異世界継承譚マグナ=グリモア

節兌見一

序章

0-1-1 黒城閉人

 鬱。それは心の病である。

 一回目。


「もう嫌だ。こんな世の中も、自分も、全部」

 青年、黒城閉人こくじょうへいとは自宅マンションの屋上から飛び降りた。

 しかし、強風にあおられて常緑樹に墜落、無数の枝がクッションとなる。

 生存。



 鬱。それは社会不適合者のやっかみである。

 二回目。


「畜生、俺は本気だぞ」

 青年、黒城閉人は茶碗一杯の睡眠導入剤を業務用アルコールで胃に流し込んだ。

 しかし、睡眠導入剤が消化吸収される前に嘔吐。呼吸困難になっている所を搬送される。

 生存。



 鬱。それは目を背けてはならない心の傷である。

 三回目。


「どいつもこいつも死にぞこないだと馬鹿にしやがって。吠え面かきやがれ」

 青年、黒城閉人は通勤ラッシュの駅のホームから飛び出した。

 しかし、丁度その直前に酔っぱらいが別のホームで転落して緊急停止ボタンが押され、総武線蘇我行きは閉人の前で緊急停車した。

 生存。



 鬱。それは後になってみれば馬鹿馬鹿しい思い込みである。

 四回目。


「今度こそ死んでやる。今度こそ……ッ」

 青年、黒城閉人は愛用の自転車を縄で足に括りつけ、雨の日の荒川に身を投げた。

 しかし、荒川を遡上していたコバンザメが縄を噛みきり、近くを通った屋形船に救助される。

 生存。



 鬱。それは失敗体験にもとづく無気力な状態である。

 五回目。


「はぁ……どうせ、死ねないんだろ?」

 青年、黒城閉人は全身に蜂蜜を塗って北海道の山奥に飛び込んだ。

 しかし、親切な森のクマさんに助けられ鮭を分けてもらう。

 生存。



 鬱。それは未だもって全容の知れぬ人間の暗黒面である。

 六回目。


「もう、楽にさせてくれ……」

 青年、黒城閉人(こくじょうへいと)は四三度に熱した湯船に浸かり、手首をカッターで掻ききった。

 しかし、直後に風呂場で足を滑らせて風呂場に転倒、失神。流血状態を家族に保護される。

 生存。



 鬱。それは死に至る病である。

 七回目。


「……」

 青年、黒城閉人は自宅で首を吊った。

 しかし、縄は切れず、誰も助けに来ず、縄の結び目もほどけない。


「死ねる……今度こそ死ねるぞ……ッ!」

 結果、行方不明……



 閉人の家族が見つけたのは七度目の遺書と、部屋の天井にぶら下がった縄のみ。

 閉人の死体は何処を探しても見つからなかった。

 部屋には鍵がかかっていたし、八階の窓からどこかへ逃れることも出来ようはずがない。

 遺書を読む限りでは、今さら死に方を変えたとも思えない。


「探さない方がいいんじゃないか?」

「正直、な」

「もう、流石に死んでるよな……」


 消えた自殺マニアを探す者など、誰もいなかった。

 家族でさえ閉人はどこぞで死に遂げたのだと解釈し、後々まで多くを語る事は無かった。



 †×†×†×†×†×†×†



 で、実際のところ黒城閉人こくじょうへいとはどうなったのか。



 時計の針を自殺当時まで巻き戻す。


(逝ける! 今度こそ逝ける!)


 自室の天井に縄をかけてぶら下がっていた閉人は、死を待ち焦がれていた。

 縄の圧力で頭部が鬱血し、脳への酸素供給が停止することで意識が朦朧としていく。

 頸椎は閉人の自重に耐えきれず軋み、へし折れてしまうのも時間の問題であった。


(死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ、やっと楽になれる……)

 白目を剥いて泡を噴きながらも、閉人は喜んでいた。


(この世界が嫌いだ。こんな世界で燻っている自分がもっと嫌いだ。無になりたい……)

 閉人の思考は死に向かう低酸素の中で、人生最高の盛り上がりを見せた。


(死ぬぞ、死ぬぞ、死ぬぞ、死ぬ、ぞ、死……ぞ……死……)

 頸椎がへし折れようとした、次の瞬間であった。


「ぐぇ!?」


 閉人は、地面に投げ出されて全身を強打した。


(縄が切れたのか……?)

