第一章 第四話

 ほんの一瞬の出来事だった。

 風に煽られたケーキを押さえるために左手を放し、一瞬スピードを緩めた一哉のバイクと、一哉を追い詰め様とスピードを上げたワゴン車。それが、たまたま偶然に重なった。

 一哉はほぼ真後ろからワゴン車に追突され、片手をハンドルから離していたこともあり、宙に浮きワゴン車のフロントガラスに激突。

 二台とも走っていた状態だったため、その激突自体は大きなモノではなかった。

『グワッ! やべっ』

 しかし、走っていた速度がゆうに百キロを超えていたことが、一哉を簡単に二十メートル以上、跳ね飛ばした。

 簡単なことである。

 高速で走っている新幹線から落ちた小石でも、運動エネルギーとしては、新幹線と同じである。新幹線と同じ速度で「飛んで」 いるのである。

 一哉は、百キロ以上のスピードで空を飛んでいたことになる。その時間は数秒。

 プロ野球のピッチャーがマウンドから投げた瞬間から、キャッチャーが捕球するまでの時間と同じか僅かに長いくらい。恐らく一秒か二秒に満たなかったであろう。しかし、一哉にはもっと長く感じられた。

 痛いとか寒いとかの全身の知覚は無くなり、思考力だけが通常の数倍の速度で回転する。

『まずい! ケーキ大丈夫か? また戻ってもケーキ屋やってるかな。売れ残ったケーキは捨てるって言ってたけど、もう捨てちまったか? ああ、あのビルにカラオケってあったんだ。勇太の音痴は直らねぇだろうな。そう言えば、蛍子のやつ勇太の和菓子美味しくなったって誉めてたな。一度、買いに行くか。しかし、いちごのケーキ、崩れていたらマジどうしよう。菜摘、怒るだろうなぁ』

 流れる夜の街と雨の風景。思考と感覚だけが身体から離れたように自らを写す。人々の住む世界を別の次元の窓から覗いている様だ。時間とか速度とか温度とか、様々なことが一哉自身が感じていたモノとは違う、全く別のことのようなのだ。ヘルメットのシールドに付着した雨水が、ネオンサインの光に尾を引いて、鈍く輝く。その輝きの中に、菜摘へのプレゼントの入った化粧箱が通り過ぎる。一哉は手を伸ばして掴もうとするが、僅かに遅く、化粧箱は視界から消えた。

『菜摘、菜摘……』

 その直後、背中と後頭部に強烈な衝撃を受け、一哉の思考は停止した。

 歩道に無残に転がる一哉。

 雨が一哉を濡らす。半開きのシールドから覗く一哉の視線の先に、横転したGPZ900R。そのバックミラーに括りつけられたビニール袋で停止していた。

「きゃあー」

「事故だ、事故っ」

「誰か! 誰か救急車」

 一哉が跳ね飛ばされた衝撃でポケットから零れ落ちた携帯電話。一哉の数メートル先の、並木の植え込みの陰に落ちた。

――新着Eメール。菜摘

 赤いイルミネーション。

 雨が点滅していた小さなイルミネーションの明かりをくすませる。

「事故だっ、救急車!」

 事故現場に走る群衆。

 ワゴン車は、一時的に停止したものの、集まる群衆に怯えたのか、タイヤを軋ませて走り去った。

「どこ? バイク?」

「ひき逃げ?」

「バイクが跳ねられて、車は海の方に逃げたっ!」

「ひき逃げ? ひどーい」


 遠くで救急車のサイレンが聞こえる。

 降り続く冷たい雨が、心なしか弱くなったようだった。



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