第32話

 



「お帰りなさい、まーくん。今日もお仕事、お疲れ様♪」



「あぁ、うん。ただいま」



 昼休みの後、目の前の割り振られた仕事を片付け、数時間が経過した。



 今日も仕事をほぼ定時で終え、俺は早々と家にへと帰宅した。



 そしていつもの様に、香花は俺を玄関で出迎えつつ、そう言ってきたのだ。



 ちなみに、ちゃんと俺との約束を守ってくれているみたいで、昨日みたいに飛びついてきたりはしてこなかった。



 正直なところ、守ってくれるかどうかは半信半疑だったが、こうして今日は普通に出迎えてくれている。



 そんな彼女の殊勝な心掛けに、俺はほっと一息吐き、安堵した。良い傾向だと思う。



 香花からしたらそれは、俺に対する愛情表現としての一種であり、俺に好意を伝える為の手段でもある。



 しかし、彼女は考えたりはしないだろうが、それをやられる俺の身にもなって欲しい。



 あれを毎回の様にやられれば、必ずいつかは俺の身が持たなくなる。



 身体を鍛えている訳でもないので、どこかしらで香花を受け止めれなくなるのは、必至だと言える。



 なので、禁止という決定は彼女の事を思ってでの判断なのだ。



 香花からしたら不満かもしれないが、これも彼女の為だ。そして、俺の為でもある。



 これからもこうして、しっかりと守っていって貰いたいものだ。



 ……ただ、その為には俺も、彼女との約束を守っていかないといけないからな。俺もしっかりと頑張ろう。



「けど、嬉しいな。今日もちゃんと、早く帰ってきてくれたんだね」



「まぁ……特に忙しいって訳でも無かったし、仕事の量的にも多くはなかったから、早めに終われたんだ」



「えへへ、良かった♪ これで今日も、まーくんといっぱいお話が出来るね♪」



「そう、だな……」



「楽しみだなぁ……ふふっ♪ あっ。それ、持ってあげるね」



 香花はそう言うと、玄関で佇む俺の手から鞄を奪い―――もとい、取り上げて、両手で胸の前で抱える様にして持った。



「あ、あぁ。ありがとう」



「どういたしまして♪ じゃあ、行こっか」



 そしてそのまま、奥の部屋にへと向かって歩いていった。



 玄関で立ち話をするよりかは、ゆっくりと座って話がしたいのだろう。彼女が言いたいのは、そういう事だ。それくらいは、俺にだって分かる。



 俺も仕事終わりで疲れているし、このまま玄関で立ったままでいる訳にもいかない。



 ここで反目する必要も無いので、ここは彼女に付き従っていこう。



 そう考えて、俺は靴を脱いでから綺麗に整頓し、香花の後ろを着いていく。



「あっ」



 すると、唐突に香花がその歩みを止めた。前を歩いていた彼女が足を止めてしまったので、俺も付随して止まった。



 何かあったのだろうか、と俺が思っていると、香花は俺の方にへと振り返り、また近付いてきたのだ。



 そして傍まで寄ってくると、彼女は何も言わずに俺の顔をじっと見つめてきた。



「……」



 食い入る様な視線で、決して逸らしたりはしてこない。一体、どうしたというのだろうか。



「ど、どうかしたのか……?」



 彼女に見つめられ続けて、居た堪れなくなった俺はそう言って彼女にへと尋ねた。



 そういう風な行動をしてくるという事は、何かしらの言いたい事があるのだろう。



 という事はまた何か、俺はやらかしてしまったのだろうか。しかし、思い当たる節は一つも無いのだが。



「……」



「きょ、香花……?」



「……ちょっと、ごめんね」



 彼女はそう言うと、両手で抱えていた鞄を片手で持ち直し、空いた方の手で俺の左手を掴んできた。



 急な事だったので少し驚いたが、それだけでは終わらなかった。



 彼女は掴んだ左手を有無を言わさずに、自分の目の前にへとぐいっと近づけたのだ。



 当然の事だが、俺はそれに抵抗したりはしない。唐突な行動でも素直に従い、左手の行方を彼女がしたい様に委ねた。