 ぼやけた意識の中、閉人は自殺に失敗したことを悟り、絶望した。


 だが、奇妙であった。


「ありさくおおきえす?」

「をうかぃえきぬぐす、あぬるすんあづぃ」


 若い女の、聞き取れない言語で話す声が二つ。

 暗い部屋の中にいたはずなのに、瞼の向こうは妙に明るい。


(もしかして、天国?)


 ふと浮かんだ推測を、閉人はすぐに否定した。


(馬鹿、自殺したヤツが天国なんかに行けるもんか。つーか、やっと死ねたのに何でまだ『俺』が存在していやがる……ッ!)


 と、むしろ悔しがった。


 閉人が自殺するほどまでに憎んだのは客観的世界であり、それを観測する自分である。

 死ぬことでその両方とオサラバできると思ったのに。


(また、失敗か……)


 鬱々とした気分で閉人は目を開いた。

 だが、事態はそう単純ではなかった。


「……?」


 目を開いた閉人の顔のすぐそばに、見知らぬ少女の顔があった。

 白磁の肌に白金を梳いたような髪をした姫君。

 その銀の瞳が閉人の顔を穴が開くほどに見つめていた。


「あかちこ! おうかぃえくあやふ!」


 姫君とは別の女の声が何かをまくし立てる。


「いは!」


 姫君は頷いて見せると目を瞑り、ゆっくりと唇を閉人の額に押し当てた。

 つまり、キスだ。


「っ!?」


 それだけではない。

 閉人の中で何かが『切り替わった』。


「な、何してんだよアンタ!?」


 閉人は首を吊ったばかりの掠れ声で驚きの声をあげた。

 しかし、奇妙だ。

 閉人は言葉を日本語で発音していなかった。

「何してんだ、アンタ!?」を意味する、全く別の言語で声をあげていたのである。

 日本語と謎の言語がダブって聞こえるような、奇妙な感覚。


 男たちのどよめく声が、閉人にも理解できるように周囲から漏れ聞こえてきた。


「な、何だコイツ!? 黒い髪に黒い瞳、悪魔を呼んだか!?」

「姫巫女め、変なのを呼び寄せやがって!」


 縄目の残った首を捻って、閉人は辺りを見回した。


「何だ……こりゃ……」


 背に感じる地面は土。

 周囲には黒装束の男たちが武器を構え、何やら不穏な敵意を姫君に向けている。


 場所はよく分からない。

 石造りの廃墟以外、視界にはだだっ広い草原と曇り空だけが広がっている。


 そして、目を引くものがもう一つ。


「姫様、呼び出せましたか!?」


 姫君を男たちから庇うように立ち回る女騎士だ。

 女騎士は、周囲の黒装束たちと姫君の間で槍を構えつつも、目だけで閉人の方を見やった。


「こいつが、姫様の『守護者(ガーディアン)』……?」


 紺色のクセっ毛を肩の高さで結い、宝石のように澄んだ瞳を煌めかせている。

 全身を金属細工の銀鎧で包んでいるが、無骨さよりも先に、妙な凛々しさが感じられた。

 その出で立ちは、日本人どころか地球の如何なる現代人にも見えない。


「まさか……」


 ジトリと、閉人の背筋を嫌な汗が濡らした。


「まさか、『異世界』ってヤツなのか……?」


 よくあるホラ話だ。

 地球で死んだ人間が別世界で生まれ変わる。

 都市伝説以下のホラ話、現実逃避の妄想だと思っていた現象が今、自身に起きているのではないか……?


