第16話

 



「ふぅ……疲れた」



 朝からずっと着ていたスーツを脱ぎ去り、俺は部屋着である無地のTシャツとズボンを衣装ケースの中から取り出して、それを身に付ける。



 香花と暮らす前までなら、この様な習慣はあまり無かった。帰ってくるなり、部屋着に着替えるなんてしてこなかった。



 疲れて帰ってきて、そこから着替えるという行動が面倒だと感じていたからである。あの頃の俺は、少しの手間で済む事でも、惜しんでしなかったのだ。



 良くて特売品の安物なジャージを着たり、最悪の場合は下着で過ごす様な物臭な生活を送っていた。どちらも生活する分には楽だったから、いつしか常態化していた。



 しかし、今ではそれが改められた。いや、改めさせられたというべきだろうか。



 持っていたジャージ類は全て香花の手によって処分され、その代わりに今着ている様な服を選んで買ってきて、それを渡されているのだ。



 ジャージは外着も兼ねていた事もあって、それも含めて彼女は購入してきている。



 そして何気なく渡されたレシートの金額を見た時、俺はかなりの出費であった事に驚愕したものだ。



 服飾に関して、あそこまでの金額を使った事の無い俺からすると、それは衝撃的な出来事だった。



 なので、俺の普段着の現状は、そのほとんどが彼女のプロデュースによって選ばれたものである。



 俺が今まで着ていた服、選んだ服も少しはあるが、それはほんの一部でしかない。彼女が選んだ服の方が圧倒的に多い。大半を占めている。



 そこまで香花にされると、今までの自分が何とも不甲斐無く思えてくる。いや、実際はそうだったのだ。



 衣装ケースに入っている服も、彼女がきっちりと畳んだ上で収納してくれている。俺に代わって、ちゃんと管理してくれているのだ。



 一人暮らしの頃であれば、その辺に転がしておくだけで終わっている。その光景を、彼女も初めて家に上がった時に見てはいる。



「俺もしっかりとしないとな……」



 香花と暮らす様になって、どこか彼女に頼る様になっている節がある。このままだと、俺はこういった面では彼女に依存せざるを得ない。



 それが嫌なら、俺は自立するしかないのだ。この先も香花に頼っている様なら、俺は彼女から離れられなくなる。



「必要な事は、俺もする様にしよう。うん」



 そう決意を新たにし、着替えを済ませた俺は香花のいる台所にへと足を運んだ。



「あっ、まーくん。ちょっと待っててね。あともう少しで、出来上がるから」



 台所では、香花が何かの準備を進めている。夕食の準備をしているのだと思われるが、いつもと比べると動きが違ってみえる。



 何が違うのかというと、動きが軽快なのだ。作業自体はいつも通りスムーズに事が進んでいるが、どこかそわそわしている様にも思えた。



「~♪ ~♪」



 鼻歌混じりに作業を進める彼女の姿を見ると、やはりいつも以上にご機嫌な風に感じられる。



 何か彼女をそうさせる、嬉しい事でもあったのか。俺に思いつくのは、俺が早くに帰ってきたとか……そのぐらいだった。



 それ以外の理由を、俺には思いつけなかった。全くといって、心当たりが無かった。



「……ふふっ♪」



 嬉しそうに香花は笑う。何が嬉しくて、彼女は笑うのか。そんな仕草をされると、どうも気になってしまう。



(ひょっとすると、何か企んでいるんじゃないだろうか……)



 悪い事では無いかもしれないが、場合によっては、俺に何らかの災禍が降り注ぐ可能性もある。



 彼女にとっては善意でも、俺にとってはそうじゃない場合もあるのだ。そんな香花の独善的な行動は、何度も目にしてきている。



(嫌な予感がするし、ここは聞いてみるのもいいかもしれない……)



 多分、何なのかという理由を聞けば、彼女は快く答えてくれるだろう。



 香花は基本的に、俺に対して隠し事はしない。常にオープンで接してくれる。包み隠さず、教えてくれる。



 何故なら、自分が悪いとは思っていないからだ。彼女がする事は全て、彼女にとって正しい事なのだから。



 独善とはそういう事なのである。だからこそ、隠し事はしない。その必要性が無いから、してこないのだ。



「何か良い事でも、あったのか?」



 俺はそう言って香花に話を振った。言わばこれは、予防策である。俺が酷い目に合わない為の手段なのだ。



「えっ?」



「いや、やけにご機嫌だからさ。何かあったのかと思ってさ」



「……ふふっ」



 香花はクスッと笑うと、作業をする手を止めた。そして体の正面を俺にへと向けてきた。



「やっぱり……分かっちゃうよね」



「ま、まぁ……いつもと比べると、どこか嬉しそうに見えるからな」



「そうだね、嬉しいよ。今日という日は……とっても幸せで、大切な日だから」



 そう言っている間も、香花はくすくすと笑っている。



 しかし、とっても幸せで、大切な日。それは何なのだろうか。分からない。



 今日は俺の誕生日でも無いし、彼女の誕生日はまだ先だ。それには該当しないはずだ。



 なら、香花が言っているのは何の事なのか。



「だって……今日は記念日なんだよ?」



「記念日……?」



 そう言われても、俺にははっきりとそれが分からない。何かあったか思い出そうにも、何一つ出てこない。



 ひょっとすると、それは彼女にしか分からない事なのかもしれなかった。それなら俺が分からないのも無理はない。



 けれども、それは次に発した香花の言葉によって否定される。俺が気づかなかっただけで、俺でも分かる様な事だった。



「そう。私と、まーくんが……付き合い始めてから半年を迎えた、大事な記念日だよ」



「……あ」



 半年記念日。付き合い出してから半年が経った、記念すべき日。香花の言いたかったのはその事だった。



 それをご満悦な表情で彼女は語るが、俺はそれとは逆に、血の気が一気に引いていくのを感じ取った。



 まずい。非常にまずかった。全身が凍りつきそうな危機感に襲われる。そういった事を、俺は完全に失念していた。



 月日の経過としては分かっていたものの、そういった意味合いでの考えが、俺にはまるで無かった。



 そしてようやく俺は合点がいった。彼女が今朝から起こしていた行動の一つ一つに、意味があった事を。



 早くに帰ってきてと言ったのも、指切りまでして約束をしたのも、全てはそこに繋がっていたのだ。



 迂闊だった。何で俺は、それに気づけなかったのか。なんて、今更考えても遅かった。



 間違いなく、香花はこの記念日に合わせて何かを用意している。目の前で作られていた夕食も、その一部だろう。



 しかし、俺は何も用意していない。今になって気づいたのだから、用意している訳も無かった。



 こんな事なら、津田の意見を早々に採用しておけば良かった……そんな事を考えてみても、どうにもならない。



 真っ直ぐ帰ってこいと、寄り道する事を禁じられていたのだから、買いにはいけなかったのだから、考えても仕方ない。



 どの道、俺が記念日の存在に気づけなかった時点で、詰んでいた。こうなる運命は、今日を迎えたところで定まってしまったのだ。



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