだと思われていたのです。
しかしその死因に疑いを持ったある医師が根気強く調べたところ、特殊なウィルスが検出されました。
そのウィルスは脳に入り込んで罹患者の視神経と運動神経を奪い、空を見上げたまま飛ばせようとするので――太陽に近づいたためロウで固めた翼が溶けて死んだギリシャ神話の登場人物になぞらえてイカロス症と名付けられました。
しかし、ウィルスを発見した時には既に手遅れだったのです。
その感染率の高さから、この病気は瞬く間に世界へと広がっていたのですから。
百八十を超える国で感染が確認され、最終的にはおよそ二十億人が亡くなったとされています。
経済活動は止まり、食料難から大規模な飢饉も発生しました。街から人の姿が消え、煮炊きする煙の代わりに火葬場からもうもうと黒い煙が立ち上り続けたのです。
黒煙は絶望の象徴となりました。
人類がこの状況に手を打たなかったわけではありません。各国の政府は予算をこのウィルス対策に注ぎ、研究者はそれこそ全員がほとんどがこの病気をなくそうと、ありとあらゆる方面から手を尽くして研究しました。
しかし、誰もこのウィルスに対応するワクチンを開発できなかったのです。
少し語弊がありました。ウィルスの特定から最初のワクチン開発はすぐにできたのです。ですが、それが効果を発揮したのはたった一年だけ。
ウィルスはすぐに変異して亜種が現れてしまったのです。
いたちごっこでした。
研究者たちは次々と姿を変えるそのウィルスに手を焼き、それでも挫けずにワクチンを作り続けましたが、諦めていきました。
ウィルスの変異に追いつかなかったのです。
それ以外の要因もありました。
大国に忖度をしたWHOが介入して無用の混乱を生ませ、製薬会社のロビー活動を受けた政治家が有力な研究者に圧力をかけて仕事の邪魔をしたり、投資家が革新的な研究を持つベンチャー企業に嫌がらせをして倒産させたり。
人類の存亡に立ち向かう英雄たちを、救ってもらう人々が足を引っ張るさまは無様を通り越して笑えてしまったものです。
しかし、奇跡が起きました。
変異し続けるそのウィルスに共通して効果のあるワクチンができたのです。
それは研究者が研究室で作ったものではなく、ある少年から得られました。
罹患したら必ず死ぬイカロス症にかかったその少年は、ウィルスに打ち勝ったのです。
すぐに彼の体が調べられ、特別な抗体を持っていることが分かりました。研究者たちはこぞってその抗体を生産しようとしましたが、失敗し続けました。
そして世界が選んだのは――彼の体を使ってワクチンを作ることでした。
全世界共通の財産として認定された少年からは人権が剥奪され、世界を救うために「ただ生きて血液を奪われる」だけのロボットと化しました。
適切な食事を与え、適量な運動をさせて作った血液から得たワクチンを世界の人々に配っていく。
一刻も早く人類を救わなければならない。
ワクチンの元となる血液を増やすため、彼はコントロールされながら体重を増やされました。最終的には五百キロにまでなったのです。
自ら動くことも適わず、ただ食べて血液を作り、人々に配り続ける日々。
でも彼はそれを受け入れました。
世界を救った英雄になったのですから。
もうお気づきですね?
そう、私がその少年です。
自慢するつもりはありませんし、褒めてもらうつもりもありません。ただ、事実としてお伝えしたまでです。
では、なぜこんな手紙を送ったのか? そう不思議に思われるかもしれません。
それは、私の孤独を誰かに知ってほしかったからです。
あのワクチンができたのは、今から二百年以上も前のことでした。
そう。
私はもう二百歳をとうに超えてしまいました。数えるのを止めてしまうほど長生きをしています。
それは世界最高の医療技術によって生かされ続けているからです。
人体の限界を超えて生きています。
だから――あなたが私より若いとお話したのです。
もう私の体は指先ですら動かすこともできませんし、呼吸も機械に頼っていて、栄養は点滴で得ているような状態です。
辛うじて動く目に取り付けられたセンサーによって、ネットやテレビの視聴はできますが、ただそれだけ。
たまに映る病院のシーンで、私の名前が冠されたワクチンの箱を見たときに少し嬉しくなるぐらいでしょうか。
それもこれも、血を生産し人々に分け与えて、人類を存続させるためにしていることです。
きっと私はこれからも生き続けるでしょう。
知っていてください。
あなたが享受している「今」は、全て誰かの犠牲の上に成り立っているものだということを。
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