 首吊りによって朦朧としていた閉人の頭脳に酸素が供給され、意識が覚醒する。

 呼び覚まされたのは、驚きでも喜びでもない。


「ふざけるな!」


 怒りだ。

 閉人は飛び起きて叫んだ。


「俺はなぁ、異世界来るために死んだんじゃねぇんだよ! 自分が大嫌いだから、世の中ってのが大嫌いだから自殺してんだよ! それだってのによぉ!」


 閉人が思いの丈を叫ぶと、周囲の人々はポカンとして閉人を見た。


「何だ、コイツ。世界が大嫌いとか、やっぱり悪魔か!?」

「射っちまえ!」


 黒装束の一人が弩弓を構え、閉人の心臓に狙いを付けた。


「危ない!」


 姫君が閉人を庇うように躍り出た。


「これ以上邪魔すんな!」


 躍り出た姫君をさらに押し退け、閉人は矢面に進み出た。


 ザクリ。

 矢が閉人の胸の中心に突き立った。背中から矢が飛びだし、肉の裂ける嫌な音がした。心臓を貫通している。


「ああ、痛ぇ……」


 周囲が唖然とする中、閉人は痛みを噛み締め、穏やかな声で呟いた。


「これで、今度こそ死ねる……この鬱々とした気分ともおさらばだ……」


 胸の痛みは、今までどんな死に方を試みても辿り着けなかった、死の痛みだ。

 閉人は胸を射抜かれた勢いのまま後ろに倒れ込み、意識が消滅する瞬間を、今か今かと待った。


「無だ。俺は無になるんだ。二度と嫌なことを考えたりしなくていい、こんな苦しい目にも遭わないんだ……!」


 安らかに、目を瞑った。

 が。


「…………………………ん? 死んでなくない?」


 意識はむしろ明瞭としている。

 ただ、ズキズキと気の狂いそうな痛みが続いていた。

 目を見開いて傷口を見れば、依然に手首を切った時の半分も血が出ていない。

 死が……来ない。


「う、そ?」


 さらに、傷口から流れ出ていた血が逆流し、傷の中へと戻っていく。

 心臓を貫いていたはずの矢が傷口の肉の動きによって排出され、何事も無かったように地面に転がった。


「……は? 何これ?」


 閉人は矢を射た相手を見やったが、相手も目を丸くしている。

 驚いているだけではない。

 彼らの目は、『化け物を目の当たりにした目』になっていた。


「げぇぇぇッ! こいつは『不死者』だ!」

「聞いてねぇぞ! 割に合わねぇ!」

「姫巫女め、とんでもないのを呼び出しやがった!」


 黒装束の男たちは戦意を喪失したのか、諸手を上げて逃げ出した。


「おい待てよ! 首を刎ねれば殺せるかもしれないだろ! 諦めんなって!」


 閉人は逃げ去っていく襲撃者たちを鼓舞したが、そんな事をしても逆効果である。

 危機が、死が、去っていく。


 黒装束たちが去り、後には謎の姫君と女騎士だけが残った。


(……また死に損なっちまった)


 閉人の顔は、逃げ出した男たちの何倍も青ざめていた。


「だ、大丈夫ですか……?」


 それを見ていた姫君は心配そうに閉人に訊ねるが、


「大丈夫じゃない……見てくれよ、傷が……」


 閉人は憔悴しきった顔で、塞がってしまった傷を撫でた。

 それを見て女騎士が唸る。


「ふむ、傷が完全に塞がっているな……何はともあれ危機は去った。良かった良かった」

「んなワケあるかぁ!」


 閉人は激昂し、


「ぐぇっ」


 うっ血していた脳で激したために、閉人の脳内血管が破裂した。

 閉人は泡を吐いて白目を剥き、卒倒した。


 だが、やはり死ねない。


「……姫様、お怪我はありませんか?」


 紺色の髪をした女騎士が訊ねると、姫君は閉人の身体を助け起こして頷いた。


「この方が庇ってくださったおかげです」


 姫君は土気色の顔で気絶している閉人の顔をそっと撫でた。その目は感謝の気持ちで潤んでいる。

 対して、女騎士の目は冷たい。


「こんな奴が姫様の『守護者(ガーディアン)』なのですか? 俄かには信じがたい……」

「でも、私を守ってくれました」

「……確かに、如何に不死とはいえ苦痛を顧みず姫様を庇うなど、滅多な覚悟ではできないでしょうが……」


 女騎士は訝しみつつも閉人の身体を軽々と担ぎ上げ、周囲を見渡した。


「取り敢えずここを離れましょう。更なる追っ手が来ないとも限りません」

「ええ」


 姫君が首から提げた笛を吹く。

 するとどこからともなく馬の駆ける音がして、銀の鎧を纏った騎馬が三人のもとへ参じた。


「お願い、フィガロ」

「ヒヒーン!」


 フィガロ。

 かの地の言葉で『灰』の名を冠した鎧騎馬は、姫君と少女騎士、そして白目を剥いて泡を噴く閉人の三人を軽々と背に乗せ、そのまま南方へと駆け去った。



『断章のグリモア』


 その1:『断章のグリモア』について


 かの世界の大地『ローランダルク大陸』では、魔文字によって記述された魔導書グリモアが大きな力を持つ。

 大陸の技術である『魔術』は魔導書グリモアと呼ばれる広義の記憶媒体に記憶されており、全ての出来事は一冊の『大いなるグリモア』に記述された物語であるというグリモア信仰も存在している。

 そこで、ここではその『大いなるグリモア』の断章を読み解き、黒城閉人の物語を補足する大陸知識を記すこととする。

 物語理解の一助となれば幸いである。


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