 しかし、それがどういう風に繋がるのかは分からない。俺はただただ、彼女の動向を静かに待った。



 そして今度はしばらく左手をじっと見つめていた香花だったが、不意にくすっと笑みを零したのだ。



「やっぱり、良く似合ってるね」



「ん?」



「腕時計。まーくんに似合ってるよ」



 そう言いながら、香花は自分の手を俺の左手から腕時計にへと移動させる。



 腕時計のベルト部分を撫でる様にそっと触れ、彼女は満足そうに笑った。



「これにして良かったなぁ。私ね、どれがまーくんに合うか、ものすごく考えて選んだんだよ。とっても時間が掛かったんだからね」



「そ、そうだったんだな。ありがとうな」



「えへへ♪」



 改めて香花に向けてお礼を言うと、彼女はその表情を綻ばせてみせた。



 似合ってると彼女は言ったが、今日の昼に神谷と津田の二人にも同じ事を言われている。



 そう考えると、彼女の選んだセンスは良かったのだろう。俺が選んでいたら、きっとこうはならない。



 これを選んでくれた事を、俺は心の中でもう一度、彼女に感謝した。



「……でも、駄目だよ」



「えっ?」



「ちょっとだけ、汚れてる。今日あげたばかりなのに……」



 笑顔から一転して、むくれた顔をして彼女はそう言ってきたのだ。



 汚れてる? どこが、どの部分が……? 時計の表面かそれとも彼女が触れたベルト部分……?



 腕時計をよく見回して見てみても、俺にはその汚れている部分がどこなのかははっきりとしなかった。



 どこをどう見ても、今朝に貰った時と比べて変わっている様には見えない。買った彼女だからこそ、分かるというのだろうか。



「ご、ごめん……」



 とりあえず、俺には分からないのでそう言って謝っておいた。



 分からなくても、彼女はそう言って主張しているのだから、謝っておかないと機嫌を損ねてしまうだろう。



「もう、気をつけてね」



「すみません……」



「じゃあ……はい」



 そして彼女は空いた手を広げ、俺にへと真っ直ぐ差し伸べてきた。



「また綺麗にしてあげるから、それ。私にちょうだい」



「えっ? いや、でも。俺が汚したんだから、俺が……」



「いいから、貸して。まーくんも疲れてるだろうし、私がやっておくから」



 俺の言葉を遮って、彼女はそう告げてくる。はっきりとした彼女の言葉を前にして、俺は何も言えなかった。



 こうなってしまっては、香花は梃子でも動きはしない。何を言っても通じはしないだろう。



 ここは黙って、彼女に従うしかない。俺は腕時計を外して、香花にへと手渡した。



「うん、ありがとう」



 受け取った彼女は広げた手をぎゅっと閉じ、落としてしまわない様に握り締めた。



「それじゃあ、綺麗にしてまた返すから。まーくんは待っててね」



「あ、あぁ……」



「貰って嬉しいのは分かるけど、あまり人に見せつけて汚しちゃ駄目だよ? もっと大切に扱ってね」



「気をつけます……」



「うん、よろしい♪」



 そして香花は俺の鞄と渡した腕時計を持って、また奥にへと向かって歩いていった。



 しかし、参った。気づかないところで、汚していたというのだろうか。



 仕事中か食事の時か、それとも帰宅途中か……。それがどのタイミングだったかは分からないが、もっと注意しないとな。



 ん……? そういえば、香花は見せつけたら駄目だと言ったが、俺は彼女に……腕時計を誰かに見せたと言っただろうか。どうだったか……?



 ……いや、多分は香花の予測、それか予想だろう。俺がプレゼントを貰って舞い上がり、周りに見せびらかしたと、彼女はそう思っているに違いない。



 そう思っての言葉なのだろう。なら、気にする事も無いだろうな。



 終わった事をいつまでも考えていても仕方ないので、俺も自分の部屋にへと向けてまた歩き出した。



 早いところ着替えを済ませて、香花を待つとしよう。



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