08.モーセの罪

 捕らえた女はプロファイリングの犯人像にひどく近い。


 国の補助金を使って非営利団体を運営していた。彼女自身も両親から受け継いだ多額の資産があり、生活に困窮しない幸福な人生だ。恵まれた容姿と優秀な頭脳、高い知能、それらを支える肩書きと社会的地位が彼女を傲慢に育ててしまったらしい。


 彼女の自宅から発見されたのは、黒に近い濃赤のカーテンだ。見た目にはわかりにくいが、複数の人間の血が付着しており、現場で彼女が被ったと推測された。凶器も近々見つかるだろう。


 キッチンへ侵入したのは彼女自身ではなかった。だが、彼女の指示であることは間違いない。女性の運営する団体の職員だった男性は40歳代前半、彼女を妄信的に慕うことで有名だった。


 案の定、カップから検出されたのは睡眠導入剤だ。普通なら多少の眠気を感じるだけで済むだろうが、疲れていたコウキは薬の作用で眠ってしまった。


 犯人が被害者を眠らせるのに使われた薬と同成分が検出され、最後の犠牲者になり損ねたことを示している。


 連続殺人犯は彼女で間違いないと思われ、事件は解決へ向かっていた。






 ばさり、書類が乾いた音を立てた。


「稀有なる羊、何が不満だ?」


 資料を速読した殺人犯は笑顔で小首を傾げる。


 かつてと同じ黒いシャツを羽織り、先日のケガの包帯は見えなかった。束ねられた膨大な資料を簡単に読み、最初に吐いた言葉がこれだ。


「不満?」


 俺が不満に感じていると? 逆に問い返したコウキへ、ロビンは笑みを深めて頷いた。


「自らの才覚で彼女を捕らえ、お前は生き残った。だが気に入らないからオレに資料を見せた。何を言って欲しい?」


 はっとした。


 に落ちないから、納得する答えがないから彼に資料を渡した。自らが見落とした何かに、彼なら気づくだろうと考えて頼ったのだ。質問する手間すら省いて。


「稀有なる羊、彼女は確かにロトの娘だ。お手柄だな」


 褒める言葉の裏に「お前の気づいていない何かがある」と告げられた気がする。被害妄想なのか、彼に操られているのか。判断できずに視線をそらした。


 くすくす笑い出したロビンが立ち上がり、部屋の中を歩いて鉄格子に近づいた。冷たい格子に手を触れ、かるく握りこむ。


「モーセを知っているか? 彼はイスラエル人であり、エジプト王女の養い子であった。彼はエジプト人を殺しているにもかかわらず、神のお告げを受けた預言者とされている」


 格子を掴んだ手を離し、握りこんだ際についた十字の痕をみつめてから手のひらを天に向けた。救いを得ようとする姿に似て、不思議な神聖さに包まれる。


「イスラエル人を恐れたファラオの殺戮は神の采配に過ぎず、それを咎めた預言者は殺人の罪を背負っていた。アベルを殺したカインと何が違う? なぜモーセはゆるされたのか」


 ロビンは肩を滑った三つ編みを背に戻し、伸ばした手を胸の前で握りこんだ。


「ファラオの命令でモーセを追った兵に何の罪がある? 逆らえば殺されるというのに、彼らは海の底へ沈められ、神の預言者に背いた存在としておとしめられた。ファラオの初子も含め罪もない数え切れなぬ幼子を殺した神の所為で、エジプトは多くの命を奪われた『被害者』だ。モーセは神という『虎の威を借る狐』に過ぎない」


 旧約聖書の中で奇跡として映画化もされた場面だ。


 紅海こうかいに追い詰められたモーセが杖を掲げ、それに応えた神が海をふたつに割った。そこを歩いてイスラエル人達は難を逃れたという壮大な物語だ。


 だが、確かに兵達に罪はない。あの時代、ファラオに背くことは死を意味した。本人だけではなく、家族や親族も奴隷にされたり殺される可能性があったのだ。


 イスラエル人奴隷の解放を拒んだ王を戒める為だけに、彼の子だけではなくエジプト人の初子はすべて撃たれた。その子供達にどんな罪があったのだろう。親の罪を子にあがなわせたとでもいうのか。


「王に逆らう術をもたない哀れな彼らを、神は見捨てた。唯一絶対なる力を誇る神は、エジプト人だというだけで兵を海に沈め、無垢な赤子をも撃ち殺した。そこに合理的な理由はるか」


 淡々と神を切り刻み非難した男は、最後にこう締めくくった。


「これがお前の不満の理由だろう?」


 コウキは何も言葉が出なかった。


 彼女がなぜコウキを狙ったのか……それがわからず、己のプロファイリングに限界を感じた。


 もちろん精神医学を専門とするコウキは捜査官ではない。解決できない事件があったとしても落ち度にはならなかった。


 だが、満足できるわけではない。


 理解できない謎は胸の中でしこりとなり、消えることなくとげを刺して訴えるのだ。己の力不足を―――。


「お前には……」


 わかったのか? 理解できているのか?


「さて、どうだろう」


 かわして笑う、その口元は自信に満ちている。


「お前も理解している筈だ、それを認めたくないだけさ」


 全ての謎を解いたと言わんばかりの顔で、彼は優雅に一礼して見せた。後ろに足を引いて、幕が引かれる舞台の役者のように、ロビンはコウキへ手を差し伸べる。


「お前はオレだ、稀有なる羊」

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